“時間”という概念だけはあらゆる芸術をもってしても描き切る事のできない永遠のテーマであり、リチャード・リンクレイター監督にとってのライフワークだ。『恋人までの距離』から始まる一連の“ビフォア3部作”で1組のカップルの18年を定点観測した彼はそこにキャラクターの時間のみならず俳優の人生、そして観客の実人生を照らし合わせた。時間とは常にそれを感じる主体があってこそ相対的に捉え得るものだ。
“ビフォアシリーズ”の影でその実験は推し進められていた。1人の少年の6才から18才までの少年時代をフィルムに収めていく…誰もが通る12年間は観る者の個人史と共鳴し、かくして普遍的な青春映画、家族映画となった。さらに彼らの遠景としてスケッチされる12年間のアメリカは未だ総括されてこなかった0年代のアメリカ史であり、そしてこの動乱の時代は家族を破壊もしなければ救いもしなかったのである。これはリンクレイターの集大成であり、0年代アメリカ映画史において重要な1本と言っていいだろう。
面白いことに文化系男子による青春モノとしても貴重だ。無垢な少年に翳りが射し、やがて彼はアートへと傾倒していく。かつてスクール映画に居場所のなかったマイノリティが今や映画の主役となる隔世は面白かった。文化系男子によって高校時代とは熱中し、背伸びし、そしてロマンチックであったものだ。
少年がそう育ったのも“父親”がイーサン・ホークであれば当然の事だろう。この12年間、リンクレイターとのコラボレート以外、食指の動く映画には一切出演せず、シワの数だけみるみる増やした彼だが、本作ではあの眩しい輝きをゆったりと円熟させていった様が克明に刻まれている。やんちゃな青年から父親の顔へ。それはユマ・サーマンとの泥沼の離婚を経てB級映画で食いつないだ彼の実人生そのものだ。近年、過小評価されてきた彼だが、一度セリフを話せば当代きっての現代口語劇の名手として抜群のグルーヴを発揮しているのも嬉しい。
もう1人、忘れられた12年間を過ごしたのが母親役のパトリシア・アークエットだ。90年代前半までこそヒロインとしてもてはやされたが、その後40代に至るにあたって活躍の場を失い、“デヴラ・ウィンガー化”していった。臆する事なく自身の老いをフィルムに残した本作で彼女は同世代のロビン・ライトが得たような渋味を持つ女優へと円熟している。息子の旅立ちを喜びながらも呪う終幕は本作で最も心揺さぶられるシーンであった。
音もなく過ぎ去る時間。本作は誰もの心に愛おしいあの瞬間を去来させる事だろう。思い出のアルバムのようにそっと秘めたくなる傑作である。
『6才のボクが、大人になるまで』19・米
監督 リチャード・リンクレイター
出演 エラー・コルトレーン、ローレライ・リンクレイター、イーサン・ホーク、パトリシア・アークエット
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