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信長所縁の地を行く旅 Day4 小牧山城

2016年10月16日 | 信長公雑記
目が覚めたら早々に、狭くて汚い金園のホテルから退去する。
(ほんと最悪だった)

岐阜駅から名鉄で小牧駅に到着。駅から小牧山へ歩いていく。
駅の近くに小牧山への道を示すマップなどがあれば良いと探すが、見当たらなかったので、自分で作っておいた資料を頼りに小牧山へ向かう。

信長はその居城を名護屋→清洲→小牧山→岐阜→安土と移してきた稀有なな戦国大名だ。
その織田信長が自らデザインした、始めての居城が『小牧山城』だ。
しかし以ほんの10~20年前まで小牧山城は、『信長の美濃攻略の拠点として一時的に作られた城と』解釈され、軽く扱われてきた感がある。
ところが近年、発掘調査で様々な新事実が発見され、恒久的な城として築かれた物と評価を改められている。
また、石垣の発見や整備された大きな城下町の存在、その安土城と似た城の構造は信長の城や城下町のひいては権力構造の雛形を示す物だと考えられ、最近ではその注目度を高めている。
何も無い所(山はあったが)に信長が始めて築いた自らの居城であるこの城は、信長の意思や狙いが見て取れ、大変価値の高い史跡なのだ。
その思想が受け継がれ完成された姿が近世城郭の大本と言える城、安土城となる。(本能寺の変が無ければ更なる居城を築いただろうが)


まあ、その辺の細かなところは、ウィキぺディアでも見て頂くとして…旅の話を進めよう。

小牧山

小牧山は公園になっていて、早朝のここはウォーキングや体操、犬の散歩をしている御老人達が多く、にぎやかだ。
小牧山の麓を囲む様にある家臣達の館跡。その中で一番大きな面積を持ち、信長の館跡と言われている場所に行ってみる。
信長の館跡
小牧山南東の山裾にある土塁に囲まれた一辺100m程の敷地が信長の館跡とされる。
かなり大きな敷地で驚かされる。
やはり『表』の役割があった場所なのだろう。ここにはこの朝、体操?をしている人達の姿があった。

大手道を登り『主郭の入り口にある巨石』を見に行く。

『二つに割られ、上に昭和天皇の銅像が立てられた巨石』
ここは門があったとされる場所で、この石は門、もしくは櫓門を支える『鏡石』の役割をした石だと、千田氏はその著書『信長の城』に書かれている。

千田氏は、小牧山城の石垣は小牧山で取れるチャート岩だが、この石は花崗岩である事、態々この巨石をここへ持って来た(山へ上げた)ことからも、この石が『鏡石』であると信長の意図を説明している。
またその著書には、真っ二つに割られた時期と理由も推理されており、面白い。

ともかく、昭和天皇の銅像を移動させるべきだと思いますな。
(なんでこんな重要な石の上に立てるんだ?)
清洲城跡の遺跡をぶった切る新幹線の線路などなど、愛知『文化度』は、一乗谷には遠く及ばない。

因みに、住宅地にある小牧山が削平され宅地化されていないのは、神君家康公の史跡として尾張徳川藩が保護してきたからであり、昭和天皇が陸軍の演習を小牧山から総監したから。
徳川家にとって『関ヶ原』より重要だった『小牧長久手の戦い』が無ければ、跡形も無かった可能性が高いと思いう次第。

多くの人が素通りする鏡石を過ぎて、主郭に上る。そこには模擬天守(内部は資料館となっている)がある。
開館時間まで二時間位あるので、周りの石垣や他の郭跡を見て過ごす。
すると、模擬天守の前である御夫婦に声を掛けられる。
この旅の目的や巡った土地を話すと、旦那さんも歴史好き(古代史)らしく、御自分が研究されている古代日本と朝鮮との関係について話し出した。
奥さんが『話し出すと止まらないよ』と忠告してくれたのだが・・・
この話が長い・・・長い・・・
奥さんの御蔭で、この話がやっと終った頃に開館時間が訪れた。


模擬天守内の資料館の展示は、秀吉と家康による『小牧長久手の戦いが』メインになっている。
最上階からの展望は、犬山城や岐阜城(金華山)が望まれ当時の風景と信長の戦略が偲ばれる。

この模擬天守の周りには、小牧山城の主郭を取り巻く様に築かれた段石垣も見受けられ、資料館内には『佐久間の墨書き』が残された石も展示されている。
いまだ発掘調査と整備が勧められているので、歴史ファンとしては期待するところだ。

昼前に小牧山城を後にする。
この四日間、重い荷物を背負って歩き回って来たので腰が限界に近づいていた。
そこで、小牧山と駅の間にあるショッピングセンターのフードコートで休憩。
醤油ラーメンを食べる。
『これが美味かったー!』
フードコートと侮る無かれ、こう言うシンプルで低価格&美味い醤油ラーメンて見なくなったなーと思うこの頃。(チェーン店のは好みじゃない)

この日は、これでお仕舞。
家路についた。

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