2016年4月の上旬から岐阜県・福井県・滋賀県・愛知県を3泊4日プラス一日で巡ってきました。
旅のお供は『信長公記』『日本史(ルイス・フロイス)』『信長の城』三冊の本と『青春18きっぷ』。
そう、資料を頼りに城跡や古戦場で往事を想像する。
そんな兵どもが夢の跡を巡る旅に出て来たのです。
山に行く時も旅に出る時も、限られた日数でどこを巡るかなど考える、そんな計画時は楽しのだが、出発前日から出発直前は行くのが面倒くさくなって・・・(荷物のパッキングと忙しさが原因か?)
でも、いざ玄関を一歩出た瞬間から体の中から『わくわく』溢れてくるのは、これも毎度の事。
そう、今回も同じだった。 笑
富士川駅辺りから見る「どーん」と、そびえる富士山の「ばかでかさ」に感動し、列車が西へすすむほど、少しずつ変わってゆく乗客たちの言葉(なまり)に耳をそば立て、またその土地土地の景色の違いに気が付いたり、(風土の違いって奴だ)のんびり鈍行で行く旅ってのは、まったくもって面白いもんだ。
(乗換えが多かったり、時間がかかるので多くの場所を巡るのには適さない点もあるが)
決して鉄道オタクでは無い俺だが、普通列車で行く旅ってのは本当に味わいのあるものだと思う。
さあ、そんなこんなをやったり思ったりしていると、11時に岐阜駅に到着。
旅初日は、岐阜県岐阜市の岐阜城へ!
山頂にちょこんと建つのは模擬天守。
じつは今回で三回目の岐阜城。(もう慣れたもんで、帰って来た感すらある 笑)
JR岐阜駅からバスで岐阜公園に向かい、とりあえず岐阜歴史博物館に入館。
ここも三回目なのだが、今まで巡ってきた歴史博物館の中でも、ここは結構好きな博物館だ。
特に『楽市立体絵巻』が好きで、その展示の一つ、信長が供応に出したと伝わる料理の模型(食品サンプル)を見る度に腹の虫が鳴るのは毎度の御約束。
そうそう、岐阜県の郡上八幡は盆踊りで有名だが、食品サンプルでも有名。
一度行って見たい所なのだ。(キンキンに冷えたビールの大ジョッキのサンプルが欲しい)
近くで当時の遊戯(双六や独楽回し等)を説明しているボランティアの方に「この料理を再現して、食べさせてくれたら最高なんですけどね」と言ったところ「いや~難しいんじゃない?」と返される。
確かに食材に『鶴』とかあるので完全再現は難しいだろうが、9割は再現は可能だろう。
うるか・鮑などの珍味と高給食材が多いいので、値は張ると思うが・・・
予約制にしたら結構需要もあるのでは??と思うのだが、どうだろう。
博物館を見て回ったら岐阜城(金華山)の山裾にあった信長の御殿跡に行く。
信長は山頂の城で家族と供に生活していたが、政務は麓の館で執る事が多かった様で、山頂と山裾の御殿を行き来していたのが当時の記録に見られる。
因みに、用のある家臣は館へ至る道で待っていて道端で信長に話しかけるのが通例であったそうな。堅苦しい『儀礼』や『しきたり』を省ける立ち話の形で来訪者や家臣と面会していた訳。
約四百年前、山頂から七曲口を下りて来た信長を御殿と七曲口の間の何処か、今は岐阜公園として整備されている辺りでフロイスや山科言継と立ち話をしていた様子を想像してみる。
また、当然だが、この公園の辺りに柴田勝家や佐久間の館や、当時出頭激しい秀吉の館もあったのだ。
『どの辺りに住んでいたのかなぁ~この辺かな?』などと想像しながら公園内を歩く。
その場所へ行き『あの人は間違いなく、あの時この場所に居たんだなぁ』と実感する。
この感動(寂しさの様な)は歴史好き且つその場に行った者だけに感じられる物だと思う。
(歴史ってのは、想像力と感受性が無いと好きに成れない物だと思うのだ)
天下第一の門(岐阜公園の案内ではこうある)をくぐり、石段を登ると信長の御殿群があったとされる場所。
この門の前あたりは表空間、即ち対面とか儀礼に使われた建物や広場とされる。(いわゆる表)
金華山の山裾の谷間にあった信長の奥空間だが、谷の奥は現在発掘調査中でその様子を見る事はできない。
『日本史』によれば複雑で豪華な館群、茶室と滝や庭園がここにはあったとあるが、発掘ではそれを裏付ける調査報告が出てきている。早く結果が知りたいところだ。
上の写真は山裾館の『食い違い虎口』の跡!
ここから先が山裾館のプライベート空間。いわゆる『奥』。
ここから少し上がった先から発掘調査の為立ち入り禁止なので、柵越しに覗いて当時の様子、フロイスが記した御殿群の建築や、いくつかあったと言う庭園を想像します。
フロイスが「バビロンの賑わい」と表現し、8千から1万人の人口を数えたと記す。岐阜城下町の中心がここだったんだなぁ~と。
この先が下記の山裾の邸が建っていたわけ。
フロイスは『日本史』に岐阜城山裾の御殿を事細かに記しています。
驚くべき大きさの加工されない石がそれを取り囲んでいます。第一の内庭には、劇とか祝祭を催す為の素晴らしい木材でできた劇場風の建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと(現在の天下第一の門の石段か)、ゴアのサバヨのそれよりも大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次に様に言いました。
『貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがする様に思われるかも知れないので、見せた物かどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう』と。
信長の習慣及びその性格から、例え寵臣であっても、彼が明白な言葉で召喚したのでなければ、誰もこの宮殿の中には入らぬのであり、彼は入った物とは外の第一の玄関から語るのであります。当時一緒に入ったかの殿達にとっても、宮殿を見るのはこれが初めての事でありました。その他、同所には大工達と建築に立ち会う四人の若い貴人が居るのみでありました。
宮殿内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何も無く終わりであると思われる所に、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語る所によれば、それらの幾つかは、内部に置いては事に、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとの事です。これ等の部屋の周囲には、極めて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝き、あたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語描いたもので一面満たされていました。この前廊の外に、庭と称する極めて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本に置いて甚だ稀有なものであります。それらぼ幾つかには、1パルモほどの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、その中に泳いでいる美しい各種の魚多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花弁や植物がありました。下の山裾に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています。そこに美しい泉があり、他の場所にも、宮殿の様に思いのまま使用できる泉があります。
二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側も全てシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、極めて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見る事ができます。
三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に洗練された甚だ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望する事ができます。
この後、茶器を見せてもらったり、「小人の踊」(道化?)りや、「オヤツ」で、もてなされたそうな。
さて、次は岐阜城跡へ向かう。
岐阜城は山城なので、主郭跡へ向かうには山を登る必要があるのだが、ここには金華山ロープウェイがあるので楽ちん!
初めて訪れた時は歩いて登ったのだが、今回は楽をさせてもらう事に。(何せ荷物が多いもので…)
ロープウェイが上がる時に信長の山裾屋方跡の上を通るので、窓に貼りつくようにして屋方跡を眺めつつ、山頂下の駅に到着。
ここから徒歩10分程で模擬天守へと至るのだが、その順路には馬場跡や門跡など歴史&城跡好きの興味を引く痕跡が残っている。
とは言っても城の主郭があったとされる山頂には、ロープウェイの駅を始め、模擬天守、レストラン、電波塔、リス園などが建っている為に往事の痕跡は絶望的に破壊されている、残念。
山頂の模擬天守の内部は資料館となっているが、正直あまり見るべき物は無い。
しかし模擬天守高欄からの景色は歴史好きならずとも一見の価値がある!
南は濃尾平野を一望にでき、西は伊吹山、東は御嶽山(中央アルプス)が見え、北には以北アルプスも見えた。
この360°の大パノラマは一見を訂正して必見である。
(夜景も素晴らしいと聞く)
この山頂で信長は家族と生活していたわけだ。
信長自ら膳を持ってきてフロイスを饗応したのもこの山頂の御殿。
この場所から西を眺めて天下布武の策を胸中に描いていたのかと思うと、感動もひとしお。
模擬天守を出て人が少ない展望レストランの展望台へ、フロイスが信長からもてなしを受けたのとほぼ同じ場所で、その時の記述を読んで過ごす。
フロイスが記した山頂の城の様子。
同所の前廊から彼は私達に美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で山から展望する事が出来ました。
この前廊に面し内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました。
彼は私に、インドにはこの様な城があるか、と訊ね、私達との談話は二時間半、または三時間も続きましたが、その間彼は、四大の性質、日月星辰、寒い国や暑い国特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦を示しました。
この談話の半ばに、年少の息子(茶筅)を呼び、密かに内に入らせて私達の為に晩餐の仕度をさせました。(中略)
その後しばらくして彼は内に入り、私はひとり前廊に留まっていました。そこへ彼は思いもよらず自ら私の食膳を持って戻って来、次男はロレンソのために別の食膳を運んで来て、信長は「御身らは突然来られたので、何もおもてなしする事ができぬ」と言いました。
そして私が彼の手から食膳を受け取って、彼が私に示した親切に対し感謝の意を表してそれを頭上におし戴いたところ、信長は、「汁をこぼさぬよう、真直ぐに持つように」と言いました。まだ幼かった彼の息子達は不思議に思い、かつて彼らは、彼がした事が無いような特別扱いをするのに接して、じっと眺めていました。
私たちがこの座敷で食事を取りました後、信長がまだ内にいました間、その息子である君は袷と称する絹衣、および他の甚だ美しい白い亜麻布(帷子)一枚を携えて来て、父君は、貴殿がさっそくこれを着る様に申されました、と語り、ロレンソ修道士には別の上等な白衣を送りました。私たちがそれを着ました時に彼は自分が居た場所へ私たちを呼びました。そして私達を見ると非常に満足し、『今や汝は日本の長老のようだ』と言いました。そして彼は息子達に向かい、『予がこうしたのは、伴天連の信望や名声を高めさせる為だ』と語りました。また私に向かっては、しばしば美濃に来訪するように、夏が過ぎれば戻るがよいと言いました。そして彼は私たちに別れを告げながら、柴田殿を呼び、私たちに城の全部を見せるように命じましたが、彼はそうした事を大いなる愛情に満ちた言葉でしたのでした。
この様に信長は一般のイメージと違って、人に対して細やかな気遣いをする人だったとする資料が多く残っています。(稀に激昂するとフロイスも記していますが)
また、岐阜城の急峻な山の上で暮らし、麓の舘の先から山頂の城へは自分が呼んだ者意外は何人も入れさせななかったのは、見る者&仕える者に、一目で信長を頂点とする権力構造を理解させる為の物だったといわれています。
誰でも理解できる『偉い物ほど高いところに暮らす』という単純明快な表現ですな!
これは岐阜城の前の居城であった小牧山城から見られる点で、後の安土城へと繋がって行くものなんですねぇ。
「戦国大名=独裁」と思われがちですが、実際は国人領主や一門の代表者的存在であり、独裁と言えるほどの権力を持っていなかったのです。
なので戦国大名と言えど合議制が一般的であり、いわゆる家臣達の意見を無視すれば、最悪殺されたり、クーデターを起こされて隠居に追い込まれてしまうのがこの時代の現状でした。
一方信長は、居城を名護屋から清須としていた頃までは、権力の掌握に苦労していた事が見受けられますが、小牧山をへて稲葉山城を奪取後、岐阜と命名し、これを居城とした時には、己を家臣達とは隔絶した存在である事を認めさせていた事が見受けられます。
(将軍や大友氏などと接した居たフロイスも、信長に対する家臣達の異様な奉仕の仕方に驚いていますからね)
約400年の時を経て、同じ場所でその時の記録を読んでいると、様々な思いが浮んで来てる。
日が暮れるまでこうして居たいのだが、明日も始発で一乗谷へ向かうので・・・ロープウェイにのって麓へおりる。
岐阜駅からJRに乗って予約を取ってあるホテルの最寄り駅大垣へ。
大垣と言えば大垣城だが、残念ながらあまり興味が無い上に、なにより時間が無いのでホテルのチェックインを急ぐ。
それを済ました後は、少し歩いた場所にあるイオンタウンへ!(事前に調べておいた)
そこで、夕食とビニール傘を購入。
実は出発前から、二日目の一乗谷の天気は雨+風速15mの風と分かっていた。
その為に、重たくて歩きにくいが防水の登山靴、レインウエア、ザックカバーを持ってきていたのだ。
風があるのでレインウエアーを着ても中の衣類が濡れる恐れもあり、その分の着替えを余計に持ってきたりで荷物が多くなり、75ℓのザックを背負ってきた今回の旅だった。
『この装備と+ビニール傘があれば濡れないでしょう』と言う計算だ。(その分荷物が多くて大変だったけど)
そんな訳で、タバコ臭いビジネスホテルの一室で21時ごろに就寝。
と行きたかったのだが、部屋の目覚まし時計が「カチカチ」とうるさい!
冷蔵庫に目覚まし時計をぶち込んで、今度こそ就寝。
旅のお供は『信長公記』『日本史(ルイス・フロイス)』『信長の城』三冊の本と『青春18きっぷ』。
そう、資料を頼りに城跡や古戦場で往事を想像する。
そんな兵どもが夢の跡を巡る旅に出て来たのです。
山に行く時も旅に出る時も、限られた日数でどこを巡るかなど考える、そんな計画時は楽しのだが、出発前日から出発直前は行くのが面倒くさくなって・・・(荷物のパッキングと忙しさが原因か?)
でも、いざ玄関を一歩出た瞬間から体の中から『わくわく』溢れてくるのは、これも毎度の事。
そう、今回も同じだった。 笑
富士川駅辺りから見る「どーん」と、そびえる富士山の「ばかでかさ」に感動し、列車が西へすすむほど、少しずつ変わってゆく乗客たちの言葉(なまり)に耳をそば立て、またその土地土地の景色の違いに気が付いたり、(風土の違いって奴だ)のんびり鈍行で行く旅ってのは、まったくもって面白いもんだ。
(乗換えが多かったり、時間がかかるので多くの場所を巡るのには適さない点もあるが)
決して鉄道オタクでは無い俺だが、普通列車で行く旅ってのは本当に味わいのあるものだと思う。
さあ、そんなこんなをやったり思ったりしていると、11時に岐阜駅に到着。
旅初日は、岐阜県岐阜市の岐阜城へ!
山頂にちょこんと建つのは模擬天守。
じつは今回で三回目の岐阜城。(もう慣れたもんで、帰って来た感すらある 笑)
JR岐阜駅からバスで岐阜公園に向かい、とりあえず岐阜歴史博物館に入館。
ここも三回目なのだが、今まで巡ってきた歴史博物館の中でも、ここは結構好きな博物館だ。
特に『楽市立体絵巻』が好きで、その展示の一つ、信長が供応に出したと伝わる料理の模型(食品サンプル)を見る度に腹の虫が鳴るのは毎度の御約束。
そうそう、岐阜県の郡上八幡は盆踊りで有名だが、食品サンプルでも有名。
一度行って見たい所なのだ。(キンキンに冷えたビールの大ジョッキのサンプルが欲しい)
近くで当時の遊戯(双六や独楽回し等)を説明しているボランティアの方に「この料理を再現して、食べさせてくれたら最高なんですけどね」と言ったところ「いや~難しいんじゃない?」と返される。
確かに食材に『鶴』とかあるので完全再現は難しいだろうが、9割は再現は可能だろう。
うるか・鮑などの珍味と高給食材が多いいので、値は張ると思うが・・・
予約制にしたら結構需要もあるのでは??と思うのだが、どうだろう。
博物館を見て回ったら岐阜城(金華山)の山裾にあった信長の御殿跡に行く。
信長は山頂の城で家族と供に生活していたが、政務は麓の館で執る事が多かった様で、山頂と山裾の御殿を行き来していたのが当時の記録に見られる。
因みに、用のある家臣は館へ至る道で待っていて道端で信長に話しかけるのが通例であったそうな。堅苦しい『儀礼』や『しきたり』を省ける立ち話の形で来訪者や家臣と面会していた訳。
約四百年前、山頂から七曲口を下りて来た信長を御殿と七曲口の間の何処か、今は岐阜公園として整備されている辺りでフロイスや山科言継と立ち話をしていた様子を想像してみる。
また、当然だが、この公園の辺りに柴田勝家や佐久間の館や、当時出頭激しい秀吉の館もあったのだ。
『どの辺りに住んでいたのかなぁ~この辺かな?』などと想像しながら公園内を歩く。
その場所へ行き『あの人は間違いなく、あの時この場所に居たんだなぁ』と実感する。
この感動(寂しさの様な)は歴史好き且つその場に行った者だけに感じられる物だと思う。
(歴史ってのは、想像力と感受性が無いと好きに成れない物だと思うのだ)
天下第一の門(岐阜公園の案内ではこうある)をくぐり、石段を登ると信長の御殿群があったとされる場所。
この門の前あたりは表空間、即ち対面とか儀礼に使われた建物や広場とされる。(いわゆる表)
金華山の山裾の谷間にあった信長の奥空間だが、谷の奥は現在発掘調査中でその様子を見る事はできない。
『日本史』によれば複雑で豪華な館群、茶室と滝や庭園がここにはあったとあるが、発掘ではそれを裏付ける調査報告が出てきている。早く結果が知りたいところだ。
上の写真は山裾館の『食い違い虎口』の跡!
ここから先が山裾館のプライベート空間。いわゆる『奥』。
ここから少し上がった先から発掘調査の為立ち入り禁止なので、柵越しに覗いて当時の様子、フロイスが記した御殿群の建築や、いくつかあったと言う庭園を想像します。
フロイスが「バビロンの賑わい」と表現し、8千から1万人の人口を数えたと記す。岐阜城下町の中心がここだったんだなぁ~と。
この先が下記の山裾の邸が建っていたわけ。
フロイスは『日本史』に岐阜城山裾の御殿を事細かに記しています。
驚くべき大きさの加工されない石がそれを取り囲んでいます。第一の内庭には、劇とか祝祭を催す為の素晴らしい木材でできた劇場風の建物があり、その両側には、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと(現在の天下第一の門の石段か)、ゴアのサバヨのそれよりも大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます。
ここで彼はしばらく私たちとともにおり、次に様に言いました。
『貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがする様に思われるかも知れないので、見せた物かどうか躊躇する。だが貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう』と。
信長の習慣及びその性格から、例え寵臣であっても、彼が明白な言葉で召喚したのでなければ、誰もこの宮殿の中には入らぬのであり、彼は入った物とは外の第一の玄関から語るのであります。当時一緒に入ったかの殿達にとっても、宮殿を見るのはこれが初めての事でありました。その他、同所には大工達と建築に立ち会う四人の若い貴人が居るのみでありました。
宮殿内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何も無く終わりであると思われる所に、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語る所によれば、それらの幾つかは、内部に置いては事に、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとの事です。これ等の部屋の周囲には、極めて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝き、あたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語描いたもので一面満たされていました。この前廊の外に、庭と称する極めて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本に置いて甚だ稀有なものであります。それらぼ幾つかには、1パルモほどの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や目にも眩しい白砂があり、その中に泳いでいる美しい各種の魚多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花弁や植物がありました。下の山裾に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています。そこに美しい泉があり、他の場所にも、宮殿の様に思いのまま使用できる泉があります。
二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側も全てシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、極めて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見る事ができます。
三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に洗練された甚だ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望する事ができます。
この後、茶器を見せてもらったり、「小人の踊」(道化?)りや、「オヤツ」で、もてなされたそうな。
さて、次は岐阜城跡へ向かう。
岐阜城は山城なので、主郭跡へ向かうには山を登る必要があるのだが、ここには金華山ロープウェイがあるので楽ちん!
初めて訪れた時は歩いて登ったのだが、今回は楽をさせてもらう事に。(何せ荷物が多いもので…)
ロープウェイが上がる時に信長の山裾屋方跡の上を通るので、窓に貼りつくようにして屋方跡を眺めつつ、山頂下の駅に到着。
ここから徒歩10分程で模擬天守へと至るのだが、その順路には馬場跡や門跡など歴史&城跡好きの興味を引く痕跡が残っている。
とは言っても城の主郭があったとされる山頂には、ロープウェイの駅を始め、模擬天守、レストラン、電波塔、リス園などが建っている為に往事の痕跡は絶望的に破壊されている、残念。
山頂の模擬天守の内部は資料館となっているが、正直あまり見るべき物は無い。
しかし模擬天守高欄からの景色は歴史好きならずとも一見の価値がある!
南は濃尾平野を一望にでき、西は伊吹山、東は御嶽山(中央アルプス)が見え、北には以北アルプスも見えた。
この360°の大パノラマは一見を訂正して必見である。
(夜景も素晴らしいと聞く)
この山頂で信長は家族と生活していたわけだ。
信長自ら膳を持ってきてフロイスを饗応したのもこの山頂の御殿。
この場所から西を眺めて天下布武の策を胸中に描いていたのかと思うと、感動もひとしお。
模擬天守を出て人が少ない展望レストランの展望台へ、フロイスが信長からもてなしを受けたのとほぼ同じ場所で、その時の記述を読んで過ごす。
フロイスが記した山頂の城の様子。
同所の前廊から彼は私達に美濃と尾張の大部分を示しましたが、すべて平坦で山から展望する事が出来ました。
この前廊に面し内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました。
彼は私に、インドにはこの様な城があるか、と訊ね、私達との談話は二時間半、または三時間も続きましたが、その間彼は、四大の性質、日月星辰、寒い国や暑い国特質、諸国の習俗について質問し、これに対して大いなる満足と喜悦を示しました。
この談話の半ばに、年少の息子(茶筅)を呼び、密かに内に入らせて私達の為に晩餐の仕度をさせました。(中略)
その後しばらくして彼は内に入り、私はひとり前廊に留まっていました。そこへ彼は思いもよらず自ら私の食膳を持って戻って来、次男はロレンソのために別の食膳を運んで来て、信長は「御身らは突然来られたので、何もおもてなしする事ができぬ」と言いました。
そして私が彼の手から食膳を受け取って、彼が私に示した親切に対し感謝の意を表してそれを頭上におし戴いたところ、信長は、「汁をこぼさぬよう、真直ぐに持つように」と言いました。まだ幼かった彼の息子達は不思議に思い、かつて彼らは、彼がした事が無いような特別扱いをするのに接して、じっと眺めていました。
私たちがこの座敷で食事を取りました後、信長がまだ内にいました間、その息子である君は袷と称する絹衣、および他の甚だ美しい白い亜麻布(帷子)一枚を携えて来て、父君は、貴殿がさっそくこれを着る様に申されました、と語り、ロレンソ修道士には別の上等な白衣を送りました。私たちがそれを着ました時に彼は自分が居た場所へ私たちを呼びました。そして私達を見ると非常に満足し、『今や汝は日本の長老のようだ』と言いました。そして彼は息子達に向かい、『予がこうしたのは、伴天連の信望や名声を高めさせる為だ』と語りました。また私に向かっては、しばしば美濃に来訪するように、夏が過ぎれば戻るがよいと言いました。そして彼は私たちに別れを告げながら、柴田殿を呼び、私たちに城の全部を見せるように命じましたが、彼はそうした事を大いなる愛情に満ちた言葉でしたのでした。
この様に信長は一般のイメージと違って、人に対して細やかな気遣いをする人だったとする資料が多く残っています。(稀に激昂するとフロイスも記していますが)
また、岐阜城の急峻な山の上で暮らし、麓の舘の先から山頂の城へは自分が呼んだ者意外は何人も入れさせななかったのは、見る者&仕える者に、一目で信長を頂点とする権力構造を理解させる為の物だったといわれています。
誰でも理解できる『偉い物ほど高いところに暮らす』という単純明快な表現ですな!
これは岐阜城の前の居城であった小牧山城から見られる点で、後の安土城へと繋がって行くものなんですねぇ。
「戦国大名=独裁」と思われがちですが、実際は国人領主や一門の代表者的存在であり、独裁と言えるほどの権力を持っていなかったのです。
なので戦国大名と言えど合議制が一般的であり、いわゆる家臣達の意見を無視すれば、最悪殺されたり、クーデターを起こされて隠居に追い込まれてしまうのがこの時代の現状でした。
一方信長は、居城を名護屋から清須としていた頃までは、権力の掌握に苦労していた事が見受けられますが、小牧山をへて稲葉山城を奪取後、岐阜と命名し、これを居城とした時には、己を家臣達とは隔絶した存在である事を認めさせていた事が見受けられます。
(将軍や大友氏などと接した居たフロイスも、信長に対する家臣達の異様な奉仕の仕方に驚いていますからね)
約400年の時を経て、同じ場所でその時の記録を読んでいると、様々な思いが浮んで来てる。
日が暮れるまでこうして居たいのだが、明日も始発で一乗谷へ向かうので・・・ロープウェイにのって麓へおりる。
岐阜駅からJRに乗って予約を取ってあるホテルの最寄り駅大垣へ。
大垣と言えば大垣城だが、残念ながらあまり興味が無い上に、なにより時間が無いのでホテルのチェックインを急ぐ。
それを済ました後は、少し歩いた場所にあるイオンタウンへ!(事前に調べておいた)
そこで、夕食とビニール傘を購入。
実は出発前から、二日目の一乗谷の天気は雨+風速15mの風と分かっていた。
その為に、重たくて歩きにくいが防水の登山靴、レインウエア、ザックカバーを持ってきていたのだ。
風があるのでレインウエアーを着ても中の衣類が濡れる恐れもあり、その分の着替えを余計に持ってきたりで荷物が多くなり、75ℓのザックを背負ってきた今回の旅だった。
『この装備と+ビニール傘があれば濡れないでしょう』と言う計算だ。(その分荷物が多くて大変だったけど)
そんな訳で、タバコ臭いビジネスホテルの一室で21時ごろに就寝。
と行きたかったのだが、部屋の目覚まし時計が「カチカチ」とうるさい!
冷蔵庫に目覚まし時計をぶち込んで、今度こそ就寝。
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