透水の 『俳句ワールド』

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ベランダより鳥瞰すれば         高橋透水

2020年03月15日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 燕が切る空の十字はみづみづし 福永耕二

 緑の少ない都会の雑多の地に、こんなにも多種の鳥が生活していたのかと驚かされることがある。ちょっと都心を離れただけで、留鳥はいうまでもなく渡り鳥にさえ出会うことは決して珍しいことではない。
 中野区上高田には寺が多い。関東大震災で当時江東地区などにあったお寺が、こちらへ引越してきたらしい【補足1】。また著名人のお墓も多い【補足2】。わたしはそんなお寺を見下ろすマンションの九階にすんでいる。東向きで日当たりは申し分なく、寺のお墓の樹木が小さな公園を隔てて眼下にひろがっている。墓参に来る人たちも墓守の働く姿もつぶさに眼に入ってくる。こんな寄り集めの森に鳥が飛来し、まさに鳥を鳥瞰できる高さにいるわけである。 
 私はここの住まいが気に入っている。この小さな公園とそれに続くお寺の木立から、夜明けと同時に様々な鳥の声が聞こえてくるからだ。鴉や雀はもちろんのこと鶯、目白、四十雀、椋鳥、鵯鵯、鶫、頬白、尾長、雉鳩それに鶺鴒・インコなどだ。インコは恐らく飼われていたものが野生化したのだろう。
 自慢は寺町の屋根を行き交う燕で、春から夏過ぎまで観察できることだ。巣はどこにあるのか見当はつかないが、目の前の空間が森から餌を運ぶルートになっているらしい。
これらを九階のベランダからのんびりと観察できるのだ。まさに鳥を鳥瞰できる高さにいるわけである。低からず、高からず程よい場所である。
 鳥の声で目覚め、ベランダからの鳥の観察で一日が始まるわけで、ときにより双眼鏡でこれらの鳥の生態をじっくりと眺めて楽しんでいる。鳥の種類により啼く声も生活習慣も違い、それなりに面白い行動も発見できる。烏の子別れ。小雀の甘える声。鵯の懸命な恋のアピール。困るのは、鳩が巣作り場所を探してベランダに来ることだ。何度追ってもまた来る。なかなか逃げない。巣を求める必死な姿に根負けしそうだが、ベランダでは他の住民の迷惑になるので追わねばならない。
 今朝も烏の声で目覚め、鵯の美声で再び夢の世界にもどった。今は青葉風を窓から迎え入れ、鳥声に耳を傾けられる一年でもっとも楽しい朝である。

  初鴉わが散策を待ちゐたり       相生垣瓜人
  寒雀身を細うして闘へり        前田普羅
頬白やひとこぼれして散り散りに    川端茅舎
  燕が切る空の十字はみづみづし     福永耕二
  四十雀絵より小さく来たりけり     中西夕紀
  たべ飽きてとんとん歩く鴉の子     高野素十
  鶫死して翅拡ぐるに任せたり      山口誓子
  鵯のこぼし去りぬる実の赤き      与謝蕪村
  石たたき水なき水を叩きけり      名和未知男
  椋鳥の大旋回の殺気かな        清水静子
  
【補足1】以下1,2は「まるっと中野編集部」より引用しました。
中野区の上高田には寺が多く寺町として形成されている(宗清寺、源通寺、光徳院、東光寺など)。なんらかの事情で他所から移転してきた時期が明治40年の初頭というがその理由は判然しないという。
【補足2】
中野の歴史 近代編
江戸時代前期では、島原の乱の鎮圧軍の指揮官ながら討死した悲劇の武将「板倉重昌」(宝泉寺)のお墓があります。中野区登録有形文化財のりっぱな五輪塔です。江戸時代中期では「忠臣蔵」にゆかりのある人々が挙げられます。仇とされた「吉良上野介」と吉良家四代の墓(万昌院功運寺)は宝篋印塔と呼ばれる格式高い墓で中野区登録有形文化財です。松の廊下で浅野内匠頭を取り押さえた「梶川与惣兵衛」(天徳院)、幕末に赤穂浪士「赤垣源蔵」をモデルとした作品を書いた劇作家「河竹黙阿弥」(源通寺)などのお墓もあります。
学者でかつ老中まで上った東京都旧跡の「新井白石」(高徳寺)の墓は、直方体のユニークな形をしています。
江戸時代後期から幕末にかけては、浮世絵の最大派閥の創始者「初代歌川豊国」(万昌院功運寺)、江戸三大美人の一人「笠森お仙」(正見寺)、外国奉行としてロシアとの外交に尽力した「水野忠徳」(宗清寺)、幕府の遣米使節としてアメリカに渡った「新見正興」(願正寺)など、まさにスーパースターばかりです。
(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁)
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富沢赤黄男の一句鑑賞(10)  高橋透水

2020年03月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
切株はじいんじいんと ひびくなり 

 初出は「太陽系」(昭和二十三年十月号)。
 「虚無の木」のなかの一句。〈切株はじいんじいんと 鳴り潜む〉が原型である。
 切株がひびくのであるが、赤黄男が特別聴覚に優れていたというわけでない。表現したいなにかがあって、それを事物や事象を借りて詩的に表現するのに長けていたのだろう。
 「じいんじいん」はいかにも斧で伐られた傷口がうずいている様子が見えるようだ。その傷がいつまでも疼き空気感染のように赤黄男の耳に届きやがて共振し共鳴するのである。
 現実的な伐採は、道路や宅地開発であったり、家屋の資材やときには神社仏閣の材料として平和使用され、はたまた船など軍需目的で伐採されたこともあろう。もちろん赤黄男の見た切株はそうした伐採を連想させたりするが、「じいんじいん」は樹木の痛みを想起させ、もっと深い意味をかかえている。
 やはり、「ひびくなり」は切株の痛々しい姿を超えた、赤黄男の心の痛みがみえてくる。長い軍隊生活で、赤黄男もまた戦争によって体に見えない傷を負い、精神も極限に追い込まれたのだ。心身の傷はじいんじいんといつまでも体を駆け巡るのである。赤黄男には切株の句が十二句ほどあり、すべて戦後の句というがそれを証左している。
 〈切株に 人語は遠くなりにけり〉
 〈切株の 黒蟻が画く 黒い円〉
 〈切株に腰をおとせば凍みいる孤独〉
など代表的に挙げることができる。これらは一概にはいえないが、赤黄男のメタファーないしシンボルである。つまり苦悩である。戦争で負った傷などたやすく癒えるものでない。
 そして時おり赤黄男の内面が吐出する。〈地平線 手をあげて 手の影はなし〉〈葉をふらす 葉をふらすとき 木の不安〉〈寒い月 ああ貌がない 貌がない〉
 「影はなし」「不安」「貌がない」などに赤黄男の戦中戦後の精神の不安感や喪失感、あるいは虚無感などがみられる。が、俳句に純粋詩を求める態度は一貫し保ちつづけた。
   俳誌『鷗座』2019年12月号より転載
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