透水の 『俳句ワールド』

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石田波郷・「波郷句自解」(三十二)(三十三)      高橋透水

2014年10月31日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
女来と帯纏き出づる百日紅       波郷

女がはつきりしないが、この句では必要がない。然しこの「女」といふ語調
は相当放恣だ。真夏の男臭さが、中年のどぎつさではなく、矢張り若々しい
身振りを失つてゐない。


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 夏すでに兄妹懈く叱り合ふ      波郷

昭和十五年。やうやく暑気が身心を懈怠に陥れる頃、口数の少い兄妹が互に
何かを叱り合ふ、兄妹、親子、夫婦等でなければ出来ぬことであらう。


「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社 より


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内藤丈草の句鑑賞 《薬の下の寒さ》      高橋透水

2014年10月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
はせを翁の病床に侍りて
うづくまる薬の下の寒さ哉    丈草


 芭蕉は、元禄七年十月十二日、大坂の南御堂前花屋仁右衛門の裏座敷で没した。
 前日の十一日夜、死の直前の芭蕉が、病床に馳せ参じた門人達に夜伽の句を勧めた。
 その数日前の芭蕉の言葉は、
 「今日より我が死後の句也。一字の相談を加ふべからず」(『去来抄』)とある。

 其角  〈吹井より鶴を招かん時雨かな〉
 支考  〈しかられて次の間へ出る寒さ哉〉
 去来  〈病人のあまりすゝるや冬ごもり〉


  これらは師芭蕉の病態に接し、皆は心の痛みを抑えながらも、真剣な顔で作句したことだろう。
 一人、これらの門弟から離れ、師の言葉を噛みしめている弟子がいた。丈草である。薬を煎じながらも、師の死が迫っていることは、他の弟子の誰よりも察していた。それでも丈草は師の為に薬を煎じることは止めなかった。
  寒さは部屋の寒さ、体の寒さだけでない。他の弟子があれこれ心配そうな顔を見合ったり、言葉を交わし、さては師の眼鏡に叶う一句を頭で練っているのに、丈草はうずくまって、師の言葉を反芻している。〈うづくまる薬の下の寒さ哉〉と、ため息のように言葉が口に吐かれた。芭蕉の口元が緩んだ。その場にいた皆は、師が満足げに微笑むのを見た。師の言葉は唇を破った。「丈草、でかしたり」


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中村草田男の秀句鑑賞《真直ぐ往けと白痴が指しぬ》   高橋透水

2014年10月15日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道  草田男  

 昭和二十九年、句集『美田』より。
 草田男自身の自句自解によると「ある秋の日の田舎道でのこと、自分の行先を告げ、そこへ行く道順を訊ねたところ、近くにいた一人の白痴が指で道を真直ぐに指し示した」という。その瞬間的な白痴の動作からある啓示を得、この句が生まれたという。
 道は「道路」の他に「人生の道」と解釈してもいいだろう。芭蕉の<この道や行く人なしに秋の暮>の道、<この秋は何で年とる雲に鳥>の秋に呼応していると解釈する人もいる。草田男は西洋哲学やキリスト教にも造詣が深かったが、自解の「道」は西洋的な神的な道でなく、東洋的な道徳という道だろう。
 しかしそれだけでは単純な鑑賞に終わってしまう。「真直ぐ」とはあれこれ迷わずにということかも知れないが、「往け」の「往」には勢いの意がある。しかし「白痴」とは何を象徴しているのだろうか。
 作句の現場に実際に白痴(と見立てた人)はいたのだろうが、山本健吉よれば、この白痴はドストエフスキーの小説「白痴」の主人公ムイシキン侯爵だとする。が、草田男は自ら白痴と自認する川端茅舎を尊敬して、畏敬の念を抱いていた。道を教えてくれた人に茅舎を重ねたのでは、という憶測もできる。
 ここでもっと大胆な解釈を試んでみたい。「真直ぐ往け」と示したのは草田男自身でなかったのか。白痴は己に対するパロデーだったのではないかと。神経症に悩んだ草田男であるが、茶目っ気でユーモアな面も持っていたから。この句を得て、草田男はしばし安寧の世界を味わったことだろう。


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西東三鬼の一句鑑賞《工人ヨセフ我が愛す》    高橋透水

2014年10月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 聖燭祭工人ヨセフ我が愛す       三鬼

 三鬼と言うと〈水枕ガバリと寒い海がある〉〈おそるべき君らの乳房夏来る〉〈秋の暮大魚の骨を海が引く〉などの句がすぐ口にでるが、掲句は彼の生い立ちを象徴的に表していると言えないだろうか。
 とかく幼児期の事件や事故の体験は人の一生を左右することさえある。特に愛する者の死の体験は、終生悲しみの追想を引き起こすものだ。明治三十三年生れの三鬼は、六歳の時に父の死に会い、さらに十八歳の時に、母親をスペイン風邪で亡くしている。
 父の死後、十九才年長の兄の扶養を受けることになった三鬼は故郷の津山中学から青山学院中学部に編入し、更に高等部に進学している。この青山の中学部・高等部を通じて、キリスト教や聖書から幾らかの知識を得、なんらかの影響を受けたものと思われる。三鬼の自叙伝的な自己紹介によると、「青山学院中学部に転学し、メソジスト教育を受けた」とあることからも推測出来よう。ちなみにメソジストはキリスト教プロテスタントの一派である。
 鑑賞句は昭和十一年、三十六歳の作。句集『旗』の冒頭に「アヴェ・マリア」の一連作があり、聖書もしくはキリスト教をテーマにした作品は「魚と降臨祭」などにも散見される。もちろんヨセフは、イエスの母マリアの夫。ナザレの人で大工。イエスの養父である。
 社交的で人に好かれる性格だったが、三鬼の句にはニヒルもあればどこか倦怠感もある。それら一抹の哀しさと侘しさのなかに愛を感ずるとすれば、幼児期の父の死と過感な青春時代に母を亡くしたこと、十代半ばの女性との早すぎる肉体関係、そしてキリスト教の感化、さらに大戦前後の険悪な社会情勢、これらの影響が考えられる。またヨセフには父に代わって三鬼の面倒をみた長兄の姿が重なる。


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尾崎放哉の句鑑賞《うしろから煙がでだした》    高橋透水

2014年10月06日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
春の山のうしろから煙がでだした    放哉

 枕頭の紙切れに書かれていた最後の句という。いわば「絶句」に当る。
 あれほど海に憧れ、海に近い「南郷庵」を終の栖にと小豆島に辿りついた放哉だったが、胸の奥にあった情景が「春の山」であった。
 これは死を迎え、夢うつつに見た懐かしい故郷の山々ではなかったろうか。放哉は鳥取県邑美郡吉方町に生まれている。煙は少年時代に仲間とした野焼きの「けむり」を思い出したのか。さらに放哉には春の山に思い入れがあるようだ。十六歳頃の文があるので、紹介したい。
  「山、と云ふと、僕はすぐに春の山、と云ふ連想を起すのである。『春の山重なりあひて皆まるく』と云ふ子規の句がある、がすべてかわいらしい、やさしい、おだやかな、等の平和的の文字文句は、皆此春の山にそゝがれて居るではないか、(中略)山と云ふと僕はすぐ春の山を思ひだすのである、春の山ありて山がないのである、嗚呼春の山春の山」
 完成した文とはいえないが、放哉の「春の山」への拘りが伝わってくる。死を願いつつも、小年時代にいつも見、遊んで過ごした故郷の山々が脳裏から離れなかったのだろう。
 この句作の数日後の大正15年の四月七日、放哉は合併症湿性気管支加答児で、この世を去った。享年四十一歳だった。家族を捨て死だけを願った放哉に、暖かく接してくれた小豆島の人々がいた。それは放哉にとって、故郷の「春の山」以上にやさしく、おだやかで、暖かいものだったろう。

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山頭火の山河 《分け入っても青い山》    高橋透水

2014年10月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
分け入っても分け入っても青い山     山頭火

 山頭火が行乞の旅にでたのは、一九二六年(大正十五)のことである。曹洞宗大本山の永平寺で、山頭火は本式修行を望んでいたが、実現しなかった。年齢的なこともあり、きびしい修行に耐えられないだろうと報恩寺の義庵和尚が判断してのことだ。山頭火の世俗を捨てたいという思いは果たせなかった。
 かといって、熊本で世話になっていた味取観音堂にも安住できず、山頭火は行乞にでる決心をした。味取観音堂とは、報恩寺の末寺で瑞泉寺のことである。山頭火は出家得度を果たした後、法名を耕畝と称してここで堂守(番人)となっていた。
 そんな時に驚愕な報せがあった。面識はなかったものの心の通じあっていた尾崎放哉が、小豆島の西光寺南郷庵で亡くなったという、木村緑平からのハガキだった。緑平は自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を続けていた。山頭火は、緑平よりも一年先に「層雲」で活躍しており、緑平は山頭火の才能に惚れ込み、資金的な援助を惜しまず、何かと面倒をみた。
 あたかも放哉の死の報せに促されたかのように、山頭火は味取観音堂を飛び出した。緑平から知らせを受け取った数日後のことである。
 さて、掲句の前書きに「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と述べているが、「解くすべもない」とはやはり過去の不幸だろう。母の死、姉の正体不明の病死、実弟二郎の縊死などなど。解くすべもない不幸の連続が、山頭火を苦しめたのだろう。更に、恋慕していた友人工藤好美の妹の死に直面し、人生の果敢なさを嘆いたとの説もあるが検証すべき点が多い。
 出家した身だが絶えず生くべきか死すべきかの迷いがあった。そんな時、同じ心境の放哉が死の旅に出た。死に憧れた山頭火には先を越された思いと、羨望があった。しかしどうしても自分は死ぬことが出来ない。貧しくとも寺守として安住の生活ができたはずだが、心とは裏腹に過去の業を背負いつつも脚は放浪の旅、宮崎・大分へと向かっていた。


俳誌『鷗座』2014年10月号掲載より。



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