萬緑やわが掌に釘の痕もなし 誓子
昭和二十二年、作者四十七歳のときの句である。長年の病気療養から立ち直り、精神的に安定してきた時期である。万緑という生命力に満ちた自然界のなかで、ふと見つめた己の掌。その少しくたびれた掌は今日までの生活を物語っている。親とわかれて暮らした葛藤、宿痾の胸の病と闘い、また戦時の苦し時期を無事に乗り越えることのできたことで、思わず安堵の溜息がでたかも知れない。
「掌に釘の痕」から、すぐ絵画や物語などにあるイエス・キリストの磔刑の様子が浮かぶが、誓子がどれだけキリスト教に関心があったかわからないが、キリストの磔刑を意識しての句であることは間違いないだろう。
ただ誓子が直接的にキリストを題材にした句はないし、文にもほとんどお目にかからないが、磔刑を詠った句は散見する。
誓子は幾度となく長崎を訪れる機があった。
昭和二年の夏、会社の出張時の句に〈磔刑や泰山木は花終えんぬ〉〈釘うてる天守の手足露の花圃〉があり、また昭和十五年の正月、誓子が妻とともに長崎に遊んだときのこと、〈異教徒の外套玻璃に朱塗〉〈枯れし苑磔刑の釘錆流す〉〈寒暮来て階梯嶮しき聖歌楼〉などの句を載せている。
もちろんこれらの句があるからといって、誓子とキリスト(聖書)を短絡的に結び付けることは短絡的過ぎるだろう。磔刑を題材にした以上に誓子とキリスト教の関連ほとんど感じられないのだ。
つまり鑑賞句においても誓子にとって万緑こそ生命の源、精神の礎だったのだ。幸いにも裏切者や統治者からの仕打ちのなかった無事な生活にほっとしていることが、「掌に釘の痕もなし」なのである。
因みに、〈五月病むキリストのごと血の気失せ〉があるが、これとて己の病弱さをキリストに擬えただけだ。やはり誓子の精神的な拠り所は宗教などでなく俳句以外になかった。句作し発表することが生きているなによりの証であり心の安らぎであったのだろう。
俳誌『鴎座』2018年9月号より転載
昭和二十二年、作者四十七歳のときの句である。長年の病気療養から立ち直り、精神的に安定してきた時期である。万緑という生命力に満ちた自然界のなかで、ふと見つめた己の掌。その少しくたびれた掌は今日までの生活を物語っている。親とわかれて暮らした葛藤、宿痾の胸の病と闘い、また戦時の苦し時期を無事に乗り越えることのできたことで、思わず安堵の溜息がでたかも知れない。
「掌に釘の痕」から、すぐ絵画や物語などにあるイエス・キリストの磔刑の様子が浮かぶが、誓子がどれだけキリスト教に関心があったかわからないが、キリストの磔刑を意識しての句であることは間違いないだろう。
ただ誓子が直接的にキリストを題材にした句はないし、文にもほとんどお目にかからないが、磔刑を詠った句は散見する。
誓子は幾度となく長崎を訪れる機があった。
昭和二年の夏、会社の出張時の句に〈磔刑や泰山木は花終えんぬ〉〈釘うてる天守の手足露の花圃〉があり、また昭和十五年の正月、誓子が妻とともに長崎に遊んだときのこと、〈異教徒の外套玻璃に朱塗〉〈枯れし苑磔刑の釘錆流す〉〈寒暮来て階梯嶮しき聖歌楼〉などの句を載せている。
もちろんこれらの句があるからといって、誓子とキリスト(聖書)を短絡的に結び付けることは短絡的過ぎるだろう。磔刑を題材にした以上に誓子とキリスト教の関連ほとんど感じられないのだ。
つまり鑑賞句においても誓子にとって万緑こそ生命の源、精神の礎だったのだ。幸いにも裏切者や統治者からの仕打ちのなかった無事な生活にほっとしていることが、「掌に釘の痕もなし」なのである。
因みに、〈五月病むキリストのごと血の気失せ〉があるが、これとて己の病弱さをキリストに擬えただけだ。やはり誓子の精神的な拠り所は宗教などでなく俳句以外になかった。句作し発表することが生きているなによりの証であり心の安らぎであったのだろう。
俳誌『鴎座』2018年9月号より転載