炎天の遠き帆やわがこころの帆 誓子
誓子の終戦前後の日記をみると、なぜか終戦日には一行の記述も俳句もない。いや〈いくたびか哭きて炎天さめゆけり〉があるのだが、不思議と句集に載ってない。公にするには様々な思いが頭を巡り発表を妨げたのか。
誓子にとって終戦の感慨はいかばかりであったかは容易に想像できるものでない。しかし終戦直後の句作の情熱はますます高まっている。掲句は昭和二十年八月二十二日、終戦日からわずか一週間しか経っていない作品である。誓子は戦前から、四日市冨田で療養中の身で、海岸が呼吸器官によいという特別な環境で過ごしていた。そんな頃にも一時も離れないのは俳句であった。そうした日常からして「遠き帆」は、茫洋とした誓子の心情を表わしていると考えてよいのではないか。
つまり敗戦という不安な世情において「遠き帆」は大戦以前の日常を取り戻し、規制を恐れずに航行できる平和の象徴であり、また平常に身を置ける誓子の姿でもあった。しかしこんな長閑な風景が終戦後間もなくに出現したのだろうか。たとえみすぼらしい漁船等であっても、帆船となれば違和感がある。これは平和を取り戻した日本でおそらく誓子の心にふと出現した幻の帆であったのだろう。
誓子は自選自解で、『いつも沖を見て暮らしている私のこころの裡には「こころの帆」があった。現実に見た帆が、積み重なって、こころに印象づけられた帆である。具象から来ているが、抽象の帆なのである』つまり、『抽象が具象になった』と述べている。
では誓子のいう「こころの帆」はどういうことの象徴なのか。「炎天の遠き帆」は文字通り沖合の、つまり遠い視界にある帆と同時に遠い過去の帆であり、それが誓子にとっては「こころの帆」であるのだ。つまり炎天下で良風を受け希望多き未来に進む青春真っ盛りの帆である。あれこれやってみたいという希望や未来への夢であった。戦争が終わり、ギラギラした沖合を走るヨットを見ていると失っていた若い頃の熱い夢が蘇ったのだろう。
俳誌『鴎座』2018年8月号より転載
誓子の終戦前後の日記をみると、なぜか終戦日には一行の記述も俳句もない。いや〈いくたびか哭きて炎天さめゆけり〉があるのだが、不思議と句集に載ってない。公にするには様々な思いが頭を巡り発表を妨げたのか。
誓子にとって終戦の感慨はいかばかりであったかは容易に想像できるものでない。しかし終戦直後の句作の情熱はますます高まっている。掲句は昭和二十年八月二十二日、終戦日からわずか一週間しか経っていない作品である。誓子は戦前から、四日市冨田で療養中の身で、海岸が呼吸器官によいという特別な環境で過ごしていた。そんな頃にも一時も離れないのは俳句であった。そうした日常からして「遠き帆」は、茫洋とした誓子の心情を表わしていると考えてよいのではないか。
つまり敗戦という不安な世情において「遠き帆」は大戦以前の日常を取り戻し、規制を恐れずに航行できる平和の象徴であり、また平常に身を置ける誓子の姿でもあった。しかしこんな長閑な風景が終戦後間もなくに出現したのだろうか。たとえみすぼらしい漁船等であっても、帆船となれば違和感がある。これは平和を取り戻した日本でおそらく誓子の心にふと出現した幻の帆であったのだろう。
誓子は自選自解で、『いつも沖を見て暮らしている私のこころの裡には「こころの帆」があった。現実に見た帆が、積み重なって、こころに印象づけられた帆である。具象から来ているが、抽象の帆なのである』つまり、『抽象が具象になった』と述べている。
では誓子のいう「こころの帆」はどういうことの象徴なのか。「炎天の遠き帆」は文字通り沖合の、つまり遠い視界にある帆と同時に遠い過去の帆であり、それが誓子にとっては「こころの帆」であるのだ。つまり炎天下で良風を受け希望多き未来に進む青春真っ盛りの帆である。あれこれやってみたいという希望や未来への夢であった。戦争が終わり、ギラギラした沖合を走るヨットを見ていると失っていた若い頃の熱い夢が蘇ったのだろう。
俳誌『鴎座』2018年8月号より転載