透水の 『俳句ワールド』

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一行詩の紹介       高橋透水

2014年02月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

春 温 し

死にたいと思いつつ桜待っている。    爛々
春温し。犬の世話して、介護忘れた。   蒼天
合コンも飽きて、水遣るシクラメン    稜子
刑事がまた私をみている、物欲しそうに。   翔子

春昼の指をかむ癖。治らない、君。    愛

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フランス詩を読む

ランボー「永遠」(「詩学」2003年4月号より)
    永遠    アルチュール・ランボー

見つかった
何が? ―〈永遠〉
太陽と一緒に行った
海のことだよ

見張り番する魂よ
そっと本音を語ろうよ
こんなにはかない夜のこと
炎と燃える昼のことを

世間並みの判断からも
通俗的な衝動からも
おまえは自分を解き放つ
そして自由に飛んでいく

だって きみたちだけなんだ
繻子(サテン)のような緋の燠よ
〈義務〉の炎を上げるのは
ついに という間(ま)もないうちにね

そこに望みがあるものか
救済だってあるものか
忍耐の要る学問だ
煩悶だけは確実さ

見つかった
何が? ―〈永遠〉
太陽と一緒に行った
海のことだよ


詩人紹介
アルチュール・ランボー Arthur RIMBAUD (1854一1891)
アルデンヌ県シャルルヴィル生れ。16歳で家出し初めてパリに出る。1871年パリコミューンの動乱のさなか三度目の家出をしパリ滞在。ポール・ヴェルレーヌに手紙を書き、招かれてパリに本格的に滞在。ヴェルレーヌの家庭崩壊の原因となる。二人でベルギー、イギリスを放浪するが、1873年、ブリュッセルで泥酔したヴェルレーヌに拳銃を発砲される。わずか3年ほどの間に少なからぬ韻文詩と散文詩集『地獄の季節』『イリュミナシオン』を書いた後、詩を放棄。天才少年詩人として神話化される。1876年からアジア、アフリカを遍歴後マルセイユの病院で死去。
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一行詩の紹介       高橋透水

2014年02月25日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

  聖者になりたい

佐保姫が言った。抱いてみて、私の好さが判るから。  美のり

聖者になりたい。だから、青き踏む。          万々

ママ、なぜぼくは白い羽なの?赤よりいいでしょう!    爛子

ジャズが死んだって!神はとっくに死でるよ。     マックス


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 これらは、どう考えても俳句じゃありませんね。表現は自由ですから、自由に、ってとこですかね。
 ストーリトダンスをやったり、楽器を奏でている若者を見ていると、人間は自己表現を欲している動物であると、つくづく感じます。
 詩でも短歌でも俳句でもない、新しい表現形式?果たして今後どうなるのか。
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一行詩の紹介       高橋透水

2014年02月21日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史



 春だ、耳の貝を毀し、口づけしよう      かげろう

 樹になりきろう。春の育つのが解るから     洋平

 裏切りなさい!しょせん春聞なのよ    みずほ


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破滅(ボードレール)悪の華より

  絶え間なく余の傍らを動き回る悪魔が
  透明な空気のように余にまとわりつく
  飲みこむや それは余の肺をこがし
  罪深い永遠の欲望で満たす

  余がこよなく美を愛するのを知って
  女の中でも飛び切り美しい姿をとり
  偽善的でもっともらしい言い訳をいいながら
  余の唇にいまわしい媚薬をこすりつけるのだ

  悪魔は神の視線を避けながら
  疲れてあえぐ余を導き
  寂れ果てた倦怠の荒野へと連れてゆく

  そして困惑した余の目の中に
  汚い衣装や開いた傷口
  血なまぐさい破滅の数々を投げ込むのだ  
  
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今日の紹介句 <紅梅の深空あり>      高橋透水

2014年02月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
エッセイ・一句鑑賞等は週一回(土ないし日)発信予定。
その間は不定期ですが、俳句に関する雑文を発信します
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 白梅のあと紅梅の深空あり     飯田龍太

 近くの公園は、白梅も紅梅も花盛り。冬椿が終りに近づき、黄水仙に小さな春を見つけ、残雪・梅・風そして、空の青と光、春の息吹があちこちに感じられました。
 さらに進むと、先日関東を襲った大雪のためか梅の雪折れが見られました。肌を抉られ、内臓を見せる折れた枝にも白梅が凛と咲いていました。少し離れたところに、残雪の上に紅梅の花びらが散っていました。雪の白と梅の紅い花びら、この季節ならではのコラボでした。
と、鋭い鳥の一声。見上げると深空には光り輝く白雲がゆっくり歩いていました。

★その他、お気に入りの句 
 梅一輪一りんほどのあたたかさ      服部嵐雪
 二もとの梅に遅速を愛すかな       与謝蕪村
 ほつほつと空をついばむ梅の花      村上瑪論
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●今日の紹介句・・・春の雪

2014年02月15日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
船からは汲んで捨るや春の雪     吐月

春の雪は溶けやすい。水分を含んだ雪は靴で踏むと地面が現れるほどだ。
踏まれて出来た細道に雪解水が溜まってくる。意外と歩きにくい。
掲句も思いがけない春の雪で、船に積もった雪掻きは水をくむようだったのだろう。

春の雪しきりにふりて止みにけり     白雄

木を辷る肌のゆるみや春の雪       素丸
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蕪村はその時、どこにいたか。     高橋透水

2014年02月12日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  菜の花や月は東に日は西に    蕪村

 「蕪村はその時、どこにいたか」は野暮な問い。
 こんな愚問も酒の肴になる。カウンターの数人が興味深げに耳を傾ける。新宿の居酒屋だ。風変りな顔見知りばかり。
「どこにいたかって、そりゃー、月と日の間の地上に決まってるじゃないか」と即座に答えが返ってきた。
もう少し、この句の出来た状況を知っている人が、「この句は神戸六甲山脈の摩耶山を訪れたときのものだ」と得意げに教えてくれた。続けて、「六甲山脈は海の近くで、また当時は、摩耶山には見渡す限り菜の花が咲いていたんだよ」と付け加えた。
 もう一人、文学被れだった、元青年がおれの出番とばかり口を開く、
「この句って完全な蕪村のオリジナル作品じゃないんだ。陶淵明や李白に、設定が類似した漢詩があるし、それにほら、人麻呂の〈東の野にかぎろひの立つ見えて顧みすれば月傾きぬ〉っていう歌があるだろう。月と日は反対だけどさ。そうそう、こんなのもあるよ、〈月は東に昴は西に いとし殿御は真ん中に〉なんてね。蕪村は殿御気分で、もちろん真ん中にいたのさ」話しながら陶酔している。
 ここで、じっと聞いていた、物知り男が登場、
 「フェクションだね、蕪村はそいいう男さ」と得意げに、「あいつは絵を一番、俳諧など道楽としか考えていなかったんだ」と。皆の様子を見つつ、ビールを注ぎ、「この句は安永三年の作で、これを発句として蕪村・樗良・凡董の三人が歌仙を巻いたときのもの。その初めの三句はだね、
  菜の花や月は東に日は西       蕪 村
   山もと遠く鷺霞み行         樗 良
  渉し舟酒価(さかて)貧しく春暮て  凡 董
 
だよ、洒落てるじゃないか」と美味そうに、ビールを飲み干した。

 そうか、蕪村は頭のなかで、漢詩や万葉集の人麻呂の歌を念頭に一句をものにしたのか。それなら、頭の中でこの句の情景を思い浮かべれば充分らしい、と半分合点していると、
 「でもそんなこと関係なく、この句を素直に味わったらどうなの。純粋にさ・・」
と、この店の常連で、俳句をやっているらしい五十路の女が加わった。この女酔っ払うと誰にでも抱きつく。いつだったか、ほっぺにキスをされたこともあった。窓からは貌半分の月が嗤っているのが見えた。
 すると、店の奥にいた某大学の院生が立ち上がった。晩学だから、三十は過ぎている。「面白いことが、出ていますよ。その句についてですが」
 パソコンを開いていたのだ。いつもスマホ、タブレット、パソコンを駆使して情報を提供する便利屋だ。
 その面白い事とは。うーん、喉が渇いた。ま、酒でも飲んだ後でということに。


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芭蕉の心的世界       高橋透水

2014年02月04日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

おくのほそ道』 序章  「そヾろ神」について

『おくのほそ道』の序文にあたる「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」は、一般に芭蕉の人生観、宇宙観、自然観、死生観、宗教観等、芭蕉の思想・哲学が集約されていると考えられている。
「古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず・・・」にある、「片雲の風にさそはれ」は異界・他界の世界への旅でもある。
では、「・・、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々」の【そヾろ神】とはどんな神なのだろう。

 以下、深澤忠孝(備考あり)の文を参照にして見てゆきたい。
 「そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」云々にシャーマニステックな心理状態が 考えられるが、芭蕉は「そヾろ神」に憑かれ、「道祖神」に招かれて、その(悠久の)世界に旅立ち、旅の 日々を過ごすことを望んだのだろう。
 「そヾろ神」は、岩波古典体系本頭注に「人の心をそぞろかす?一種の俗神、またはあるき神」とある。
 この神は本例(おくのほそ道)以外に用例がなく、芭蕉の創造した神であろう。「そヾろ」は「すヾろ」の 転化形である。「そヾろ神」は芭蕉にとっては漂泊をそそのかすだけでなく、漂泊そのものを支え、創造へ 向かわせる「内なる神」である。これは道の神である「道祖神」と対置される。
  この背景には、『義経記』巻五の末に、義経が吉野山逃亡中、道祖神を葛城山・吉野山の仏、山の神と対 等に扱う場面がある。義経の神格の高さ、信仰の篤さが思われる。義経を敬愛した芭蕉にも同じことが言え ることである。
 以上より、深沢氏は『おくのほそ道』にいう「そヾろ神」は、芭蕉の創造した神で「内なる神」と定義している。

 ここで「うちなる神」の形成に重要な点は、芭蕉の生育に関わる故郷の環境であろう。芭蕉の幼少時代は不明な点が多いが、年譜によると、明暦二(一六五六)年、芭蕉十三歳。二月二十八日、父没す。愛染院に葬る。享年不詳、とある。
 この愛染院という寺名がなんらかのヒントにならないだろうか。これも深澤氏の説になるが、この寺は修験者が崇拝対象とした愛染明王本尊とする真言宗の寺で、正しくは通光山願成寺という。芭蕉は、修験に深くかかわる真言儀礼の中で育ったと考えてよいだろう。
 また伊賀は伊勢に密接であり、そこは「道祖神」に繋がる天之宇受売・猿田毘古信仰の強い土地であった。このことも、芭蕉の心的形成に影響のあったことは充分考えられる。

 さて、おくのほそ道という、芭蕉にとって未知の東北への出立にあたり、「住める方は人にゆづり、杉風の別墅に移るに、〈草の戸も住みかはる代ぞひなの家〉など、面八句を庵の柱にかけおいた。」と記されている。
 芭蕉はこの句に己と一般庶民、すなわち、わび住いの草の戸と平凡な市井の雛の家、わびしさとはなやかさ、ひいては漂泊と安住の身を対象として表現した。そして虚の世界(死から再生への体験)へと芭蕉は旅立ったのである。
 『おくのほそ道』の序章には様々は芭蕉の知的概念が詰め込まれている。その一つ「そヾろ神」は、旅の動機付けを表わすのに便宜至極な道具(言葉)であった。

 ★(備考)
深澤忠孝  
 昭和九年、福島県生れ。早大一文(国文学)卒。詩と評論等の著書あり。
 俳句も手掛ける。
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