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写生句は類句の山か  高橋透水

2023年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
写生句は類句の山か  高橋透水

リアリズムという言葉が政治や経済の用語として世界の社会状況の論議の指標になっているが、俳句界ではリアリズムという用語はほとんど聞かれない。いまころリアリズム俳句などというのは時代錯誤なのだろうか、などとと思っていたらそうでもない。
角川の『俳句』(2022年9月号)に浅川芳直が「悲観的写生説とリアリズム」のタイトルで評論していた。写生を悲観的にとらえてはならないということだが、詳しい内容は本書を一読していただくとして、そのなかで写生と類句のことだけでなく、リアリティー俳句の問題点を論じているに注目した。
リアリズム俳句の類似性であるが、歴史をみると確かに、新興俳句やその後の特異であるはずの戦場からの俳句には富澤赤黄男や長谷川素逝に独自性があったものの、大方は類想を避けられなかった。戦時下の言論統制もあったろうが、戦禍相貌俳句・銃後俳句は似非リアリズムでしかない。これは赤城さかえが火付け役になった戦後リアリズム俳句の勃興期でも、その後の偏った社会主義的リアリズム運動としても限界があり、ここでも類句類相は避けえなかった。
ところで、子規没後すでに百二十年経つ。虚子を引き継いだ「ホトトギス」はいまでも華やかに俳壇の一角を占めている。写生や花鳥諷詠を唱えた伝統は途絶えることなく連綿と受け継がれている。これは句作に写生は基本であることの表れである。結社では写生を重んじた句作が励行され、そうした写生俳句が高い評価を受けることも当然のことである。また写生俳句は類句の要因と評されることが多いが、必ずしもそうでない。句作の態度と意識が問題であるだけだ。
もう一つ類句の一因に季語重視が考えられる。思うに季語は舞台設定で、まさに季節や環境、また時代など詠み手と読み手の共通の時間や空間を構成する道具である。歌枕、名所旧跡、歴史的できごとなど読者と共有できることが前提であり、つまり時間性や歴史の共通認識と考える。季題はそれだけで重みがあるのだから、季語という大きな背景に今を詠むことだ。そのうえで出来たら現代の時間空間を意識した写実的でリアリティある俳句が望まれよう。

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芭蕉の発句アラカルト(18)高橋透水

2023年06月02日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり   芭蕉 

 句だけでは、鑑賞に困難な点があるので、まず句の前書きをみてみると、「二十日余りの月かすかに見えて、山の根ぎはいと闇きに、馬上に鞭を垂れて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に到りて忽ち驚く」とある。
 これの簡単な解釈はつぎのようになろう。
 「二十日過ぎの明けきらぬうちに宿を出て、馬上でうとうとして夢見心地でいたら、ハッと目が覚めた。気づくと、山際には月がかかり、里の家々から茶を煮る煙が立ちのぼっている」くらいの意で、「茶を煮る煙」とは茶農家が茶葉を蒸すときの煙のことである。
 さて前書きにある「杜牧が早行の残夢」というのは、杜牧の『早行詩』のことだが、これも次に紹介してみると、「垂鞭信馬行/数里未鶏鳴/林下帯残夢/葉飛時忽驚/霜凝孤鶴迴/月暁遠山横/僮僕休辞険/何時世時平」であり、その意訳は
 「鞭を垂れて馬にまかせて進んで行く。数里来たがまだ鶏鳴は聞こえない。林の道をうとうとしていると、木の葉の飛ぶ音に驚かされる。霜は凝り固まって、かなたに鶴が一羽と、有明の月の向こうの山々が見える。僮僕よ、この先の厳しさを言わないでくれ。いつの日か平和な世が来るだろう」となる。
 これを見ても分かるように、芭蕉の句は杜牧の漢詩が土台になっていることがうかがわれる。山本健吉は、「発想はほとんど杜牧の詩に依拠していて、実景によるよりは杜牧の詩の焼き直しといってよい。過去の詩人たちとの詩心の時間的交通の上に築かれているのだ」といっている。ここでは「茶のけぶり」だけが、馬上で覚めて確かに認めたイメージなのである。つまり借りものの世界と現実、虚と実との交錯、夢と現実が重なり合った世界を一句にしたもので、芭蕉の言う「黄金を延べたような句」とはとてもいえない。虚実の世界を組み合わせて工夫はされているが、この句も漢詩からの影響をまだ十分に脱していないとみてよいだろう。したがって芭蕉の新境地を探る旅はまだまだ続くのである。
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