馬ぼくぼく我をゑに見る夏野かな 芭蕉
天和二年十二月の江戸の大火災で、深川の芭蕉庵が類焼した。住まいをなくした芭蕉はこれを機に翌三年の夏まで甲斐国で流寓生活を送っている。甲斐には懇意だった芭蕉の門人秋元藩家老高山麋塒がいたので頼って行ったと考えられる。この句は旅のつれづれを絵に描き、自画像から<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>の句を作ったといわれるが諸説ある。
『真澄鏡』には、芭蕉の滞在のことが触れられており、三吟歌仙二巻が残っていてその一巻に、
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変手ぬるゝ滝しぼむ滝 麋塒
蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て 一晶
以下略 (『一葉集』連句の部)
ちなみにこの句に関連した画賛には、「笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ」とある。
芭蕉は広々とした夏野を、馬の背にゆられて、馬の歩みのままにぽくりぽくりと進んでゆく。芭蕉は夏野を進みつつも、一方でそんな我が姿を客観的に眺めつつ、あたかも自画像を一幅の絵とするように句を認めた。
みずからを「坊主」と呼び、その旅を「三界流浪の桃尻」とするなど諧謔的で面白い。
その後も江戸と甲斐を往復し逗留をくりかえしたが、句に幾度かの推敲のあとが見受けられる。そんな推敲の跡を(「芭蕉の世界」尾形仂著)から紹介してみることにしたい。
<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>(夏馬はかばと読む)が初案のようだ。続いて<夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな>→<夏馬の遅行我を絵に見る心かな>となったという。
このように俳諧でもまた紀行文でも、何年掛けても推敲を重ねる芭蕉の情熱と執念は凄まじい。大いに学ぶべきことだろう。
俳誌『鷗座』2022年1月号より転載
天和二年十二月の江戸の大火災で、深川の芭蕉庵が類焼した。住まいをなくした芭蕉はこれを機に翌三年の夏まで甲斐国で流寓生活を送っている。甲斐には懇意だった芭蕉の門人秋元藩家老高山麋塒がいたので頼って行ったと考えられる。この句は旅のつれづれを絵に描き、自画像から<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>の句を作ったといわれるが諸説ある。
『真澄鏡』には、芭蕉の滞在のことが触れられており、三吟歌仙二巻が残っていてその一巻に、
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変手ぬるゝ滝しぼむ滝 麋塒
蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て 一晶
以下略 (『一葉集』連句の部)
ちなみにこの句に関連した画賛には、「笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ」とある。
芭蕉は広々とした夏野を、馬の背にゆられて、馬の歩みのままにぽくりぽくりと進んでゆく。芭蕉は夏野を進みつつも、一方でそんな我が姿を客観的に眺めつつ、あたかも自画像を一幅の絵とするように句を認めた。
みずからを「坊主」と呼び、その旅を「三界流浪の桃尻」とするなど諧謔的で面白い。
その後も江戸と甲斐を往復し逗留をくりかえしたが、句に幾度かの推敲のあとが見受けられる。そんな推敲の跡を(「芭蕉の世界」尾形仂著)から紹介してみることにしたい。
<夏馬の遅行われを絵に見る心かな>(夏馬はかばと読む)が初案のようだ。続いて<夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな>→<馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな>→<夏馬の遅行我を絵に見る心かな>となったという。
このように俳諧でもまた紀行文でも、何年掛けても推敲を重ねる芭蕉の情熱と執念は凄まじい。大いに学ぶべきことだろう。
俳誌『鷗座』2022年1月号より転載