約束の寒の土筆を煮て下さい 茅舎
昭和十六年三月号『俳句研究』の「心身脱落抄」、「二水夫人土筆摘図」より。
二水夫人は、茅舎の指導していた「あをきり句会」の藤原二水の夫人という。当時、茅舎はカリエスの後遺症というべき病弱の身で寝ている日が多かったが、そんな茅舎を二水夫人が見舞った時のことだ。ひょんなことで土筆の話が二人の間に出て、茅舎は体によく滋養になるなら土筆を食べてみたい、とお願いしたのだろう。再び訪れた二水夫人に、「あのとき約束した土筆を煮てください」とジョーク交じりに言い、その軽い気持ちを句にしたと思われる。夫人に甘えられるほど二人の間は親密だったのだ。
子供のときから絵を描くことの好きだった茅舎は、更に父の影響で俳句を覚え、また父と一緒に句会にも出席している。大正四年、十八歳のとき、「ホトトギス」二月号の虚子選に〈藪寺の軒端の鐘に吹雪かな〉がある。
茅舎は俳人より、画家を目指していたが、希望の画家を断念しなければならない事態が起こった。昭和四年カリエスの疑いが出、五年には病気が確定した。六年十一月、三十四歳のとき脊椎カリエスのため昭和医専付属院に入院した。それから茅舎の闘病生活は十年ほど続くことになる。
茅舎は昭和十六年の七月、四十四歳で長逝したが、死の一、二年前の句を挙げてみると、
咳き込めば我火の玉のごとくなり
咳き止めば我ぬけがらのごとくなり
火の玉の如くに堰きて隠れ栖む
咳止んでわれ洞然とありにけり
さらに、
咳暑し茅舎小便又漏らす
がある。これらに壮絶な闘病生活を垣間見る思いだが、冷静に自己観察している俳人茅舎がそこにいて、まさに心身脱落の吐露である。
さて、「寒の土筆」というと「寒卵」を連想するが、やはり滋養のあるものなのだろうか。としても「寒の土筆」など滅多に見つからないだろうに、二水夫人はどこで見つけたのか茅舎を訪れた。
その時の句に〈寒のつくしたうべて風雅菩薩かな〉がある。二水夫人は約束を果たして土筆を煮てくれた。その気持ちが何とも嬉しい。風雅に生きる自分はもう菩薩になった気分だと、あくまでもユーモアと感謝を忘れない茅舎である。
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