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山頭火の一句鑑賞(十)         橋透水

2015年05月04日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
お墓したしくお酒をそゝぐ   山頭火

 昭和十四年の四月初め、山頭火は待望の井月の墓参を果たした。掲句には「井月の墓前にて」という前書きがある。
 山頭火の井月への憧れは強いものだった。山頭火の父親は大地主から身をくずし、造り酒屋を倒産させ一家は離散した。山頭火は生地を離れ、行乞の身になった。井月もまた武士の身から放浪の身になり、信州の伊那に辿り着いた。俳諧師のような生活をしていたが、酒好きが災いしてか、やがて「ほかいびと」と呼ばれる乞食のような生活を送ることになった。終には「虱井月」「糞井月」と呼ばれてその地で生を終えた。終生芭蕉に憧れて俳句を作り、伊那ではしばしば句座をもった。
 昭和九年三月二十一日の山頭火の日記に、「出立の因縁が熟し時節が到来した、私は出立しなければならない、いや、出立せずにはゐられなくなつたのだ」とある。
 ここにある「出立」とは伊那への井月墓参のことである。三頭火は知人から『井月全集』を借りて以来、井月の墓前に足を運びたいと考えていた。一度めの旅立ちは病に罹り引き返した。寒さのためか急性肺炎になり、地元の川島病院に入院した。井月の墓までもう少しの所で墓参を果たさずに帰路についたのだ。
 五年ぶりで漸く墓参が実現したわけだが、その井月の墓は塩原家の墓地の端、大きな樹木の下に卵型の自然石のちっぽけなもので、むしろ供養碑といってよく〈降るとまで人には見せて花曇〉と井月の句が刻まれている。
 その時の様子を山頭火は斉藤清衛にあてて手紙を認め、「伊那では井月の墓にまゐりました、宿願の一つを果たすことが出来ました、きのふもけふも木曽路を歩きました、木曽は花ざかり、そして水のゆたかさきよさうまさ。〈旅人の見ぬちしみとほる水なり〉」
と記している。山頭火は井月の墓に向かい、「お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました」と前書きして、〈駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね〉〈供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝〉と詠っている。


  俳誌『鷗座』2015年五月号より転載
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