冬深し柱の中の濤の音 櫂
新潟生まれの私はこの句に出会ったとき、岩を食む怒濤が眼に浮かび、その怒濤音が耳を襲ってくるのを禁じ得なかった。それは人一人いない、冬の昏い日本海の風景だ。
松林が北風に吠える。大鎌のような波頭、捲いた絨毯が解けるような長い波。
やはり一番に印象に残るのは、岩にぶつかり砕ける果敢な怒濤だ。濤は白く砕け、また黒に戻る。
まさに源実朝の〈大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも〉の世界だ。いやそれ以上の絶叫世界なのだ。
それにしても「柱の中の濤の音」は、海鳴りの凄まじさの実体験を的確に表現した、いつまでも耳に残る句となった。
冬の日本海のこんな怒濤を見たら、芭蕉はどんな句を作っただろうか。
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紹介句について、幸い長谷川櫂の自解があるので、下記に掲げた。
「大学を卒業すると、新聞社に入り、記者として新潟市で仕事を始めました。ここから日本海の海岸に沿って南西へ下ってゆくと、出雲崎という海辺の町があります。ここは芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中に立ち寄って、「荒海や佐渡によこたふ天の川」という句を詠んだ場所です。冬になるとこの辺は、大陸からの北風が一日中、吹きつけ、黒い大きな波が海岸に打ち寄せます。夜になると、地面を伝わってくる海鳴りで宿の太い柱が鳴り響いているようでした。木枯らしの吹く日に、電柱に耳をつけると空を吹く風の音が聞こえますね。あれと同じです。」(新書館「現代俳句の鑑賞」)より
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長谷川櫂の経歴
(ウィキペィアのフリー百科事典から引用しましたが、誤記等がありましたらご容赦ください)
熊本県下益城郡小川町(現宇城市)生まれ[1]。熊本県立熊本高等学校、東京大学法学部卒業。1978年読売新聞社入社。句作は中学時代より行い、新聞社入社の翌年に「槇」に入会、平井照敏に師事。1989年より飴山實に師事。飴山は結社を持っておらず、飴山の句にほれ込んだ長谷川が手紙を送って入門を乞い、以後毎月原稿用紙に句を書いて送り選をしてもらうという師弟関係を結んだ(『俳句の宇宙』)。1990年、『俳句の宇宙』で第6回俳人協会評論賞、第12回サントリー学芸賞受賞。1993年「古志」創刊、主宰。2000年、読売新聞社を退職し専業俳人となる。2002年、第五句集『虚空』により二十一世紀えひめ俳句賞第1回中村草田男賞、翌年に第54回読売文学賞を受賞。2004年より読売新聞に詩歌コラム「四季」を連載。2009年、「古志」主宰の定年制を表明し、2010年限りで主宰を退いた。後継の主宰には1980年生まれの若手大谷弘至を指名した。特定非営利活動法人「季語と歳時記の会」代表、東海大学文学部文芸創作学科特任教授、朝日俳壇選者を努める。
新潟生まれの私はこの句に出会ったとき、岩を食む怒濤が眼に浮かび、その怒濤音が耳を襲ってくるのを禁じ得なかった。それは人一人いない、冬の昏い日本海の風景だ。
松林が北風に吠える。大鎌のような波頭、捲いた絨毯が解けるような長い波。
やはり一番に印象に残るのは、岩にぶつかり砕ける果敢な怒濤だ。濤は白く砕け、また黒に戻る。
まさに源実朝の〈大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも〉の世界だ。いやそれ以上の絶叫世界なのだ。
それにしても「柱の中の濤の音」は、海鳴りの凄まじさの実体験を的確に表現した、いつまでも耳に残る句となった。
冬の日本海のこんな怒濤を見たら、芭蕉はどんな句を作っただろうか。
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紹介句について、幸い長谷川櫂の自解があるので、下記に掲げた。
「大学を卒業すると、新聞社に入り、記者として新潟市で仕事を始めました。ここから日本海の海岸に沿って南西へ下ってゆくと、出雲崎という海辺の町があります。ここは芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中に立ち寄って、「荒海や佐渡によこたふ天の川」という句を詠んだ場所です。冬になるとこの辺は、大陸からの北風が一日中、吹きつけ、黒い大きな波が海岸に打ち寄せます。夜になると、地面を伝わってくる海鳴りで宿の太い柱が鳴り響いているようでした。木枯らしの吹く日に、電柱に耳をつけると空を吹く風の音が聞こえますね。あれと同じです。」(新書館「現代俳句の鑑賞」)より
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長谷川櫂の経歴
(ウィキペィアのフリー百科事典から引用しましたが、誤記等がありましたらご容赦ください)
熊本県下益城郡小川町(現宇城市)生まれ[1]。熊本県立熊本高等学校、東京大学法学部卒業。1978年読売新聞社入社。句作は中学時代より行い、新聞社入社の翌年に「槇」に入会、平井照敏に師事。1989年より飴山實に師事。飴山は結社を持っておらず、飴山の句にほれ込んだ長谷川が手紙を送って入門を乞い、以後毎月原稿用紙に句を書いて送り選をしてもらうという師弟関係を結んだ(『俳句の宇宙』)。1990年、『俳句の宇宙』で第6回俳人協会評論賞、第12回サントリー学芸賞受賞。1993年「古志」創刊、主宰。2000年、読売新聞社を退職し専業俳人となる。2002年、第五句集『虚空』により二十一世紀えひめ俳句賞第1回中村草田男賞、翌年に第54回読売文学賞を受賞。2004年より読売新聞に詩歌コラム「四季」を連載。2009年、「古志」主宰の定年制を表明し、2010年限りで主宰を退いた。後継の主宰には1980年生まれの若手大谷弘至を指名した。特定非営利活動法人「季語と歳時記の会」代表、東海大学文学部文芸創作学科特任教授、朝日俳壇選者を努める。
よりによって「長谷川櫂」などという人格低劣な愚物如きを、どうして紹介されているのでしょうか?
陰険卑劣、臆病無比、無知無教養な最低の存在でしかない出来損ないの長谷川櫂というオカマを?
詩人の高橋睦郎氏に、新宿二丁目のゲイバーのママを介して取り入り、己れの駄句を一字一句添削して貰った上で、処女句集として世に出し貰っておきながら、高橋氏を無視する挙に出た事実は余りにも有名です(高橋睦郎『友達の作り方』マガジンハウス刊を参照)。大恩人に後足で砂をかける忘恩の嫌らしさのみならず、長谷川櫂は子供の頃から子猫を嬲り殺しにしては悦に入ったり、自分より遙かに優れた人物を、嫉妬心と劣等感から陰険な策を弄しては陥れたり等々と、悪行を散々重ねて来た最下等のクズでしかありません。もう少し身元を調べてから、掲載するようになさっては如何なものでしょうか?
老婆心から一言。
さらに詩人の高橋睦郎著『友達の作り方』(マガジンハウス・刊、1993年)の349ページ以下には、
若いころ長谷川は同性愛者専門の新宿二丁目の飲み屋に頻繁に出入りし、ゲイバーのマスターを介して高橋睦郎と知り合うと、
高橋宅に日参するように駆け寄せて巧みに取り入り、処女句集の自作を一字一句添削してもらった上、題名までつけてもらい出版にこぎ着けておきながら、
意図的に高橋睦郎氏の名を謝辞から外して無視し忘恩ぶりを露わにしたり、また自己の性的指向を隠して異性(女性)と結婚したりするなど、
その「人格」を疑わせる事実が記されている。
やはりオカマの長谷川櫂は、高橋睦郎氏のみならず、法律上の配偶者となる女性をも欺いて、
異性愛者のふりをして「結婚」し、愛情の片鱗も無い偽りの「家庭」をつくり、
家族に隠れて同性愛者のハッテンバに足繁く通っていた色情狂の去勢豚だったのです。
この陋劣下等な「人格」の欠落には、さすがの髙橋睦郎氏も長谷川櫂を「俳句とは無縁な人」と断言しています。
救いがたい変質者・長谷川櫂=長谷川隆喜なる下等な鼠輩が、いくらNPO法人をつくって売名行為に走ろうと
東海大学で非常勤講師に雇われようと、その愚劣卑怯極まりない品性は既に見抜かれているんですね。
詳細は「長谷川隆喜 オカマ」で検索をされたし。
大恩ある高橋睦郎氏を誹謗中傷したり、NPO法人をつくって人気取りに励んだり、「近いうちに褒賞を受ける用意がある」だなどと大言壮語したり、同性愛者なのに自己の性的指向を偽って相手を欺し、異性=女性と偽装結婚しては全く愛情のかけらもない虚構の家庭をつくりつつ、妻子に隠れて同性愛者のハッテンバへ出入りを繰り返したり、等々といった風に。
ともあれ、長谷川櫂というのは「俳人」と呼ぶに値するのでしょうか?
そもそも読売新聞の社員だったから、お手盛りで読売文学賞を貰ったという風評もあるようですし。
東海大学でも藤沢界隈でも、俳句界でも嫌悪する人々が大勢いるという話ですから。
殺していた実話は、普くよく知られている。
学生時代には「長谷川櫂(長谷川隆喜)」本人が自慢気に吹聴して回っており、
それを聞かされたという証人が幾人もいる。
この変質者の老オカマは今では過去の犯罪的行為を平気な面(ツラ)で否定しては
読売新聞に短歌記事を書かせてもらったり、東海大学に非常勤講師として雇われては、
その立場を悪用して男子学生に淫らなセクハラ紛いの振る舞いを 続けていると聞く。
さらに藤沢近辺のゲイの発展場へ忍び込んでは盗撮カメラで男性の全裸を隠し撮りもしているとか。
要注意だ!
●詳しくは「長谷川櫂 オカマ」で検索を。
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上記の記載を見つけました。
参考までに。