白梅や老子無心の旅に住む 兜太
句集『少年』に収録された十八歳の時の作品であるが、俳句を始めての第一作目のものという。兜太は埼玉県の秩父で育ち旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類を経て、一九四三年に東京帝国大学経済学部を卒業した。句作の切っ掛けは高校在学中に一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加したことである。実は母親から俳句をやることは固く禁じられていたのだが、三太の巧みな言葉に乗せられてしまったのだ。
母親が反対したのは、父親の金子伊昔紅が秋桜子系の俳人で、自宅で開かれる句会の様子を見てのことだった。句会の後酒を飲みながらの争いはいつものことで、兜太にはそういう真似はさせたくなかったのだ。しかし兜太は高校時代に約束を破って句会に出た。
鑑賞句の〈白梅や〉はその時の句だ。下地には北原白秋の『老子』という詩に、「青の馬に白の車を挽かせて、/老子は幽かに坐つてゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為、……」というフレーズがあり、それが基になっている。
初めての句会に出た翌年には全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得たことは、兜太の人生を大きく変えたと言ってよい。東京大学入学後は、楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事した。草田男からは俳句、楸邨からは人間性の影響を受けたという。
さて「白梅」であるが、水戸の偕楽園などがある常磐公園の梅を念頭においてのことらしい。ただ「しらうめ」と読むか「はくばい」と読むかだが、「孔子無心の旅」の語感から察して「はくばい」と読むべきだろうか。最初の句会でなかなかの好評を得たことが兜太の俳句人生を決定したと言ってよいくらいだが、いずれにせよ「無心の旅」という措辞に既に兜太の「定住漂白」への思いが芽生えていたようだ。当時の戦争社会に対するレジスタン的な気分と、一方では山頭火などに惹かれ老荘の思想に憧れる心があったのだ。
俳誌『鴎座』2016年8月号 より転載
句集『少年』に収録された十八歳の時の作品であるが、俳句を始めての第一作目のものという。兜太は埼玉県の秩父で育ち旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類を経て、一九四三年に東京帝国大学経済学部を卒業した。句作の切っ掛けは高校在学中に一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加したことである。実は母親から俳句をやることは固く禁じられていたのだが、三太の巧みな言葉に乗せられてしまったのだ。
母親が反対したのは、父親の金子伊昔紅が秋桜子系の俳人で、自宅で開かれる句会の様子を見てのことだった。句会の後酒を飲みながらの争いはいつものことで、兜太にはそういう真似はさせたくなかったのだ。しかし兜太は高校時代に約束を破って句会に出た。
鑑賞句の〈白梅や〉はその時の句だ。下地には北原白秋の『老子』という詩に、「青の馬に白の車を挽かせて、/老子は幽かに坐つてゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為、……」というフレーズがあり、それが基になっている。
初めての句会に出た翌年には全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得たことは、兜太の人生を大きく変えたと言ってよい。東京大学入学後は、楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事した。草田男からは俳句、楸邨からは人間性の影響を受けたという。
さて「白梅」であるが、水戸の偕楽園などがある常磐公園の梅を念頭においてのことらしい。ただ「しらうめ」と読むか「はくばい」と読むかだが、「孔子無心の旅」の語感から察して「はくばい」と読むべきだろうか。最初の句会でなかなかの好評を得たことが兜太の俳句人生を決定したと言ってよいくらいだが、いずれにせよ「無心の旅」という措辞に既に兜太の「定住漂白」への思いが芽生えていたようだ。当時の戦争社会に対するレジスタン的な気分と、一方では山頭火などに惹かれ老荘の思想に憧れる心があったのだ。
俳誌『鴎座』2016年8月号 より転載