透水の 『俳句ワールド』

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富沢赤黄男の一句鑑賞(9)高橋透水

2020年02月23日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あはれこの瓦礫の都 冬の虹  赤黄男

 昭和二十年四月、赤黄男は空襲で焼け出され、武蔵野市吉祥寺の叔父の家に世話になった。終戦を迎えたのは四十三歳の時になる。
世情混乱のなか文芸活動は戦後まもなく興り、俳句界も二十一年には『太陽系』が創刊され、その東京支社を赤黄男は自宅においた。
 「瓦礫の都」の句は昭和二十一年五月号の『太陽系』に発表された。これは空襲で焼野原となった首都東京のことを詠ったものだ。米軍の空襲はすさまじく、ビルは焼けただれ、特に東京の下町は死体の山となり、街は黒い大地と化した。
 同時期の句に〈乳房に ああ満月のおもたさよ〉〈乳房や ああ身をそらす 春の虹〉〈母よろこびの掌をひらひらと入日かな〉また〈風をゆくうしろ姿の母とわれ〉などがある。戦後の混沌のなかで早くも母恋の句やエロスの世界を展開している。国民は兵役から解放されたが、貧困はむしろそれからであった。そんなときふと赤黄男は母のことを思いだしたのだろう。若いころに亡くした実母への深い追慕は年齢に関係なく強まってくる。
 また〈葉をふらす 葉を降らすとき 木の不安〉があるが、見方を変えればこれらの句には戦後の混乱と失意のなかで生を取り戻そうとする必死な模索を感じとることができる。
 和二十七年、赤黄男の第二句集『蛇の笛』が刊行されたが、その覚書には、
  「この十年こそは、全くおそるべき年であった。最後の崩壊へ追ひ詰められてゆく焦躁と混乱と自棄。更に敗戦の絶望と荒廃。
 自己を喪失し、虚妄を追ひ、荒地を彷徨したこの歳月。そして私もこの黒い底に沈み堕ちながら、匍ひ上らうともがき苦んだ年月
 であった。」
と述べている。
 これはなにも赤黄男だけの生活感でなかった。国民の大方は同様な苦しみのなかにいたのである。苦しい戦時を乗り越え、戦後の食糧難を乗り越え、戦のない平和を味わいつつ少しでも明るい将来へと必死に働いたのだ。

  俳誌『鷗座』2019年11月号より転載
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一人吟行の勧め    高橋透水

2020年02月18日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  一人 吟行を楽しむ

 

仲間二十人くらいで月に一回は吟行句会を行っている。そのほか誘われるまま十人前後の近郷吟行や、また気の合った俳友数人と小旅行を兼ねての吟行を行ったりしている。この数人の酒を交えての句会が一番楽しい。
 しかし他人のいる吟行ではどうしても時間の制約があり、ついつい観察に没頭して遅刻したり迷子になったりの失態が何度もあり、迷惑のかけっぱなしだ。
 最近、周りの人よりゆっくり歩いている自分に気づいた。これは決して年齢の所為だけでない。無意識に街中の人々の動きや店の佇まい、商品に視線が走っているからだ。
 一人旅行も実施している。時間を気にして、忙しくあちこち歩き回るのでなく、一つの町や観光地を一日もかけて同じ街並みをゆっくり歩くのだ。そうすると一回目より、二回目三回目のほうが、新しい発見があり、立体的な見方もできる。地元の人との会話も楽しめる。なにも遠出でなく、近くでも、季節を変えて訪れるとまた違った発見があるものだ。
俳句は座の文芸であるから、吟行はグループで行うことはもちろん大事だが、一人吟行もそれなりの収穫が多いのでぜひお勧めしたい。
 しかし一人吟行といって、せいぜい数日のことで、漂泊などよりほど遠いことはいうまでもない。つまり現代では表面的な心のなかでの、疑似漂泊で満足するしかないだろう。
   旅人と我名とよばれん初時雨 芭蕉
 今日、旅行していても旅人などと呼ばれることなどまずないだろう。まして山頭火の
   この旅、果もない旅のつくつくぼうし
   分け入っても分け入っても青い山
などの心境は憧れても現実的にはとても無理なことである。漂泊など死語に近く、定住漂泊などといっても帰るべきところがちゃんとある。現今の旅はガイドブックを頼りの先人の疑似体験でしかない。その点、一人旅は自然と対話をしながらの現代的な発見がある。
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富沢赤黄男の一句鑑賞(8)高橋透水

2020年02月09日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり
 
 
 発表されたのは戦後の句集『蛇の笛(「三元社・昭和二十七年)にある句だが、作られたのは昭和十六年で、初出はその年の『公論』九月号である。この奇異な句は、どんな状況でどんな心境で作られたのだろうか。作句時の前年である昭和十五年ころから、赤黄男の動きを見てみよう。
 日中戦争で中支から南支いた赤黄男は昭和十五年、戦場でマラリアに罹り帰国している。この間中尉に昇進するも召集解除された。昭和十六年再度召集を受け善通寺の部隊へ入隊した。そして翌年北千島の守備に着いたが、昭和十九年に召集解除された。この間、十六年に代表句〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉をふくむ処女句集『天の狼』を刊行している。
 さて、昭和十五年に病気になり帰国したときに赤黄男が目にしたのは、治安維持法違反の名目による俳人の検挙だった。なかでも、「京大俳句」を中心に検挙者は多数でた。そんな国情の厳しいなか昭和十六年に急いで句集『天の狼』の出版にこぎつけたものの、心は決して安らかでなかったことだろう。
 この頃から一字空き(一字空白)の句が目に付くようになる。同時代に、〈大地いましづかに揺れよ 油蝉〉〈虹を切り 山脈を切る 秋の鞭〉〈蒼空に けらけら嗤うたり 柘榴〉などがある。
 これらの一字空きは単なる切れでない。時間の経過や空間をとることで短兵急な思考の停止を求めているのだ。その分読み手は自由でしかも思考の広い鑑賞ができる。
 では「秋の鬼」とはなんの象徴か。また、「火を焚く」のはなんのために行うのか。おそらく「秋の鬼」は、お盆のころの鬼と考えてもおかしくない。「火を焚く」は、行事としては「迎え火」「門火」「流灯」「火祭」などがあるが、それらを念頭にした赤黄男独自の世界だろう。また鬼は赤黄男自身とすると火を焚くのは戦場でいのちを落した戦友の鎮魂のためとも考えられる。いや自分自身へ火を焚くごとく、赤黄男は戦場へ向かった。
   俳誌『鷗座』2019年10月号より転載

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