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金子兜太の一句鑑賞(三) 高橋透水

2016年10月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る  兜太

 兜太は昭和十九年に海軍主計中尉としてトラック島に赴任した。米軍の攻撃で壊滅的な状況になり、日本の艦隊は基地をパラオに移した後であった。物資が一切入らず、食料も底をつき、既に戦場としての意義を失いかけていた。戦争というより、飢えとの戦いだった。兜太は「主計は辛いんです。何人死んでくれたら、あとこの芋で何人生きられるかという、そんな計算もしてしまう。個人で感じなくてもいい罪の意識と、自分に対する嫌悪感がつのってきて、理屈ではなく、『戦争というものは絶対にいかん』と思うようになりました」と、その時の心情を語っている。
 兜太の「自選自解99句」によると、〈椰子の丘朝焼しるき日々なりき〉という句がある。「敗戦の日、甘藷作りをしていた島の警備隊の司令部に集められて、敗戦の伝達を受けた。その帰路、いつもの椰子の丘が見え、朝日が当たっていた。『これからどうなる、いや、どうする』などと歩きながら思っていて、思わずできたのがこの句だった」という。
 敗戦後すぐに帰還とはならず、兜太は米軍の捕虜として春島の米航空基地建設に従事した。鑑賞句は昭和二十一年の作で、ようやく捕虜から解放され、帰還船から島の死者に向かっての後悔と鎮魂の思いから出た句である。
 「死者に報いたい」と兜太は繰り返し語っている。「島での死者はほとんど餓死。隣にいた人が爆撃で死に、元気だった人が飢え死にしていく…。終戦後、一年三カ月の捕虜生活の後、島からの最後の復員船で島を離れるとき、死んだ人たちのことを思い、この人たちの死に報いなかったら生きている意味がない、と思いました。そのときに生まれたのが『水脈の果て…』の句です」と状況を述べる。
 墓碑は棒などで作る簡単なものもあったが、この場合の墓碑は大きな石を想定してのことで、帰還船からは実際は見えなかったが、映像として残ったのだ。いずれにせよ、トラック島での体験は兜太にとって戦後の歩みの原点であり、人生の転機になったはずである。
 俳誌『鴎座』2016年10月号より転載
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