透水の 『俳句ワールド』

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鈴木しづ子の俳句紹介(初学の頃の句)     高橋透水

2014年04月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  あきのあめ図面のあやまりたださるる   鈴木しづ子


 ほろろ山吹婚約者を持ちながらひとを愛してしまつた    
 春雷はいつかやみたり夜著に更ふ        
 婚期過ぐ日の鬱々に慣れて着る
 青葉風手管の口説聞きながす
 生理日のタンゴいつまでも踊らねばならぬ
 恋の夢わたしは匂うものさえない
 男の体臭かがねばさみしい私になった

 

 上記の、このような句をつくる若き女性に一体どんな生いたちがあったのか。興味が先に立つが先入観は最小限にし、なるべく多く鈴木しづ子の俳句に接することが賢明のようだ。

 大正8年生まれのしづ子は小学校のころから俳句を作っていたらしい。俳句以外にも文学に親しみ、なかなかの勉強家だったようだ。
  
  
  青空に校庭高くけやきの木      小学生のころ
  秋空に赤くもえたつ夕焼雲      小学生のころ
  窓の外青葉若葉がそよいでいる    小学生のころ


 若き高等女学校時代ころの心情を、しづ子は後になって句にしている。学校の先生になる希望も持っていた。国語の師に恋心を抱いた句やその他からも窺える。  

  学びけり少女の心いっぱいに
  図書館を井いで夕ざくら散るをみる
  不良性多分にもちて花は八重
  恋初めの国文の師よ雪は葉に
  恋初めの恋失せしめし卒業す
  ここに少女期太宰文学神とあほぎ


 いずれも少女らしい心情が綴られている。松尾芭蕉を少し勉強したというが、太宰治に憧れていたようだ。太宰の作品や生き方がしづ子に影響したかどうかは定かでないが、指摘する人もいる。
 親の期待に応えることができず女子大の受験に失敗したしづ子は、自己嫌悪に陥った。大学進学は諦めて製図の専門学校(中央工学校か)に通った。その後は工場に就職し社会人になった。
  

  ゆかた着てならびゆく背の母をこゆ  「樹海」昭和18年10月号
  青芒の一つ折れしが吹かれゐる    「樹海」昭和18年11・12号
  はり拭くと木の芽をさそふあめのいろ 「石楠」昭和19年4月号
  春雷はいつかやみたり夜著に更ふ   「石楠」昭和19年5月号
  春光の崖にあまねき枯穂刈る     「石楠」昭和19年6月号
  ががんぼは淋しからずや玻璃の雨   「石楠」昭和19年7月号
  木下闇蜘蛛しろがねの糸ふけり    「石楠」昭和19年8月号
  工場菜園畸形の胡瓜そだちつつ    「石楠」昭和19年10月号
  秋簾捲くや庭ぬち夜雨くる      「石楠」昭和19年11・12号
  虫音しげし廊わたりゆく夜着の裾   「石楠」昭和20年1月号
  時雨るるや掌をかさねをく膝の上   「石楠」昭和21年1月号

 以上の掲出句は、川村蘭太著(『しづ子  娼婦と呼ばれた俳人を追って』新潮社)を参考にしました。 
 
 戦後のしづ子は〈ダンサーになろうか凍夜の駅間歩く〉〈売春や鶏卵にある掌の温み〉にあるように生活が一変し、苦難の道を辿ることになる。終戦は二十六歳の時だったが、それ以前の句をもう少し紹介します


 
 たそがれやとぼしき黄葉を捨つる桑
 炭はぜるともしのもとの膝衣
 地におちし銀杏わか葉にさそはるる
 とほけれど木蓮の径えらびけり
 古本を買ふて驟雨をかけて来ぬ
 
  上記5句は、(「鈴木しづ子とそに回想」矢澤尾上)より


 二十歳ころ、将来を約束した許嫁の男性と出会ったが、男性の戦死により結婚は果たせなかった。結婚の夢を挫かれた失望感は、後々までしづ子の心を苦しめた。
 昭和15年、21歳になったしづ子は岡本工作機械製作所に入社した。設計科にトレース工として、初めて親元を離れての寮生活となった。会社での生活は戦時中という国勢も反映してか、なにか心の満たない日々が続いた。さらに悪いことに、16年の夏、母親が病に倒れ一家で福井市に転居する。しかし、しづ子は女子寮に残った。父への反目とも思われるが、真相は定かでない。

 鬱屈したしたしづ子に思いがけない転機があった。社内での俳句の会である。職場で改めて俳句を始めたしづ子は句作りに夢中になった。先輩のもとで俳句を生きがいにし、社会人としての道を歩んでいった。
 そして社内俳句部句会で生涯の俳句の師となる松村巨湫に出会うことになり、俳誌「樹海」に入会する。しづ子の俳句への情熱が爆発的に一気に高まってゆくのである。


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一行詩の紹介 〈ニートにも夢はありけり啄木忌〉     高橋透水

2014年04月23日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
幸せってなんだっけ

大地に幸せを撒くタンポポ     孝雄
口に草銜える暑い春だ      桃子
ニートにも夢はありけり啄木忌    健司
君をベットで転がし、人生ってなんだっけ    幾多郎
賢女ぶる。桜蕊降る夜の径を       亜沙子
朧夜を泳いできた君に乾杯!そしてキスを    マーラ
幸せ探しにも疲れた、ニッポンだ       アイズ
春暑し婚約指輪も緩びてしまう       園子


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詩・の・紹・介

一滴の涙     清水京太
今あなたは次『自』のうち、
どれかを考えているか実行しているだろう。
自慰・自虐・自傷・自己嫌悪・自殺願望
・自暴自棄・自責の念・自堕落・自嘲・自慢
・自問自答、などなど。

こんな状態の人に優しい慰めの言葉や愛が必要だろうか。
神や仏の慈悲を求めるべきだろうか。
YESでもなくNOでもない。
それより一滴の涙があれば十分だ。


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一行詩の紹介 〈ニートにも夢はありけり啄木忌〉      高橋透水

2014年04月23日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 幸せってなんだっけ

大地に幸せを撒くタンポポ    孝雄

口に草銜える暑い春だ      桃子

ニートにも夢はありけり啄木忌    健司

君をベットで転がし、人生ってなんだっけ    幾多郎
賢女ぶる。桜蕊降る夜の径を       亜沙子
朧夜を泳いできた君に乾杯!そしてキスを    マーラ
幸せ探しにも疲れた、ニッポンだ       アイズ
春暑し婚約指輪も緩びてしまう       園子

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【詩・の・紹・介】

一滴の涙      清水京太

今あなたは次『自』のうち、
どれかを考えているか実行しているだろう。
自慰・自虐・自傷・自己嫌悪・自殺願望
・自暴自棄・自責の念・自堕落・自嘲・自慢
・自問自答、などなど。

こんな状態の人に優しい慰めの言葉や愛が必要だろうか。
神や仏の慈悲を求めるべきだろうか。
YESでもなくNOでもない。
それより一滴の涙があれば十分だ。

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細見綾子の秀句鑑賞〈女身仏に春剥落のつづきをり〉(二)   高橋透水

2014年04月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 女身仏に春剥落のつづきをり      綾子


 春の雪」と題した綾子の文があるので紹介します。

  「昭和四十五年春に秋篠寺へ行った。
  過去何回も見ているのに、この日に見た技藝天は実にすばらしかった。遠くいつからか剥落しつづけ、 現在も今、目の前にも剥落しつづけていることの生ま生ましさ、もろさ、生きた流転の時間、それらはす べて新鮮そのものだった。新しい風物の前を自分の新しい時間が通り過ぎる。
   女身仏に春剥落のつづきをり
 は、その時の句である。」

 続いて、「秋篠寺」には次のような句がある。
   秋篠へ夕畦焼の火に追はれ
   畦焼の香を伎藝天の膝下まで
   畦焼の火色天女の裳に残る
   雪止んで日ざしを給ふ技藝天
  以上(「武蔵野歳時記」東京新聞出版局)より。

 さてこの『伎芸天』のあとがきに、「時間」について綾子は述べている。
  「私は今一番何が関心事であるかと問われればそれは時間だと答えるであろう。何が尊いかと言われればまた時間だと答えるであろう」
ここに、綾子の時間に対する思いが伝わってくる。若き日、綾子が当時まだ恋人だった沢木欣一に、
「人間のどんな生き方がいいのか分かりませんが、結局美しく浪費させたら」と語ったという。箕面の紅葉を愛でていた時だった。
 人生を美しく浪費する。綾子は自分を取り巻く環境のなかで、実感した本心だったのだろう。

 こうした綾子の時間概念の形成に、綾子の師である松瀬青々の句から影響がみられる。このことを指摘した杉橋陽一の文はあとで紹介します。

 ★まず、青々の句を何句かみてみましょう。
  風呂吹にとろりと味噌の流れけり
  かの岡に稚き時の棗かな
  年玉やかちかち山の本一つ
  石段にのる事二尺春の潮
  鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな

 清々の句と綾子の句を関連づけて、杉橋陽一は、
  凍の千年を仏瞬目の間かも   青々
  凍千年大戸の赤けの剥落し   青々
があるが、綾子には法隆寺での師清々の追悼句として
  千年の一と時生きて吾余寒    綾子
があり、「千年」という措辞に表現の共通性を感じると論じている。

 最後に、少し長いですが杉本の文章を引用します。
「(前略)しかしこの千年という数字が――「千年の一と時吾余寒」に戻ると――彼女において採られているのは、いい慣らわされたキリのいいものになっているためだけでない。「えにし」を作った青青の句を参照すれば直ちに理由はわかる。しかもいま挙げた青々の句のうち、前者、「凍の千年を仏瞬目の間かも」と、彼女の、たぶん自分自身でも気に入っているらしいこの作品を比べてみると、照応関係すら現われ出てくるのである。青々の千年には超越的なところがあり、鳥瞰している。千年が一瞬になっている。それにたいし綾子の方は、千年の中の一瞬を生きる自分への痛切な思いがあり、「余寒」という言葉が非常にきいている。小さな束の間の命がよく表現されていよう。強調のニュアンスに多少の違いはあっても、むしろ照応関係にこそ注目すべきだろう。さらにいえば、青々の後者の句からは、彼女の名作のひとつ、
  女身仏に春剥落のつづきをり
に関わるだろう。落剝を続けながら消え去るのではない。剥落のなかで生を新たにするのである。
(中 略)
 綾子の春と青々の冬、それが大きく見える相違になっているが、彼女のがわの一抹のナルシシズムがいわば性的差異になっている。(略)崩れ剥落するなかでほかならぬ新しい生を獲得するというのは青々とも共鳴するところではあるが、これが綾子にあってはことばにたいする彼女の態度と連動しているということが大切である。」
 杉橋陽一著(「剥落する青空  細見綾子論」白鳳社)より


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杉橋陽一の紹介(略 歴)
昭和20年、東京・田無生。
東京大学独文科卒。
専門はドイツ文学と表象文化論。
著書に『一角獣の変容(リルケ論)』(朝日出版社)、他多数。

 東京藝術大学のドイツ語講師時代に、同大学で教鞭をとっていた沢木欣一の知遇を得、沢木の句会に参加。俳誌『風』を読んでいるうち、細見綾子の俳句に興味と関心を抱くようになる。

松瀬青々について
松瀬青々は明治2年大阪生まれ。俳句は正岡子規に学んだ。明治32年、それまで勤務していた第一銀行を辞めて、明治33年5月まで『ホトトギス』の編集に従った。また大阪朝日新聞社に入り、「朝日俳壇」の選に終生当たった。明治34年『宝船』を創刊し、のち『倦鳥』と改題し、その経営に当たった。昭和12年没。

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鈴木しづ子の句<夏みかん酸っぱしいまさら純潔など>   高橋透水

2014年04月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
鈴木しづ子の10句    年代不順

【純 潔 な ど】
背信や寒をはなやぐちまたの燈
アマリリス娼婦に似たる氣のうごき
春嵐饐えし男體われに觸る
婚約や白萩の花咲きつゞき
秋蛾堕つ初戀の男慕はしからず

ダンサーになろうか凍夜の駅間歩く
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など
唇塗れば青空いぶし銀に昏る
ひと恋し宵のルージュは濃くし出ず
売春や鶏卵にある掌の温み


●少しだけ鈴木しづ子のことを紹介しますが、
ともかく、句を味わってください。
1919(大正8)年、東京市神田区(現千代田区)生れ。東京淑徳高等女学校卒業後、専修製図校に入学。卒業して岡本工作機械製作所に就職するが、俳句はこの頃から始めたらしい。職場結婚ののち離婚。
1950(昭和25)年から52年まで岐阜県の現、各務原市に暮らすが、その後の消息は不明なままである。
★戦後、米軍キャンプ近くでダンサーとして働いたらしく、また黒人との同棲の経験があるらしい。

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一行詩の紹介 〈 恋のゲームを始めよう 〉    


就職のゲームは終った、恋のゲームを始めよう   三夢

タンポポが飛んでイスタンブールへと      のほほ

幸福の黄色い花、誰が大地に蒔いたんだ    美倉

亀鳴くやきのうすっぽん食べたから     ジージ

ネクタイをした女のような新社員     エリカ


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細見綾子の秀句鑑賞〈女身仏に春剥落のつづきをり〉 (一)     高橋透水

2014年04月13日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 女身仏に春剥落のつづきをり      綾子

 句集『伎芸天』中、「秋篠寺」と題して数句並べているが、その代表的な一句。昭和四十五年、六十二歳のときの作。
 秋篠寺は、奈良県奈良市秋篠町にある寺院であるが、殊に伎芸天像と国宝の本堂があることで知られている。

 ( 「秋篠寺」の草創は,光仁天皇の勅願とか秋篠氏の氏寺であったなどと言われていて、はっきりしない。宗派は当初、法相宗と真言宗の兼学であったが現在は単立宗となっている。)

 堀辰夫によって、東洋のミューズなどと呼ばれている伎芸天であるが、平安時代の末期の火災で焼けている。したがって今ある象はほとんどが復元で、頭部は天平時代に作られた脱活乾漆像、体の方は鎌倉時代に修理で作られた木彫である。しかし違和感は無く、全体像は時代が同化していて見事としか言いようがない。

 さて掲句であるが、最初上五は<伎藝天>だったのが、後に推敲されて<女身仏に>なったことから、これによって「象」は女性としながらも仏一般に敷衍して、剥落の非情な世界を描きだした。
 「仏像の剥落」と「春の剥落」とを重ねあわせると、そこに女身である「象」と「綾子」の物理的な変化が、また「季節の春」と「綾子の心身の春」の面からみると、現象的な推移に遠ざかりゆく時間の無常さを感じないわけにゆかない。
 すべてのものは転移変遷しやがて亡びゆくものだが、真理というものがあるのなら移ろいつつも決して消えることはない。綾子はこの句によって歴史の変遷や時間の推移を超越した永遠の生命が、仏像に流れていることを表現したかったのではないか。


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一行詩の紹介 〈 直球ばかりの男 〉     高橋透水

2014年04月10日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

履 歴 書

女子会や、見れば首輪耳輪に鼻輪あり      るり子

直球ばかりの男は嫌いです      ミミ

大人にない春が食み出している    勇夢

何人の男が通過したやら、私の体     ノンノン

履歴書を改ざんしたアイドル希望者     正子


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【 住宅顕信の5句 】 (制作年、順不同)
顔さすっている淋しい手がある
「一人死亡」というデジタルの冷たい表示
握りしめた夜に咳きこむ
薬が生涯の友となるのか今朝の薬
こうして病いが玉子をむく指先


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中村汀女の秀句鑑賞(外にも出よ触るるばかりに春の月)   高橋透水

2014年04月07日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

外にも出よ触るるばかりに春の月     汀女

 昭和二十一年作。『花影』所載。
 数人の集いがあり、知人宅に立ち寄ったときの句。一人早々に辞して外にでた。その時、向いの家の屋根から触れんばかりの月が出ていた。滴るような月の近さに息をのんだ。家に残っていた人たちに「外に出てごらんなさい!」と思わず叫んだ時の様子を句にしたもの。それほど魅惑的な春の月であったのだ。
昭和二十年三月の東京大空襲を危うく免れた中村家であったが、生活の貧窮は続いていた。戦後の混乱と食糧難などの困窮はあるものの、この句から、なにかの寄合の帰りに久振りに明るい春の月を見上げたときの、何とも言えない平和を感じる一瞬が伝わってくる。
この句は汀女の代表句に数えられ、鑑賞文や評論も多い。そんな中から汀女の生活面を語った文を紹介します。ただし文は多少端折っています。

  「このころは四十代半ば。終戦直後の東京住まいで、多くの日本人がそうであったように暮らしはけっして楽ではなかった」。「おかげで戦火はまぬがれたもののわが家(中村家)にはたちまちパージが待っていた。大蔵省をやめた後、戦争中は金融公庫に勤めていた(汀女の)夫がパージを受け、経済的に逼迫していた時期でもあった」。「しかしそんな日々の中で近所に住む作家の大谷藤子や、その縁で紹介された富本一枝、さらに富本の知人等々と交流が広がった」。
 「ちなみに富本一枝はかつての婦人運動の闘士で、平塚らいてうを中心とする雑誌『青鞜』の同人でもあった人物」。「汀女と一枝はやがて意気投合し、昭和二十二年に汀女が俳誌『風花』を創刊したときに一枝が編集を担当している」。
 中村汀女  汀女の自画像』(日本図書センター)及び、栗木京子「中村汀女」(『鑑賞 女性俳句の世界』角川学芸出版)を参照。

 句集『花影』は昭和十八年から昭和二十二年までの作品をまとめ、昭和二十三年、三有社から出版された。その中から、注目句をみてみたい。

   家事明りまた輝きて一機過ぐ  
   一脚の運び残せし籐椅子かな

  東京では連日空襲警報に戦戦恐恐している日々であったが、意外にも汀女は「火事明りに見えるB29は残念ながら美しいと思った。」と述べている。この感性は後に非難の対象にもなった。

   手袋の手にはや春の月明り  
 (空襲警報に明け暮れていた或る夜に、もうこれは春の月だと感じたときはうれしかった。戦争の険しさとは別にほっとしたことを忘れない。ただ近隣の疎開のあわただしさ。男の子たちも連日の勤労奉仕であり、疎開する気はもたなかったけれど、前うしろ、お隣も出て行かれると、さすがに心細かった。『中村汀女  汀女の自画像』(日本図書センター)

  炎天や早や焦土とも思はなく 
 こうした句だけ論って汀女を非難することはできないだろう。極限に置かれると、人間は意外と業火さえ美しいと見える心理状態になることも確かだから。最後の句などは汀女の気分の切り替えのはやさ、いや諦念の表出というべきか。あくまでも明るく、前向きで楽観的な性格の持ち主だったようだ。

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詩歌・悠々散歩 『かがやく花曇』      高橋透水

2014年04月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 
ゆで玉子むけばかがやく花曇    中村汀女


 今まさに花盛りのところも多いのではないでしょうか。
家族で、恋人同士で花茣蓙からの花見。家から昼食を持参したり、コンビニで弁当を買ってのピクニック気分。花吹雪の下で、知人や会社の同僚同士との酒盛り。さては弁当が面倒な人には、花の宴までのピザの出前があるそうですね。

 それにしても「ゆで卵」の語感が無性に懐かしいですね。子供のころの遠足、運動会などには、おにぎりの付き物だった。大事にしてきたゆで玉子を、弁当の蓋や近くの石や木などで割る音があちこちでしたものだ。
 子供のころは、花見といっても花を愛でるより食べる楽しみの方が大きかった。「むけばかがやく」などの詩情など起こるはずもなかった。

 実は、この句の「花曇」の花は桜ではなく梅であるらしい。汀女によれば、仙台市の榴ヶ岡公園での観梅のときの句というが、桜時の「花曇」にも十分通ずる味わいがあると思う
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一行詩の紹介 〈 バラを咲かすために 〉    高橋透水

2014年04月03日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

【復 活 祭】

手首をナイフで切る。バラを咲かすために   アダモ

暖春のベンチが女を離さない      満知子

今日の釣果は役にたたない札ばかり     馬笑

スプーンの歪む青春、なめている     喧々

目玉焼、今日よくできて復活祭      ブラック

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詩の紹介
   蟻は運ぶ     大野真一

蟻が
風をはこび
陽をはこび
花弁をはこび
仲間をはこび
そして
鳥の声を運んだ


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