森澄雄の一句鑑賞
優曇華や父死なば手紙もう書けず 澄雄
父の貞夫が亡くなったのは昭和三十八年、澄雄四十四歳のときだった。貞夫は長崎県五島の出身で、隠れ切支丹(潜伏切支丹)の末裔だったようだ。上京し医師の国家試験に合格し、長崎で歯科医を開業した。澄雄は長崎にはゆかず、母方の祖父母のもと(現明石市)で育った。澄雄は大学までゆけたのは、その父のお陰と感謝している。
そんな父親を澄雄がどれだけ愛していたか、あるいは父の存在をどんなふうに思っていたか知る術がない。ひょっとしたら母に比べて父を尊敬こそすれ、あまり愛していなかったのではないかと感じる。しかし父の死が澄雄のおおきな転換期になったことは確かである。
父家と母家の宗教上の対立は、父の葬式を巡って新たに表面化した。澄雄が父の死の近いことを弟から聞かされ帰郷した時、その父から直に「カソリックで送ってもらいたい」と言われたという。澄雄によれば、五島生れの父の血筋はカソリックであったが、仏教徒の母と結婚して長い間教会を離れていた。父はその長い間、母や子供に気兼ねして信仰の問題に悩んでいたらしい。父の気持ちを受け入れ、病床で改めてカソリックとしての結婚式を行い、父はカソリックに還った。その日父は、最後の告白をすませ、聖体をうけ、胸にコンタツをさげた。だが、母にも、僕にも、また他の弟妹たちにもカトリックの信仰はない、と述べている。
そういえば、澄雄の体に流れているのはキリスト教的西洋思想より仏教的東洋思想のようだ。後に、「一つの転機は、やはり父親の死です。その前後から、中国や日本の古典を読み始めた。自分でもあやしいほど、本を読めた時期じゃないかと思う。詩では『詩経』から毛沢東まで、漢籍も『易経』あたりまで読みました。日本の古典は戦後、手あたりしだい読んで、そういうなかから仏典にも行き当たった。人間はどういうことを見ながら一生を過ごすのだろうという思いが、古典に近づかせたのだ」と語っている。
優曇華や父死なば手紙もう書けず 澄雄
父の貞夫が亡くなったのは昭和三十八年、澄雄四十四歳のときだった。貞夫は長崎県五島の出身で、隠れ切支丹(潜伏切支丹)の末裔だったようだ。上京し医師の国家試験に合格し、長崎で歯科医を開業した。澄雄は長崎にはゆかず、母方の祖父母のもと(現明石市)で育った。澄雄は大学までゆけたのは、その父のお陰と感謝している。
そんな父親を澄雄がどれだけ愛していたか、あるいは父の存在をどんなふうに思っていたか知る術がない。ひょっとしたら母に比べて父を尊敬こそすれ、あまり愛していなかったのではないかと感じる。しかし父の死が澄雄のおおきな転換期になったことは確かである。
父家と母家の宗教上の対立は、父の葬式を巡って新たに表面化した。澄雄が父の死の近いことを弟から聞かされ帰郷した時、その父から直に「カソリックで送ってもらいたい」と言われたという。澄雄によれば、五島生れの父の血筋はカソリックであったが、仏教徒の母と結婚して長い間教会を離れていた。父はその長い間、母や子供に気兼ねして信仰の問題に悩んでいたらしい。父の気持ちを受け入れ、病床で改めてカソリックとしての結婚式を行い、父はカソリックに還った。その日父は、最後の告白をすませ、聖体をうけ、胸にコンタツをさげた。だが、母にも、僕にも、また他の弟妹たちにもカトリックの信仰はない、と述べている。
そういえば、澄雄の体に流れているのはキリスト教的西洋思想より仏教的東洋思想のようだ。後に、「一つの転機は、やはり父親の死です。その前後から、中国や日本の古典を読み始めた。自分でもあやしいほど、本を読めた時期じゃないかと思う。詩では『詩経』から毛沢東まで、漢籍も『易経』あたりまで読みました。日本の古典は戦後、手あたりしだい読んで、そういうなかから仏典にも行き当たった。人間はどういうことを見ながら一生を過ごすのだろうという思いが、古典に近づかせたのだ」と語っている。
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