春やこし年や行けん小晦日 芭蕉
寛文二年、芭蕉十九歳のときの作である。多少の異論があるものの、作成年次の判っている中では最も古いものだが、芭蕉の生地である伊賀上野で立春の日に詠んだという。
この句は一読では解釈が難しい。というのも「春やこし」「年や行けん」「小晦日」と暦・季節を並べただけの単純な内容だが、現在から考えると矛盾と思わないでもない。春が来て年が行ってしまい、きょうは小晦日というなんだかややこしさがあるが、そうでもないことが裏にありそうだ。前書きに『廿九日立春ナレバ』とあることから、現在から考えると不自然だが、暦上は歳末前に立春があってもおかしくない時代であったのだ。
後世、俳聖などといわれる芭蕉の初期の句を紹介しましたが、『芭蕉の発句アラカルト』は今回が第一回目であるので芭蕉の生い立ちに少し触れたいと思う。
芭蕉(一六四四~一六九四年)は伊賀国阿拝郡の育ちだが、生誕地は上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)との二説がある。当時の伊賀の歴史と江戸初期の藤堂藩との関係が複雑に絡んでいるので、これらは後々に検証してゆくことにしたい。
芭蕉は、若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役もしくは料理人だったといわれている。二歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、掲句は寛文二年の年末に詠んだ句というが実際のことは不明である。しかし季吟の影響が大きかったことは間違いない。
この句について山本健吉の『芭蕉全発句』によれば「年内立春の句で、連俳では冬季とされる。年内立春に感興を発することは、古今集巻頭の歌、〈年の内に春は来にけりひととせを去年とは言はむ今年とは言はむ〉(在原元方)に始まる」と紹介している。
芭蕉は藤堂家に仕える前の十歳前後から俳諧に親しんだが、紹介はまたの機会にしたい。
俳誌『鷗座』2021年1月号より転載
寛文二年、芭蕉十九歳のときの作である。多少の異論があるものの、作成年次の判っている中では最も古いものだが、芭蕉の生地である伊賀上野で立春の日に詠んだという。
この句は一読では解釈が難しい。というのも「春やこし」「年や行けん」「小晦日」と暦・季節を並べただけの単純な内容だが、現在から考えると矛盾と思わないでもない。春が来て年が行ってしまい、きょうは小晦日というなんだかややこしさがあるが、そうでもないことが裏にありそうだ。前書きに『廿九日立春ナレバ』とあることから、現在から考えると不自然だが、暦上は歳末前に立春があってもおかしくない時代であったのだ。
後世、俳聖などといわれる芭蕉の初期の句を紹介しましたが、『芭蕉の発句アラカルト』は今回が第一回目であるので芭蕉の生い立ちに少し触れたいと思う。
芭蕉(一六四四~一六九四年)は伊賀国阿拝郡の育ちだが、生誕地は上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)との二説がある。当時の伊賀の歴史と江戸初期の藤堂藩との関係が複雑に絡んでいるので、これらは後々に検証してゆくことにしたい。
芭蕉は、若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役もしくは料理人だったといわれている。二歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、掲句は寛文二年の年末に詠んだ句というが実際のことは不明である。しかし季吟の影響が大きかったことは間違いない。
この句について山本健吉の『芭蕉全発句』によれば「年内立春の句で、連俳では冬季とされる。年内立春に感興を発することは、古今集巻頭の歌、〈年の内に春は来にけりひととせを去年とは言はむ今年とは言はむ〉(在原元方)に始まる」と紹介している。
芭蕉は藤堂家に仕える前の十歳前後から俳諧に親しんだが、紹介はまたの機会にしたい。
俳誌『鷗座』2021年1月号より転載