大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負う
分け入っても分け入っても青い山 山頭火
明治15年、現山口県防府市に大地主の長男として生まれた山頭火は、11歳のとき、母の非業の死に直面する。母が井戸に身投げして自殺したのである。これは生涯にわたって山頭火の心を苦しめることになる。
父の放蕩で生家を離れ、隣村の大道村で再起を図った酒造場も失敗に終わった。負債で父は行方不明、山頭火も夜逃げ同然に妻子を連れて新天地熊本での生活を始めた。
新天地といっても、酒癖は相変わらずで、酒のない世界など考えられるものでない。相変わらず酒で失敗しては反省、悔やんでは改心の繰り返しだ。
再生したかのように古本や額縁を売る商売を始めたが、商魂など生来あるはずがない。店は妻にサキノに任せて、はたまた酒の失敗を重ねる日々だ。人生をやり直したい思いはないわけでなく、商売に専念したい気持ちも多分にあった。しかしそんな表面的な幸福な家庭生活の世界に山頭火は満足できる性格ではない。文学や俳句のことが頭から離れない。山頭火にとって、自己の存在を自認できるのはやはり俳句しかなかった。
悶々の日々を送っていたが、とうとう山頭火は泥酔して進行中の路面電車の前に立ちはだかって電車をストップさせるという事件を起こしてしまった。乗客は電車を止めた山頭火に詰め寄った。幸い車中に山頭火のことを知っていた新聞記者の木庭徳治が乗り合わせていた。木庭は山頭火の身の危険を案じ、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで山頭火を連行した。そして報恩寺の住職に引き渡し世話してくれるように頼んだ。それをきっかけに山頭火は、翌年に寺の望月義庵住職を導師として出家得度することになる。
参禅が功を奏したのか、大正14年3月、43才のとき、熊本県植木町の味取観音堂(曹洞宗瑞泉寺)堂守となった。 しかし、せっかくの堂守も一年とわずかしか続かず、44才の大正15年の春、『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞流転の旅に出る。これが漂泊の俳人『山頭火』の始まりであった。 〈分け入っても分け入っても青い空〉はそうした旅の途中での句である。