透水の 『俳句ワールド』

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種田山頭火の風景(分け入っても分け入っても青い空)【一】     高橋透水

2014年06月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史


大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負う
分け入っても分け入っても青い山    山頭火


 明治15年、現山口県防府市に大地主の長男として生まれた山頭火は、11歳のとき、母の非業の死に直面する。母が井戸に身投げして自殺したのである。これは生涯にわたって山頭火の心を苦しめることになる。
 父の放蕩で生家を離れ、隣村の大道村で再起を図った酒造場も失敗に終わった。負債で父は行方不明、山頭火も夜逃げ同然に妻子を連れて新天地熊本での生活を始めた。

 新天地といっても、酒癖は相変わらずで、酒のない世界など考えられるものでない。相変わらず酒で失敗しては反省、悔やんでは改心の繰り返しだ。
再生したかのように古本や額縁を売る商売を始めたが、商魂など生来あるはずがない。店は妻にサキノに任せて、はたまた酒の失敗を重ねる日々だ。人生をやり直したい思いはないわけでなく、商売に専念したい気持ちも多分にあった。しかしそんな表面的な幸福な家庭生活の世界に山頭火は満足できる性格ではない。文学や俳句のことが頭から離れない。山頭火にとって、自己の存在を自認できるのはやはり俳句しかなかった。

 悶々の日々を送っていたが、とうとう山頭火は泥酔して進行中の路面電車の前に立ちはだかって電車をストップさせるという事件を起こしてしまった。乗客は電車を止めた山頭火に詰め寄った。幸い車中に山頭火のことを知っていた新聞記者の木庭徳治が乗り合わせていた。木庭は山頭火の身の危険を案じ、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで山頭火を連行した。そして報恩寺の住職に引き渡し世話してくれるように頼んだ。それをきっかけに山頭火は、翌年に寺の望月義庵住職を導師として出家得度することになる。

 参禅が功を奏したのか、大正14年3月、43才のとき、熊本県植木町の味取観音堂(曹洞宗瑞泉寺)堂守となった。 しかし、せっかくの堂守も一年とわずかしか続かず、44才の大正15年の春、『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞流転の旅に出る。これが漂泊の俳人『山頭火』の始まりであった。 〈分け入っても分け入っても青い空〉はそうした旅の途中での句である。
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山頭火の言葉(一)      高橋透水

2014年06月21日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  酒と女と・・・

 酒を飲むときはたゞ酒のみを味はいたい、女を恋するときはたゞ女のみを愛したい。アルコールとか恋愛とかいふことを考へたくない。飲酒の社会に及ぼす害毒とか、色情の人生に於ける意義とかいふことを考へたくない。何事も忘れ、何物をもすてゝ――酒をいふもの、女性といふものを考へずして、たゞ味はひたい、たゞ愛したい。」
《明治44年雑誌「青年」(夜長ノート)》
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山頭火の一句紹介(吾妹子の肌なまめかしなつの蝶)   高橋透水

2014年06月18日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

吾妹子の肌なまめかしなつの蝶      山頭火


 山頭火にもこんなに色っぽい、艶めかしい句があるのだ。山口県の郷土の文芸誌『青年』の同人となり定型句を発表しているので、その当時の句作と思われる。『青年』は明治44年、山口県下の同好の士を集めて創刊したものだが、その中心は山頭火で、ツルゲーネフなどの翻訳を載せている。また、田螺公の俳号で俳句結社「椋鳥会」に所属していた。

 さて掲句の「吾妹子」はどんな女性かは定かでない。少年時代に母の自殺という、心の傷を受けた山頭火だったが、高校・大学生活で一人くらい憧れの女性がいたとしてもなんら不思議はない。通りすがりの若い女性の肌に艶めかしさを感じても、正常な反応だろう。また、たとえ密かに恋していた女性がいたとしても、誰も非難はできない。むしろそれが健全は青春時代だろうが、山頭火から色恋の匂いがしてこない。とすると、「吾妹子」はいやいや一緒になった結婚間もない妻のサキノと考えても不自然でない気もする。
 また、女性嫌いと宣告する山頭火だが、この俳句に接するかぎり、その後の女性への偏見や結婚の失望感など全く想像できない。
 姉の死、末弟の死と続き、自己の不幸を思えば思うほど、母が恋しさは募る。母への思いは時間が経って薄れるどころか増々強くなる。結婚しても、山頭火にはサキノはあくまで妻であり一人の女性であって、けっして母の代わりにはなれないのだ。更に、結婚後の山頭火の女性観は、必ずしも健全とは思えない方向へジャンプする。

 そうした山頭火の人生観と句を観賞するには、どうしてもその生い立ちを知る必要がある。そこでまずは、山頭火の誕生から佐藤サキノと結婚し、その翌年長男健の出生に至るまでの略歴をみてみたい。

 明治15年(1882)12月3日山口県佐波郡西佐波令村第136番屋敷(現・防府 市八王子2丁目)、父竹次郎、母フサの長男として誕生。本名は正一。種田家は「大種田」といわれるほ  どの大地主だった。
  竹次郎は、地元の政治に巻き込まれ、また遊蕩にふけって、事業も家庭も顧みなかった。
 明治25年(1892)11歳。三月のこと、母親のフサが自宅の井戸で投身自殺している。享年33歳 だった。夫竹次郎の度のすぎた遊興が一つの原因と考えられる。竹次郎は傾く家の財産を顧みず地方の政 治に奔走し、遊蕩は続いた。
 明治35年(1902)21歳。9月、早稲田大学大学部文学科に入学する。
 明治37年(1904)23歳。神経衰弱症が原因か、それとも生家の経済的な事情かにより、早稲田大 学を退学し帰郷する。
   借財が重なり、種田家の屋敷が一部売却される。
 明治39年(1906)25歳。祖先代々の家屋敷を売却し、隣村大道村の酒造場を買収し、一家で移 住。種田酒造場を開業した。
 明治42年(1909)28歳。8月、佐藤咲野(サキノ)と結婚。山頭火は乗り気でなかったが、両家の親の熱心さに負ける形だった。
 明治43年(1910)29歳。8月、長男健出生している。


 父の勧めを断れず、明治42年8月に近村の佐藤サキノと結婚式をあげているが、二十歳のサキノは美人で物静かな女性だったという。
 サキノの父光之輔も地方の政治に関わっていた。とすると、親同士の政治がらみの結婚であったのか。しかしまたもや父竹次郎の遊蕩が原因で、種田酒造場は没落し、一家離散となる。山頭火は親子三人で、新天地の熊本をめざした。

 後年、山頭火は日記で次のように述べている。
 『私は恋といふものを知らない男である。かつて女を愛したこともなければ、女から愛されたこともない(少しも恋に似たものを感じなかったとはいひきれないが)、わたしは何よりも酒が好きだ、恋の味は酒の味のやうなものではあるまいかと、時々考へては微苦笑を洩らす私である。酒は液体だが女は生き物だ、私には女よりも酒が向いてゐるのだろう!
  女の肉体はよいと思ふことがあるが、女そのものはどうしても好きになれない』

 これは女性に対する嫌悪感でも不信感でもなかろう。自己に自然に起こる反射的な罪意識のような気がしてならない。つまり女性を愛し、女性にふれた瞬間に起こる反射的な拒否反応である。
 とはいえ、結婚一年目にして、長男健が誕生しているし、妻への愛と父親らしい感情もあっただろう。神経は多少疲弊していたというものの、山頭火にも家長としての社会的責任の自覚も芽生えたことだろう。
 それは次の短歌に、山頭火の心理を読むことができる。


  一杯の茶のあたたかさ身にしみてむしろすなほに子を抱いて寝る
  金のこと思ひつづけつけふもまた高きにのぼり見おろしてけり
  子とふたり摘みては流す草の葉のたゞよひつつもいつしか消ゆれ

 山頭火の心が微妙に揺れていることがわかるが、加えて結婚後の心境を詠んだ短歌があるので紹介したい。


 美しき人を泣かして酒飲みて調子ばづれのステヽコ踊る
 旅籠屋の二階にまろび一枚の新聞よみて一夜をあかす
 酒飲めど酔ひえぬ人はたゞ一人、欄干つかみて遠き雲みる
 酔覚の水飲む如く一人に足らひうる身は嬉しからまし

  回覧雑誌「初凪」通巻十四号(大正二年)に掲載。「百弁せり夜」と題した中に旧作として記したもの。

 山頭火のこのような心境を形成した一つの原因に、少年期にであった母の自殺が背景にあることは容易に察することができる。母の死後40年の日記に「母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといへばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ」、「あゝ亡き母の追懐!私が自叙伝を書くならばその冒頭の語句として――私一家の不幸は母の自殺から初まる――と書かなければならない」と、少年の頃に受けた傷は一生心に残ったのである。
 酒、酒、後悔、また酒。あげくの自殺願望。それらを俳句や日記に託した山頭火だったが、総じて自傷的人生だったというべきか。ただ、幸いにも句友・知人に恵まれて多大な支援を得、また後輩に慕われたことは山頭火の仁徳を物語ってはいるが。

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岸本尚毅の秀句鑑賞<青大将実梅を分けてゆきにけり>     高橋透水

2014年06月08日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
青大将実梅を分けてゆきにけり   岸本尚毅

  数年前、私の住まいに近い中野区の哲学堂公園のこと、いつも通り散歩していると、梅林の広場辺りに異変のあることに気付いた。木々にいる雀や目白が甲高い声で鳴き合っている。そっと近づくと、飛びつ戻りつ、叫びあい、何かを警戒しているようだ。一本の梅の木の下の方に鳥たちの眼は集中している。あたかも今からそこで、宇宙の転変がはじまるように。よく見ると、するすると動くものがある。私の眼が凍った。そう、蛇である。かなり大きい青大将だ。紅く燃えるような裂けた舌。なにか自信のありそうに警戒することなく這ってゆく。鳥の騒ぎを達観したかのように、やがて草むらから樹林へと消えた。

 さて鑑賞句は、岸本の第二句集『舜』(平成四年刊)に収録されている。
多分穏やかな天気の良い日だろう。鈴なりに実った梅を押し分け、青大将が幹から枝へ獲物めがけてするする進む情景が目に浮かぶ。
小林恭二の「青春俳句講座」によれば、『俳句研究』で飯田龍太の絶賛を浴びた句と述べ、「写生の見本みたいな句である。これと言った技巧はこらしていないが、均整のとれた句姿をしている。梅の実の間をはってゆく蛇の擦過音がきこえてきそうな句である。これはひとえに『実梅』という確かな言葉を使った功績による。『青大将』と『実梅』は視覚的にも触覚的にもよくマッチしている」
と句評している。

 これをもう少し、私なりに分析してみると、「実梅を分けて」の実梅は樹に生っている景より、むしろ落ち梅の情景が句の広がりが出ると思う。実際に樹上の梅のころはまだ青大将が出るに早いし、鈴生りの梅を青大将が分け入ることに無理がある気がする。
 先ず音感であるが、実際は音などなく、五感は蛇を見る目に集中し、無音の世界。しかし蛇の長い形態とくねくね進む動作から、乾くような音が脳を震わせる。
 次に空気感であるが、なによりも赤く裂けた炎のようなベロであろう。その炎がなぜかひんやり感を漂わせる。眼も鋭いわけでないが、確かな目つきをしている。急に襲ってくるわけでないのに、恐怖感に固まってしまう。
 そして色彩の効果として、青大将と云う語感から青を、実梅から色付いた赤みの射した黄を思い浮かべる。更に梅の木の青葉、空の青まで脳裏に行き来する。句は季重りともいえるがそれも気にならず、青大将と実梅を超えた動画でありながら静止画像の一点を拡大した世界が展開されてくる。いつまでも耳に残り眼に動く句である。

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詩歌・悠々散歩 〈夏蝶は宇宙の日時計〉     高橋透水

2014年06月05日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

一行詩の紹介     透水

夏草を踏んで雀の邪魔したか    

万緑の空に風のカラオケ       

神様を興奮させて女神輿      

花が閉じる。心が開く      

弁護士の自己弁護、草茂る   

夏蝶は宇宙の日時計

蜂の羽音が耳のなかに

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