透水の 『俳句ワールド』

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芭蕉の発句アラカルト(10)高橋透水

2022年03月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉

 出典は『武蔵曲』(泊船集・枯尾花など)
延宝九年秋、深川移住後の作。野分や「盥に雨を聞夜」などと質素な厳しい情景であるが、はたして芭蕉の生活の実態はどうだったのだろうか。以下私なりの見解を示したい。
 「芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな」(三冊子)は、「盥に雨を聴く」などといういかにも粗末な草庵で雨漏りを盥でうけているような解釈になるが、これは庭にある盥が雨水を貯める音である。この溜水は生活水として使うもので、当時深川には上水は引かれてなく、塩分の多い土壌は井戸を掘っても飲料水には適さなかった。しかし芭蕉庵は雨漏りするような草庵ではけっしてなかった。盥は住まいの外にあり、生活用水を貯めるものだ。
 さてこの句の前文は、
「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」である。一般的な解釈は「門人李下が芭蕉の苗木を植えてくれたが元気に育っている。ところがわび住まいの草庵(茅舎)はに秋の雨が降ってくると雨漏りがはなはだしい。外の芭蕉葉にうちつける雨音は心地よいが、雨漏りをうける盥の音が一層侘びしくなる。」である。これは杜甫の作品「茅屋秋風に破らるるの歌」の「牀牀屋漏りて乾けるところなし(どの寝床も雨漏りで寝るところもないの意)」をふまえていると言われる。
 芭蕉は杜甫の言葉を借り、杜甫の世界に遊び、自分の心を慰めた。当時の俳諧の世界は、俳諧の新しみの表現手法として漢詩文からの意匠を取り入れようと試みた時期だ。他の俳諧師とて同工異曲であり、芭蕉のみが変革を試みたわけでない。
 芭蕉がさらなる俳諧の新しみの表現手法の模索していた頃、たまたま訴訟問題で鹿島根本寺住職の仏頂和尚が深川の臨川庵にいたときに知り合い、禅思想の影響をうけた。仏頂の「物心一如」論や「仮想実相」論は、のちの「不易流行」の理念となり、蕉風確立に大きく寄与したといわれる。
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芭蕉の発句アラカルト(9) 高橋透水

2022年03月20日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
ばせを植てまづにくむ荻の二ば哉  芭蕉

 「李下、芭蕉を贈る」の前書きがあるが句の表記に幾通りかあり句作年代も諸説ある。
  芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな 芭蕉
 一般的な解釈は「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を楽しんでいると、思いもよらず荻の二葉が芽を出してはびこりだした。毎日眺め、芭蕉の成長を願うにつけて、なんだかこの荻の二葉を憎む気になったことよ」くらいだろう。
 芭蕉庵に入った時期は、古来より説が多いが、延宝八年(一六八0)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定してよいだろう。
 また草庵のあった場所については推定するしかないが、『知足斎日々記』貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷」とある。この屋敷がどこにあるかが問題だが、現在の芭蕉記念館近くの、芭蕉稲荷神社付近と考えられている。延宝八年の『江戸方角安見図』に「元番處」の名がある。小名木川と隅田川の合流点にあたるところで、これは関東郡代伊奈半十郎の屋敷に接している。つまり森田惣左衛門御屋敷はこの近くだったと推定される。
 芭蕉がなぜこの屋敷内に住むようになったか不明であるが、ひとつの仮定として芭蕉はかつて世話になった藤堂家の何らかの任務を担っていたのではなかろうか。ここでは詳しく述べられないが、草庵に出入りする人物から推測して、単なる隠棲とは考えられない。(芭蕉庵が火災などにより、場所は幾度もこの近辺に変わっていることとは別問題である)
 李下については詳しい資料は残っていないが、其角・杉風系だったらしい。『芭蕉を移す詞』(元禄五年作)の文中に、「いづれの年にや、栖を此の境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」とある。これが桃青からやがて芭蕉と号し、草庵を芭蕉庵と称する所以である。
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