芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉
出典は『武蔵曲』(泊船集・枯尾花など)
延宝九年秋、深川移住後の作。野分や「盥に雨を聞夜」などと質素な厳しい情景であるが、はたして芭蕉の生活の実態はどうだったのだろうか。以下私なりの見解を示したい。
「芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな」(三冊子)は、「盥に雨を聴く」などといういかにも粗末な草庵で雨漏りを盥でうけているような解釈になるが、これは庭にある盥が雨水を貯める音である。この溜水は生活水として使うもので、当時深川には上水は引かれてなく、塩分の多い土壌は井戸を掘っても飲料水には適さなかった。しかし芭蕉庵は雨漏りするような草庵ではけっしてなかった。盥は住まいの外にあり、生活用水を貯めるものだ。
さてこの句の前文は、
「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」である。一般的な解釈は「門人李下が芭蕉の苗木を植えてくれたが元気に育っている。ところがわび住まいの草庵(茅舎)はに秋の雨が降ってくると雨漏りがはなはだしい。外の芭蕉葉にうちつける雨音は心地よいが、雨漏りをうける盥の音が一層侘びしくなる。」である。これは杜甫の作品「茅屋秋風に破らるるの歌」の「牀牀屋漏りて乾けるところなし(どの寝床も雨漏りで寝るところもないの意)」をふまえていると言われる。
芭蕉は杜甫の言葉を借り、杜甫の世界に遊び、自分の心を慰めた。当時の俳諧の世界は、俳諧の新しみの表現手法として漢詩文からの意匠を取り入れようと試みた時期だ。他の俳諧師とて同工異曲であり、芭蕉のみが変革を試みたわけでない。
芭蕉がさらなる俳諧の新しみの表現手法の模索していた頃、たまたま訴訟問題で鹿島根本寺住職の仏頂和尚が深川の臨川庵にいたときに知り合い、禅思想の影響をうけた。仏頂の「物心一如」論や「仮想実相」論は、のちの「不易流行」の理念となり、蕉風確立に大きく寄与したといわれる。
出典は『武蔵曲』(泊船集・枯尾花など)
延宝九年秋、深川移住後の作。野分や「盥に雨を聞夜」などと質素な厳しい情景であるが、はたして芭蕉の生活の実態はどうだったのだろうか。以下私なりの見解を示したい。
「芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな」(三冊子)は、「盥に雨を聴く」などといういかにも粗末な草庵で雨漏りを盥でうけているような解釈になるが、これは庭にある盥が雨水を貯める音である。この溜水は生活水として使うもので、当時深川には上水は引かれてなく、塩分の多い土壌は井戸を掘っても飲料水には適さなかった。しかし芭蕉庵は雨漏りするような草庵ではけっしてなかった。盥は住まいの外にあり、生活用水を貯めるものだ。
さてこの句の前文は、
「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」である。一般的な解釈は「門人李下が芭蕉の苗木を植えてくれたが元気に育っている。ところがわび住まいの草庵(茅舎)はに秋の雨が降ってくると雨漏りがはなはだしい。外の芭蕉葉にうちつける雨音は心地よいが、雨漏りをうける盥の音が一層侘びしくなる。」である。これは杜甫の作品「茅屋秋風に破らるるの歌」の「牀牀屋漏りて乾けるところなし(どの寝床も雨漏りで寝るところもないの意)」をふまえていると言われる。
芭蕉は杜甫の言葉を借り、杜甫の世界に遊び、自分の心を慰めた。当時の俳諧の世界は、俳諧の新しみの表現手法として漢詩文からの意匠を取り入れようと試みた時期だ。他の俳諧師とて同工異曲であり、芭蕉のみが変革を試みたわけでない。
芭蕉がさらなる俳諧の新しみの表現手法の模索していた頃、たまたま訴訟問題で鹿島根本寺住職の仏頂和尚が深川の臨川庵にいたときに知り合い、禅思想の影響をうけた。仏頂の「物心一如」論や「仮想実相」論は、のちの「不易流行」の理念となり、蕉風確立に大きく寄与したといわれる。