どれも口美し晩夏のジヤズ一団 兜太
初出は昭和三十七年四月『海程』創刊号である。発表時は〈だれも口美し晩夏のジャズ一団〉であり、「どれも」が「だれも」だった。同時期の作に〈魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う〉〈遠い一つの窓黒い背が日暮れ耐える〉などがある。
ジャズを聴いたのは早春の三月という(後に兜太は、作句時は晩夏だったとしている)。もちろんジャズを聴くのは春でも秋でもよいわけだが、春に聴くジャズは明るい開放感で心が高揚してくるが、「晩夏」となると少し気だるい夕の煩雑な時間で、ジャズの酸っぱさが身に沁みる。また「だれも」より「どれも」が無機質だがジャズの奏者以外の楽器や観客まで美を放ってくるようで、こちらの方がむしろ「口美し」のエロっぽさが効果的だ。
金子兜太・自選自解99句のなかで、「これはそのままの情景。日比谷公園に行ったとき。ジャズをやっている一団の人たちがいて、晩夏の光の中で口が美しかった。歌をうたう人ばかりでなく、楽器を奏でている人の熱中している口もきれいだ。ああ、戦後だなあという感じを妙に持ったのを覚えている」としているが、解説者の口も滑らかで美しい。
ここで『海程』の『創刊のことば』の要点を拾ってみると、「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛している。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好きだからだ、と答えるしかない。ともかく、愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい。愛人の過去に拘泥するよりも、現在のわれわれの詩藻の鮮度によって、この愛人を充たしてやりたい。これが、本当の愛というものではないか」。とし、それに続いて、約束(季語・季題)というものに拘泥したくない、自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい、と高らかに宣言しているが、そうした『海程』精神がいまでも生かされていると信じたい。
俳誌『鴎座』2017年五月号より転載
初出は昭和三十七年四月『海程』創刊号である。発表時は〈だれも口美し晩夏のジャズ一団〉であり、「どれも」が「だれも」だった。同時期の作に〈魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う〉〈遠い一つの窓黒い背が日暮れ耐える〉などがある。
ジャズを聴いたのは早春の三月という(後に兜太は、作句時は晩夏だったとしている)。もちろんジャズを聴くのは春でも秋でもよいわけだが、春に聴くジャズは明るい開放感で心が高揚してくるが、「晩夏」となると少し気だるい夕の煩雑な時間で、ジャズの酸っぱさが身に沁みる。また「だれも」より「どれも」が無機質だがジャズの奏者以外の楽器や観客まで美を放ってくるようで、こちらの方がむしろ「口美し」のエロっぽさが効果的だ。
金子兜太・自選自解99句のなかで、「これはそのままの情景。日比谷公園に行ったとき。ジャズをやっている一団の人たちがいて、晩夏の光の中で口が美しかった。歌をうたう人ばかりでなく、楽器を奏でている人の熱中している口もきれいだ。ああ、戦後だなあという感じを妙に持ったのを覚えている」としているが、解説者の口も滑らかで美しい。
ここで『海程』の『創刊のことば』の要点を拾ってみると、「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛している。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好きだからだ、と答えるしかない。ともかく、愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい。愛人の過去に拘泥するよりも、現在のわれわれの詩藻の鮮度によって、この愛人を充たしてやりたい。これが、本当の愛というものではないか」。とし、それに続いて、約束(季語・季題)というものに拘泥したくない、自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい、と高らかに宣言しているが、そうした『海程』精神がいまでも生かされていると信じたい。
俳誌『鴎座』2017年五月号より転載