透水の 『俳句ワールド』

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金子兜太の一句鑑賞(10) 高橋透水

2017年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  どれも口美し晩夏のジヤズ一団  兜太

 初出は昭和三十七年四月『海程』創刊号である。発表時は〈だれも口美し晩夏のジャズ一団〉であり、「どれも」が「だれも」だった。同時期の作に〈魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う〉〈遠い一つの窓黒い背が日暮れ耐える〉などがある。
 ジャズを聴いたのは早春の三月という(後に兜太は、作句時は晩夏だったとしている)。もちろんジャズを聴くのは春でも秋でもよいわけだが、春に聴くジャズは明るい開放感で心が高揚してくるが、「晩夏」となると少し気だるい夕の煩雑な時間で、ジャズの酸っぱさが身に沁みる。また「だれも」より「どれも」が無機質だがジャズの奏者以外の楽器や観客まで美を放ってくるようで、こちらの方がむしろ「口美し」のエロっぽさが効果的だ。
 金子兜太・自選自解99句のなかで、「これはそのままの情景。日比谷公園に行ったとき。ジャズをやっている一団の人たちがいて、晩夏の光の中で口が美しかった。歌をうたう人ばかりでなく、楽器を奏でている人の熱中している口もきれいだ。ああ、戦後だなあという感じを妙に持ったのを覚えている」としているが、解説者の口も滑らかで美しい。
 ここで『海程』の『創刊のことば』の要点を拾ってみると、「われわれは俳句という名の日本語の最短定型詩形を愛している。何故愛しているのか、と訊ねられれば、それは好きだからだ、と答えるしかない。ともかく、愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい。愛人の過去に拘泥するよりも、現在のわれわれの詩藻の鮮度によって、この愛人を充たしてやりたい。これが、本当の愛というものではないか」。とし、それに続いて、約束(季語・季題)というものに拘泥したくない、自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい、と高らかに宣言しているが、そうした『海程』精神がいまでも生かされていると信じたい。

 
俳誌『鴎座』2017年五月号より転載
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金子兜太の一句鑑賞(十一) 高橋透水

2017年06月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
霧の村石を投らば父母散らん 兜太

 兜太の生まれ育った秩父盆地はときおり霧に包まれる。久し振りに兜太が訪れたときも霧のなかだった。そんなとき「ポーンと石を投げたら、村も老父母も飛び散ってしまうんだろうな」という感慨をもった。
 昭和十二年、兜太は故郷を離れ水戸高校に入学、俳句を始める。浪人後東大に進学すると、「成層圏」に参加し、「土上」などに投句する。就職したものの、戦況悪化のなか戦場に駆り出された。帰還後、日銀に復職し秩父の女性と結婚。妻の皆子に「あなたは土に触れていないとダメな人間になる」といわれ熊谷に住むことになる。故郷にはすぐに行ける距離だが、しょっちゅう帰るわけでない。
 掲句について『兜太百句』では次のように述べられている。「ちょうど郷里の皆野の駅に降りた時に出来た句なんですけどね。やっぱり私に映像が留まってたんでしょうね。ほっと出た、まとまったんです」「両親も歳とってきたし、高度成長期で都市に人が出てるときでしたから、田舎は駄目になってきてるでしょ。父母がかわいそうだということと、集落そのものも石でもなげたらなくなっちまうだろうと。時代への思いと父母への思いとが重なってましたね」。都会の成長に比し、山間からは人口が流出し、農村と都市との格差がますます広がってゆく。これからの日本はどうなるのかと、日銀に勤めていた兜太は、高度成長の危うさにも敏感だったのだろう。
 また『定住漂白』のなかで、「外秩父の山を越えて平野にでると、しばらく丘陵地帯がつづくが、そこにある小川町で生れ、戦争で南の小島にゆくまで、秩父の皆野町で育った」「そのごは県外の学校に学んだが、休暇にはかならず帰って、土蔵のなかで寝起きしていた。夏は荒川で泳いだ。秩父は、まぎれもなく私の故郷である」とある。ちなみに兜太の父親は開業医で母親は小川町から嫁いできた。あれほど反対したにも関わらず俳句を始めた兜太を、母親は生涯可愛がった。この句はそんな郷土への思いの素直な心情が現れてる。


  俳誌『鴎座』2017年6月号より転載
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