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金子兜太の一句鑑賞(7)  高橋透水

2017年02月04日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  兜太
 
  句集『少年』より。デモか何かの標語にありそうな「原爆許すまじ」のフレーズ。それと「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」はどう結び付ければよいのだろう。
 金子兜太の「自選自解99句」によれば、「『原爆許すまじ』が広く唄われていた頃で、その記憶に残る詞句をいきなり借用して(私は自己流にこれを本歌取りという)つくった句で、賛否両論だった。讃める人は中七下五の捕らえ方に縄文期がある、などと言うが、自分では分かり切らない。しかし、この句の韻律の素樸で乾いたひびきは自分でも好きだ。とっさに出来た俳句の良さか」と自句自賛。
 今ではほとんど聞く機会のない「原爆許すまじ」の歌を踏まえて兜太は語っていたのだ。ここで浅田石二作詞・木下航二作曲の『原爆を許すまじ』の一番の歌詞をみると「ふるさとの街やかれ/身よりの骨うめし焼土(やけつち)に/今は白い花咲く/ああ許すまじ原爆を/三度(みたび)許すまじ原爆を/われらの街に」である。二番以下をみても、蟹は出てこない。強いて言えば、「焼土(やけつち)」から瓦礫を、「ふるさとの海荒れて」から蟹を連想されるが、「中七下五の捕らえ方に縄文期がある」とはとても感じられない。そこに現代的な風景、特に音を感じなければ、この句は生きてこないと思う。
 スローガン的な措辞からか、読者と原爆に対する怒りを共有でき、「かつかつ」と「あゆむ」から蟹でない何かをイメージさせる効果がある。一つは蟹を平和の象徴とみるか、デモ隊の整然とした歩みとみるかだ。その基底部に、俳句作者の態度の問題、また造型という手段が施されているのである。ひょっとしたら「蟹」は兜太自身のことか。
 句集『少年』の後記に、「文学における方法は作家の生き方の深化(認識及び思想の深化)によって確定されるものと考える」とし、「何よりも、自分の俳句が、平和のために、より良き明日のためにあることを願う」とある。兜太の今に通じる思想と生き方である
 

 俳誌『鴎座』2017年2月号 より転載
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