透水の 『俳句ワールド』

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森 澄雄の年表 *鑑賞にあたって*

2013年12月31日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり    澄雄 

 の鑑賞に関連して、森 澄雄の年表
を掲げます。

長崎県長崎市出身[2]。長崎市立朝日尋常小学校、長崎県立瓊浦中学校、長崎高等商業学校(現長崎大経済学部)卒業。
高等商業在学中から加藤楸邨に師事し、1940年、「寒雷」創刊に参加、のち編集にも携わる。1942年、九州帝国大学法文学部経済学科卒業と同時に応召、44年から南方を転戦し、46年、復員。47年、佐賀県立鳥栖高等女学校教員となり、のち都立豊島高校に移る。 1954年、第一句集『雪礫』を刊行、70年、句誌『杉』を創刊、主宰となる。 78年、『鯉素』で読売文学賞受賞。87年、『四遠』で蛇笏賞受賞、87年、紫綬褒章受章、93年、勲四等旭日小綬章受章。97年、『花間』『俳句のいのち』で日本芸術院賞恩賜賞受賞、同年、日本芸術院会員、2001年、勲三等瑞宝章受章、2005年、文化功労者。
妻に対する愛情や夫婦のきずななど、日常生活に基づいた句が多い。読売俳壇選者を37年間務めた[3]。句に登場する固有名詞を観光案内のように細かく説明する独特の選評だった。

★他の角度よりの資料
大正八年(1919年):兵庫県生まれ。5歳から長崎市に移る。
昭和15年:「寒雷」創刊と共に、加藤 楸邨に師事。
     九州帝国大学卒業後、19年兵士としてボルネオへ。
昭和21年:復員。結婚後、上京して52年まで東京都豊島高校の
     教員を務める。
昭和25年:「寒雷」同人になり、32年から46年まで編集長。
昭和45年:「杉」を創刊・主宰する。
昭和53年:「鯉素」で読売文学賞。
昭和62年:「四遠」で蛇笏賞を受賞。
平成9年:恩賜賞・日本芸術院賞受賞。
平成11年:「花間」「俳句のいのち」で毎日芸術賞受賞。
平成13年:勲三等瑞宝章を受賞。
平成17年:文化功労賞を受賞。
平成22年8月:肺炎のため、91歳で逝去
句集に「花眼」「白小」ほか。著書に「俳句のゆたかさ」
     「俳句に学ぶ」ほか。
 『杉俳句会』その他の資料より引用・参照させていただきました
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森 澄雄の一句鑑賞 大岡 信

2013年12月31日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

 
現代俳句
 の鑑賞 

               本田 日出登 記

    折々のうた 365日 紹介  2002年12月10日 発行  頒価 2600円
    発行所:岩波書店 東京都千代田区一ツ橋2-5-5
                      〒101-8002  ℡ 03-5210-4000  
      秀作鑑賞  著者:大岡 信 (おおおか まこと)             

                                           
                                          鑑賞者 大岡 信
 除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり  森 澄雄
 
 「雪橡」(昭29所収)。大正八年兵庫県生まれの俳人。加藤楸邨に師事した。ボルネオ戦線に従軍、辛うじて生還し、養生生活ののち教職についた。

 句は二十九年の作。作者は当時武蔵野の片隅で板敷きの六畳一間に親子五人で暮らしていたという。
 土間にすえた風呂で妻が湯を浴びているのだ。生活環境は貧しくとも人の命は輝き出る。そしてその夜が「除夜」である所に、格別の感動がある。

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久保田万太郎の一句鑑賞    高橋透水

2013年12月30日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

時計屋の時計春の夜どれがほんと 万太郎

 万太郎は明治二十二年東京浅草句田原町生まれ。小説家・劇作家・俳人である。
掲句は昭和十三年「いとう句会」での句である。この句会の席で、いろんな面白
い話をする人がいて、聞いていた人が眉毛にツバをつけるマネをし、話しの内容は
眉唾物で真偽が疑わしいということをジェスチャーで現わし、批判したしたそうだ。
 その場に同席していた万太郎は即座に句を作った。「その話、どこまでがほんと
なの!?」と揶揄的に発言するのでなく、時計を持ってきて「春の夜どれがほんと」
としたのが、万太郎の天才・鬼才たる所以だ。実はこの虚と実の世界は他人事でな
く万太郎自身の体質に組み込まれていたのである。父母との関係は多く語られてい
ないが、あまりうまくいっていたとは考え難いのだ。それを暗示するかのように、
〈親と子の宿世かなしき蚊遣かな〉が残っている。
 大正八年、京と結婚するが、関東大震災で家を焼け出され、両親弟妹と別れ、日
暮里に家を持った。句はその頃詠まれたが、宿世は両親との関係である。作家、戯
曲家として認められ、活躍しだした万太郎であったが、金銭的には無頓着でルーズ
さがあった。また妻がいながら複数の女性と平気で付き合い関係を持った。しかし
欲望は満たされないどころか、虚しく哀しい境地に陥る。女性への愛はどこまでが
真剣で本当だったのか、万太郎自身わからないのだ。
 つまり、「うそ」「ほんと」は万太郎自身が抱えていた問題でもあったわけだ。
〈なにうそでなにがほんとの寒さかな〉〈何がうそでなにがほんとの露まろぶ〉を
残している。万太郎は、愛人であった一子(かずこ)の死を追うように昭和三十八
年五月、不慮の死を遂げた。七十三歳だった。句帖の最後に、〈一輪の牡丹の秘め
し真かな〉〈牡丹はや散りてあとかたなかりけり〉があった。さて「牡丹の秘めし
真(まこと)」とはどんな真だったのか。

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種田山頭火の一句鑑賞      高橋透水

2013年12月26日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

どうしようもないわたしが歩いている  山頭火
 
 山頭火は明治十五年、山口県防府に生を受け、昭和十五年、愛媛県松山市の一草庵で句
座の夜に病没した。漂泊の俳人などと形容される山頭火の人気のある句は、〈分け入つて
も分け入つても青い山〉〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉〈鉄鉢の中へも霰〉などであ
ろうか。また〈あるけばかつこういそげばかつこう〉などもよく知られた句である。
掲句は昭和五年の句で、同時期に〈しぐるるや死なないでいる〉があり、山頭火は漂泊
の俳人などと単純に形容できない、苦難な人生を送っている。山頭火は常に死を考え、業
を紛らすために酒を求めた。業とは父の遊蕩とそれが原因となる母の自殺だった。やがて
大地主であった種田家は没落し、再起をめざした種田酒業の事業も失敗した。もう一家離
散しかなく、山頭火は再び歌を求め、酒を求めて旅にでた。

 そんな自堕落な山頭火であったが、幸いにも面倒をみてくれる句友は少なくなかった。
しかし他人に甘えている己が悔しい、情けない。酒が唯一の慰めだ。けれどまた他人に迷
惑をかける。またまた後悔と自責の念。それの繰り返しだ。歩きながら山頭火は考える。
人間はなぜ過ちを繰り返すのか。自問自答があてどなく続く。そんなことは、どうしよう
もない山頭火本人が一番よく知っている。だから仏門に入り、行乞をしているでないか。
〈焼き捨てて日記の灰のこれだけか〉過去の自分を抹消したい。そんなこと出来るはず
がない。また自殺を試みているが、死ねなかった。要は本気で死ぬ気などなかったのだ。
 やはりなんとか生きてゆくしかないと己に言い聞かせ、新たな旅(行乞)に出る。し
かしそんなことが続く山頭火でない。金が手に入れば酒に奢れ、遊蕩と女に走る。はた
またどうしようもない人間だと自責の念が強まる。それが山頭火の性といえば性だった。



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日野草城の一句鑑賞(三)    高橋 透水

2013年12月24日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
切干やいのちの限り妻の恩     草城


 草城が肺炎で床に臥したのは昭和二十一年、四十五歳の時で、さらに肋膜炎・肺浸潤症を併発して療養生活に入った。
 鑑賞句は昭和二十四年の作で、昭和二十八年に第七句集『人生の午後』に所収された。同時期の句に〈煮凝や凡夫の妻の観世音〉〈全身を妻に洗うてもらいけり〉等がある。その句集の扉に草城は妻晏子(本名政江)への献詞を記している。
 「晏子さんへ もしあなたが私を支へてゐてくれなかったら 私の命は今日まで保たれなかつたでせう この貧しい著書をあなたに贈ります これが今の私に出来る精一杯の御礼なのです」
と、公然と妻への感謝の言葉が述べられている。しかし妻への感謝の言葉は、それよりずっと以前から草城が病気になり妻の世話になってから機会ある度に述べられていたのである。
 一方妻の晏子は、慰めになり元気になってくれるのなら、夫草城のために何でもやった。「成長の家」の誌友会にしばしば出席し感動した講話を草城に話したり、また言われるままに俳句を作ってみたりした。句は、〈わが夫はいつも仰向け法師蝉〉〈夫の熱低し初蝶見し日より〉等あくまでも病の夫を暖かくしかも冷静に見つめている。
 ここで、俳人安住敦が草城の「切干や」の句に寄せる思いのこもった句解を紹介したい。
 「いまは全く病床仰臥の身となった作者の、何につけてもその妻の世話になっているという嘆きが、祈りのように詠い上げられている。命の限り妻の恩を受けるだろうし、命の限りその妻の恩は忘れられないという。世にこれほど心をこめて妻の恩を詠った句を知らない」
 まさに「いのちのかぎり妻の恩」の措辞が読み手に深い感動を与えてくれるのである。愛妻家などというものでない。草城には妻政江が仏に見えた感謝の日々であった。

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日野草城の一句鑑賞(二)    高橋透水

2013年12月22日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 けふよりの妻と来て泊るや宵の春   草城

 草城は、電車のなかでふと浮かんだという連作十句を、『俳句研究』創刊第二号(昭和九年四月号)に「ミヤコホテル」と題して発表した。掲句の他に〈枕辺の春の灯(ともし)は妻が消しぬ〉〈永き日や相触れし手は触れしまま〉などがある。
 この連句は新婚初夜を過ごす男女のフィクションあり、物語的な構成になっている。つまり〈うしなひしものをおもへり花ぐもり〉などドラマ仕掛けになっているのだ。
 というのも草城が俳句の魅力を知り本格的に句を始める切っ掛けになったのは、蕪村の〈お手討ちの夫婦なりしが更衣〉だったという。が、当時としては画期的な内容で、これらの句に対し賛否両論、支持派と不支持派に別れ思わぬ方向に草城を引き込んだ。
 昭和十一年、『ホトトギス』十月号に一ページを割いて同人変更の告知が掲載された。
 「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、瀧本水鳴両君を加ふ」
 削除という文字に目を見張った。予期していたというもののやはりショックは隠せなかった。しかし草城にはこだわりは長くなかった。と言うのも、虚子を師として尊敬していたが、必ずしも虚子一辺倒でなかったからだ。
 経歴を追うと早熟な草城は、十八歳で「ホトトギス」雑詠に入選している。十九才で京大三校俳句会をはじめ、鈴鹿野風呂等と「京鹿子」を創刊した。そして二十三歳のとき早くも「ホトトギス」の課題句選者になり、二十八歳で「ホトトギス」の同人に推されている。それほど虚子の期待は大きかった。
 それが、同人を削除されたのである。しかしこの除籍の原因は「ミヤコホテル」が直接的な要因ではないだろう。草城は昭和十年に俳誌の新精神を求め、自由主義に立った『旗艦船』を発刊した。反ホトトギスの表明であり虚子への挑戦であった。こうしたことが保守的な虚子の怒りを買ったものと思われる。
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日野草城の一句鑑賞(一)   高橋透水

2013年12月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
春の夜や女は持たぬのどぼとけ   草城

 初出は大正十一年七月号の「ホトトギス」雑詠で〈春灯や女は持たぬ咽喉佛〉の形で発表された。同時に〈人妻となりて暮春の欅かな〉がある。掲句はどちらかと言うと〈春の灯や女は持たぬのどぼとけ〉(句集『花氷』)の形で知られているが、いずれにせよ若くして女性美を詠い、当時のホトトギスの作家とは異質であった。
 草城は明治三十四年東京市下谷区(現台東区)生れ。十六歳頃に句作開始、十七歳にして「ホトトギス」雑詠に一句入選し、早くも天才の片鱗を示している。大正九年九月に「京大三高俳句会」を創め、同十一月には鈴鹿野風呂らと『京鹿子』を創刊している。
 昭和六年に草城は甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正十年頃に佐藤愛子と相思相愛になり婚約までしている。しかし翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消された。鑑賞句はそれより以前の作であるが、草城は女性に人気があり、また女に持てていた。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込むことを得意とした。草城の俳句にはフィクションが濃厚であり、物語性がある。それもそのはずで、俳句を始めた頃、蕪村の〈お手討の夫婦なりしを更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったという。
 さて〈春の夜や〉と〈春の灯〉の違いはどうかという議論を見てみたい。当然のこと女は喉仏を持たない。(あっても目立たない)。〈春の灯や〉にすると灯に映し出される喉の美しさが強調されるが、女の居場所が限定される。かと言って〈春の夜や〉では、喉仏の陰影がはっきりせず美の強調が半減してしまう。その代り作者と女の距離間は短くなり、ドラマ性が現れる。
 ただ、この句から草城と女の接触はなかったと思われる。と言うのは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったからだ。花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示したという。

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沢木欣一の一句鑑賞(三)    高橋透水

2013年12月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
夕月夜乙女の歯の波寄する    欣一
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 乙女は沖縄の言葉では【みやらび】と読む。名護の海岸での句で、昭和四十九年『沖縄吟遊集』に収録された。欣一は復帰前の沖縄に赴き、約四十日間滞在して沖縄各地の名所旧跡や行事を見物した。句集を出すまで五年を要した労作である。
 自解によれば、「海の白波は乙女の歯にたぐえられ、美人の形容になっている。健康な美的感覚。沖縄の月は明るい。月下の波の穂の鮮やかな白さ」とある。同収録に〈鎮魂へなぎさを素足にて歩み〉〈月光に魚泳ぐ見ゆ盆の海〉などがある。『沖縄吟遊集』は沖縄戦で亡くなった多くの沖縄の人々への鎮魂歌であり、また幾多の修羅場を潜り、戦い続けた人達への感銘と賛美でもあろう。
 『沢木欣一の世界』山田春生著より概略を引用すると、
「昭和四十三年七月下旬より約一ヶ月間、沖縄夏季認定講習会の講師として文部省より派遣され、沖縄本島に滞在した。(中略)余暇を利用して本島の風物に触れることが出来た。本句集は、その間の印象を素材にしたものである。短い期間であったが、種々の沖縄は日本の縮図であり、故郷であるという念を強く抱いた。」
と述べ、また欣一の「沖縄には歴史的には日本文化の源流みたいなところもあるからね」という言葉を紹介している。
 欣一は沖縄に関心を持ち、講師として派遣される前にかなり沖縄の歴史を勉強したようだ。更に句を紹介すると〈ことごく珊瑚砲火に亡びたり〉〈赤土(あかんちゃ)に夏草戦闘機の迷彩〉〈日盛りのコザ街ガムを踏んづけぬ〉などがある。
 後日になるが、欣一は「かなりの句は即興であるが、フィクションが多い。幻想といってもよい。狭く貧しいものであろうとも、これは私の沖縄解釈の試みであった」と、俳誌『風』で述べている。『沖縄吟遊集』はまさに社会性俳句の真骨頂であった。
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沢木欣一の一句鑑賞(二)   高橋 透水

2013年12月17日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
塩田に百日筋目つけ通し      欣一

 欣一は昭和三十年の夏、能登珠洲市で開かれた小・中・高教師の認定講習会に講師として出席した。終了後、輪島市町野町曾々木の塩田を訪ね、雑貨屋の二階に一泊し、翌日も原始的な上浜式塩田の作業を取材している。これは「俳句」の大野林火編集長から大作の寄稿を依頼されていたためである。
 自解によると、「塩田に砂を撒き汐をかけ烈日にさらすことを繰り返す。汐をかけた砂によく日が当るよう千歯で筋目をつける。重労働で夏百日続く」とある。これは能登の曾々木海岸にある揚浜式塩田のことである。同時に〈塩田夫日焼け極まり青ざめぬ〉がある、これも自解によると「夏の日焼けが黒いのは当り前だが、黒さ極まると青ざめた色になる」とある。他に、〈汐汲むや身妊りの胎まぎれなし〉〈塩焼く火守る老婆を一人遺し〉などなど労働句が多い。
これら「塩田」を語るには欣一らが提唱し推進した社会性俳句運動を避けて通ることができない。沢木は昭和二十九年十一月号『風』の「俳句と社会性」というアンケートに「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から産まれる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句を指す」と言っている。さらに遡ると昭和二十一年五月、「風」の創刊号に掲げた「文芸性の確立」「生きた人間性の回復」、更に「直面する時代生活感情のいつはらぬ表現」という目標にも社会性を目指す欣一の決意が読み取れる。
 西東三鬼は、昭和三十二年度の『俳句年鑑』で「欣一は『能登塩田』によって大爆発した」とし、「時代の正統派はこの人を継ぐであろう」とまで述べている。一方欣一は、「能登塩田」だけで社会性を表現したのではない。社会性俳句とは時事的なことを詠うだけでなく、「自然風土と人間のさまざまな生産労働とに目を注ぐ」ことだ、と言明している。誠に傾聴すべき言葉である。
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沢木欣一の一句鑑賞(一)   高橋 透水

2013年12月15日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 
おびたゞしき靴跡雪に印し征けり  

 沢木欣一は大正八年(1919)、富山市梅沢町生れ。父の赴任に伴い、小・中学時代を朝鮮で育った。俳句を始めたのは、昭和十四年、金沢の旧制四高に入学してからであり、間もなく『馬酔木』、続いて『寒雷』などに投句している。
 十五年「鶴」にも投稿し、〈雪霏々と十字路の暮ジャズ鳴れり〉他が初入選し、またその年、『馬酔木』四月号の山口誓子選の連作欄「深青集」に「雪と死」と題した〈巨き雪死に行く人も静かなり〉〈巨き雪遺骸を橇に載せゆけり〉〈雪に立つ弔花に雪の音すなり〉の三句が入選している。いずれも純白・清浄に象徴される雪に、遺骸・弔花などの措辞が戦争という暗い世相を暗示しているように思う。
 当時の欣一の苦悩を著書『昭和俳句の青春』から引用してみると、
「(昭和十六年)日本はハワイを奇襲、米英蘭に宣戦布告し、文字通り全世界が戦乱の地獄となりつつあった。日本は破滅するかも知れない。戦争は泥沼化していつまで続くかわからない。こういうときにどうすればよいのか私は途方にくれて為す術を失い、現実に働きかける意欲を喪失していた」
 さて、〈おびたゞしき靴跡〉の句であるが、自解によると、『金沢駅前の広場で見た光景。この頃は軍隊の輸送が盛んに行われていた。大部隊が汽車で去った後の雪の広場は心に沁みた。』とある。
 金沢駅前で、整然と歩む出征兵士の付けた足跡。家の柱になる人もいたし、将来ある若者も交じっていた。出征時のそれらの足跡は虚しさ、憤り、悔しさの痕跡である。「靴跡」の靴は「軍靴」であり、軍国主義を暗喩してもいるだろう。欣一に反戦思想が底流していることの現れだ。「社会性俳句の最初」と評されたが、欣一の思想を象徴した代表句と言える。
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橋本多佳子の一句鑑賞  高橋透水

2013年12月14日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
万緑やわが額にある鉄格子  多佳子

    
 多佳子が俳句を始めたのは、杉田久女と出会ってからである。多佳子の夫で農場経営者
であった豊次郎は小倉の高台に櫓山荘を新築し、ここで文化人や地元の俳人を招いて句会
などを開いた。そこで出会った久女から多佳子が俳句の手ほどきを受けたのは、二十三歳
の頃であった。以後二人の親交は急速に深まり、俳句の子弟関係にまで発展する。
 ところがその関係を断ち切ることが久女の身に起こった。突然の「ホトトギス」からの
同人除名である。虚子から序文をもらえず、句集の発行の遅れに苛立たしく思っていた身
に、更に除名とはとんだ仕打ちであった。そんな久女の苦悩を多佳子もよく知っていた。
 その後、真意のほどは分からないが久女に異常な言動がみられ、精神分裂症になったと
言う風評も多佳子の耳に入ってきた。終始夫との間に軋轢のあった久女は戦後間もない昭
和二十一年、腎臓病悪化により餓死寸前の状態で筑紫保養院で亡くなる。(久女の死因説
には慢性甲状腺炎<橋本病>という説もあるが、k機会があったら触れたい)
 終戦後の混乱もあり多佳子は久女の死を知る由もなかったが、後年その死を知った多佳
子は一度でいいから久女終焉の地を訪れたいと思った。
 掲句は多佳子の自句自解によれば、昭和二十九年筑紫保養院での作という。「杉田久女
の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかヽ
つてをりました」とあり、「久女終焉の部屋は櫨の青葉が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格
子は、私の額に影を刻みつけた」「久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至
らないわが身を、この時ほどつよく悔やまれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終
焉の部屋のたヽずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう」と述べている。
 読んでるこちらもなんとも切ない思いになるが、橋本多佳子を語るには、やはりこの句
を取り上げないわけにゆかないだろう。



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加藤楸邨の一句鑑賞(3)  高橋透水

2013年12月13日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
死ねば野分生きてゐしかば争へり   楸邨

 昭和二十一年の句集、「野慟」に掲載。
 戦後間もなくの日本は、戦犯を筆頭に戦争協力者が批判の矢面に立たされた。戦争の指導者への裁判は当然のことだが、一般国民の間でも、戦争責任の追及が始まった。死の戦場にいた者、銃後で生活に苦しんだ者同士がいがみ合い、知識人や文学者をはじめ俳人とて同様で、かつての仲間に信頼の溝が出来た。
 そんな中で、中村草田男は「芸と文学――楸邨氏への手紙」という表題で「俳句研究」(昭和二十一年七・八号)に発表した。戦中に軍部要人が主宰誌「寒雷」の会員だったことから、楸邨および「寒雷」が何かと便宜を受けたのではないか、と指弾したのだ。そしてもう一点は、子規の写生には『眼』がり、茂吉の『実相観入』の語にも『眼』があるが、楸邨の称える『真実感合』には『眼』が無いと酷評したのである。
 これに対し楸邨は「現代俳句」昭和二十二年の一・二月号で、「俳句と人間とに就いて―草田男への返事」を書いて反論を述べている。苦しい楸邨の心情が窺がえる。
 まず、草田男の戦争責任の追及について、「戦争で死んでいった友人に対し、自分はすまないと思っている。勝つとは思っていなかったが、始まった以上、日本の永遠のため、日本民族が滅亡しないよう祈り続けた。戦の実相を見抜けなかったことは、不明であったが」と書き、続いて楸邨は軍人からの便宜は否定し、非難は非難として受けとめ、生き残ったものは実作を通して歩もうと決意を表明したのである。
 鑑賞句は、中村草田男の楸邨批判への返答と言ってもよい。要は戦死すれば戦場で野ざらしにされることも多々ある。一方で幸いに戦死を免れて母国に戻ってきても、平和を取り戻せば今度は互いに批判し合うことになる。その上戦争に行かなかった人達も,反戦や平和への意識を問われる。これが世の常だ。
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加藤楸邨の一句鑑賞(二)   高橋透水

2013年12月11日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  蟇だれか物いへ声かぎり   楸邨

日中戦争の最中、昭和十四年の作。句集『颱風眼』に収録されている。
 戦況は抜き差しならぬところまできていて、国家に気兼ねなしでは誰も口を開けない、物の言えないような時代だった。句は解釈の仕方ではそうした時代の民衆の代弁とも取れる。しかし楸邨は蟇を見ていると、言いようのない思いにかられたのだ。蟇は鈍重であるがどこか頑固で忍耐強いのは自分に似ている。が、蟇と同様物の言えない自分が情けなく悔しい。こんな時代に誰か大声で叫ぶ者はいないのか。
 楸邨『颱風眼』の序で、第一句集『寒雷』後の自己の立場を次のように述べている。
  『颱風の烈しい勢が募りに募つた時、その中心にひそむ深い沈黙の一瞬がある。颱風が如何に荒れ狂はう  と、この颱風の眼は、動きつつ常に静寂を保つ。自己の身を置く環境がどんなに激動しようとも、その底 にあつて、自らの激動をみつめてゐる無限に静寂な「颱風眼」、これこそ、私が切に望んでやまぬ「俳句  眼」である』
 また後年、『遥かなる聲』の著書のなかで、難解句と評された〈海越ゆる一心セルの街は知らず〉を自解して「海を越えて出征してゆこうとする青年のひたすらな心は、セルを着て楽しく過ごしている街の人々にはわからないというのである」として、続いて〈蟇誰かものいへ声かぎり〉〈兜虫視野よこぎる戦死報〉を並べて、「これも少し言い過ぎは免れないが、何か黙っているのが切ないような世の空気があった。それで「蟇」の句は出来たのであったが、(略)蟇の黙々としてはいつばっている姿に、何か言わずにいられぬような切迫感が充溢している」と記した。
 物事を徹底して考え抜かないと納得せず、またカオスの時代に直面して楸邨は物言えず苦悩するしかなかった。やはり「蟇」に楸邨そのものを重ねて見ても間違いないだろう。
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 加藤楸邨の一句鑑賞(一)  高橋透水

2013年12月09日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
  鰯雲人に告ぐべきことならず   楸邨

  楸邨の本籍地は明治三十八年東京生れとなっているが、出生届は山梨県の大月である。父親が国鉄の駅長を務めた関係で、転勤が多かった。転勤で住居が幾度も変わったことは、多感な楸邨の少年時代に影響し、その後の句作にも反映することになる。また父は敬虔なクリスチャンで、楸邨も大正九年、十五歳の頃にキリスト教の洗礼を受けている。家族思いの父であったが楸邨が二十歳のときに他界している。長男の楸邨の苦悩は一層強まった。俳句は粕壁の教員時代に同僚に勧められて始め、やがて秋桜子の「馬酔木」に入会した。
 鑑賞句は昭和十三年の作。日本は軍国主義に傾き、また思想や言論統制も厳しくなり始めた時期だ。昭和六年九月には柳条溝事件、満州事変が勃発し、翌七年に満州事変に拡大した。更に同年には五・一五事件があるなど世情は暗くなる一方であった。更に、昭和十一年の二・二六事件が起きたが、中国への侵略は続いて、楸邨の知友も相次いで出征していった。物資が統制されてゆくなかで父の亡くなった後の、妻子のある楸邨の生活は決して楽ではなかった。こうした時代のなかで俳句界にも変化があり、無季俳句を標榜する俳人達は馬酔木を離れた。俳壇は混乱しだした。
 物が言いたくても言えない、人に告げることもできない。俳句は所詮「物の言えない詩型」なのではないか、と楸邨は悩みだした。しかしそんな苦悩のなかで、掲句は句集『寒雷』に収められた。その頃の楸邨の様子を師である秋桜子は『寒雷』の序文で、「楸邨君は必ずしも幸福ではなかったらしい。私は句会の席で、次第に沈鬱になってゆく表情を見逃さなかった」と述べている。
 秋桜子は楸邨の憂鬱を打開し、また俳句の迷いを好転し、生来の向学心を満たすべく上京を勧めた。楸邨は悩んだ末、師の意を汲み大学に再入学した。三十二歳のことである。
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高柳重信の一句鑑賞(三)    高橋透水

2013年12月07日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史

「月光」旅館/開けても開けてもドアがある 重信

  同時句に〈月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵〉があり、昭和二十二年の発表作でる。いずれも句集『蕗子』に収録されているので、この二句を句作の背景が連続しているものとして、鑑賞したいと思う。
 まず〈「月光」旅館/開けても開けてもドアがある〉であるが、夏石番矢(「高柳重信」蝸牛俳句文庫)によれば、『「旅館」の名称「月光」が、異次元の狂気の世界を連想させる。「月光」の狂気に満ちた、無限に続く妖しい異界』としている。この「狂気」「異界」は当時の重信の句を解くキーワードとして重要であることは確かだ。身体的には宿痾の結核という胸の病魔との闘いが重信を「狂気」にし、更に「異界」へと導いたと考えてよいだろう。
 「開けても開けても」は社会、とりわけ俳句の理想や改革を「追求しても追求しても」を暗示しているのだろうか。その先にはまだまだ開けるに困難なドアが待ち伏せている。そして、〈月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵〉は、夏石番矢(「高柳重信」蝸牛俳句文庫・蝸牛社)によれば、『月下の旅にたどり着いた旅館で記帳を求められた「宿帳」には、このフランスの作家の名が。異次元の精神世界の探究者の先人として、作者はこの作家を指名した。』と解説している。
 ちなみにリラダン伯爵とはヴィリエ・ド・リラダンのことである。広辞苑によれば、『フランスの作家。貴族出身であるが、放浪と窮乏のうちに、反俗的な精神主義を貫いた。作品に「残酷物語」「未来のイヴ」「トリビュラーボノメ」など』とある。
 番矢の指摘は重信を知る重大な背景を示しているとみてよいだろう。重信の求めようとした世界はすでに先人が存在したのだ。しかしそれは重信には失望でも自嘲でもない。いつの時代にもあることだ。現状に満足できない限り、さらに何かをもとめて進まねばならない。それは改革者の宿命だ。
 こんな風に掲句二句をストーリー性あるものと鑑賞したが、ひょっとしたら重信の真っ赤な嘘にまんまと引っかかったのかも知れない。

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