そうか あいつが・・・しばらく届いた喪中葉書を見つめていた
このところ 喪中葉書が連日のように来る そういう私だって喪中ではあるけれど・・・
だが この知らせの差出人は彼の奥様だった 胸が痛む
私がどうやら見よう見まねでピアノが弾けるようになった頃 会社内にバンドを立ち上げた
多少の補助金も会社から支給され 異例の部室のような倉庫も使用許可を得た
仕事が終わるとメンバーが集まってくる
生協も近くにあるから なにがしかの飲み物とつまみ持参である
私は酒はダメだが メンバーは飲む 始まるまでに飲み始め気分を高揚させる?
途中休憩しても飲む 終わって飲む 飲むために練習しているようなものだ
歌が好きな他の社員も必ず数名は集まる
私たちのバンド演奏を聴きながら 一杯やるのが楽しみなのだ
そして興に乗れば 大概誰かが歌い出す 生バンドで歌えるから豪勢なものである
そして この中に歌の上手な人が居た 喪中葉書の彼である
バンドの器材を準備するのに手伝い始め やがては彼が集まる前にセットしてくれていた
彼は みんなが集まる前に 歌いたいのである 歌が上手いとバンドも乗れる
声量は良く ノビがあって リズムや音程も外さない
やがては 千葉テレビのカラオケに挑戦して 何度か入賞するようになった
彼は比較的無口である 少し病気がちでもあったと自分で言う
そして私に このバンドがあって私は救われたと言ったことがある
練習日に大きな声で楽しく歌い これが励みとなって生きる力が湧いてきたと言うのだ
病気勝ちも克服して 定年退職するまで 彼は明るく元気になっていた
多分 40年前頃の部室 手前のテーブルは飲み物とつまみ ピアノは私です
たまには出て来ないかと 年賀はがきで良く書いたが 千葉・佐倉の彼は来ない
定年後 電気技術の腕を生かして 地元の仕事もあったらしい
一度だけ 半年後 会って彼の歌声を聴いた
退職後は一度も歌って居ないと言う 正直 私は驚いたものである
あの ノビのある艶やかな声が出ていない 発声が衰えて居たのである
歌っていないということは こんなにも違うものかと思ったものだ
そういえば 懐かしのヒットパレードなどで 往年の歌手がテレビに出てくる
年中歌っていそうな人はそれなりだが あまり歌う機会がなさそうな人は全く発声がダメだ
私もコーラスで歌を歌っていたが 3年以上離れたら 最近では声量も衰えを感じている
そうかぁ 彼がなぁ まだ80歳だったのに・・
彼が歌で輝いていた時代を 共に過ごせることが出来たことだけでも良かったか
特に何もしてあげられないが 良き想い出を供養にしたい
さて 今日は下町のうたごえ 前回は107名と言う驚きの参加者だった
皆さんが楽しいと毎回来てくれる その積み重ねでもあり 私には感謝でいっぱいだ
おいっ! 今は天国で自由な身だろう 一度はここへ来て歌って行かないか・・・
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
年賀状を出す前に来ますね
”喪中はがき”バンド仲間の訃報は
やはり悲しいですね
会社でバンドを始めたんですね
のびたさんはかなり長く
音楽に携わっているんですね
すごいです。
見れば父が103歳とか母が98歳とか、今は健康寿命が長いもんね。
そりゃ~仲よくしてたバンド仲間本人だったらショックだったでしょ。
まだあって話したいこといっぱいあったろうし、ほんと会えるときに無理してでもあっておかないと、色んな事が起きるよね。
のび太さん、もう○○才でなく、まだ○○才で楽しみましょうね。
喪中はがきが今年はやけに多いです
それでもバンド仲間の本人ことは これだけです
バンドは45年活動していました
そして 依頼があれば 会社の納涼祭から街の催し ビアガーデン 健康ランドの出演 老人ホームの訪問など多彩でしたね
喪中はがきの大半は父母が圧倒的ですね
その中にバンド仲間が居てちょっとショックでした
あの楽しそうに歌っている姿が目に浮かびます
おかげさまで私は皆さんから力を頂いて まだ〇〇歳です(笑)
ご本人はまだ今のところなく、ご両親・ご兄弟といった身内の方の訃報でした。
近しい人の訃報は本当にショックですね。お気持ちお察しします。
のびたさんは、バンド活動をされていたのですね。
お仲間の訃報は、驚かれたことと思います。
きっと、お空に行かれても、
大好きだった歌を、披露されてる気がします。
今の時期 次々と喪中葉書が届きますね
差出人との間柄が誰なんだろうといつも先に気にします
これが本人のものだと 何か虚しい気持ちになりますね
みんなの定年までは活動も盛んでしたが 会社を離れたらだんだん少なくなりました
まだ年に一度は出演です 45年の歴史です
素敵な声の方で私も彼が歌うと気持ちよく伴奏できました
どこかの空で歌って居るでしょう