桜の頃やウォーキングで隅田公園やスカイツリーにまで足を延ばす
そこに凛々しく江戸城の方向を向いて指差す 勝海舟 の姿がある
あの戊辰戦争では 幕府軍の軍事総裁となったが 江戸城無血開城を実現させ江戸を戦火から救った
圧倒的な軍事力を誇る官軍の 江戸総攻撃に対して ナポレオンのモスクワ占領にを模した作戦もあった
江戸150万人をあらゆる船に乗せて 今の千葉県に疎開させ 江戸の街は焼き尽くす
その為の手筈は進められ 火消しの衆は放火をして回るなど 準備も整えられていたようである
その上で 官軍の総大将 西郷隆盛と薩摩藩邸で会談して 降伏の条件も認めさせて合意に至った
二人で江戸の街を一望できる愛宕山に登り この街を最後の戦いで消滅させるか迫った
徳川慶喜の身分保障その他の条件も飲んで 江戸城無血開城は実現出来たのである
江戸の街は整然と美しかった 外国人が幕末の江戸を撮っていた
この写真はNHKから借用 今週末から3回にわたって江戸の特集が放送される
当時のリーダーは 勝海舟にしても 西郷隆盛にしても 決して戦争を好むものでは無かった
目的を持って 責任も明らかにして戦いに臨んだ 仕方がないからとか忖度してのものでは無い
こんな風に 昨日の「FM銀河・てんがらもんラジオ」 ゲストの田中一成さんが熱く語っていた
冒頭の勝海舟像は 生まれたのが現在の墨田区・亀沢町 少年時代は墨田区・緑町に住む
蘭学を志し 赤坂の福岡藩屋敷に住む この頃には 剣道・直心影流も免許皆伝も得ていた
修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を1年かけて2部筆写した 一部は自分の為 一部は売って生活費にする
幕末頃はペリーの来航もあるが ロシア イギリス フランスなどが鎖国をしている日本に開国を迫る
幕府の阿部正弘は 諸大名から一般の町人に至るまで広く 海防意見書を募集した
これに海舟も応募 阿部の眼に止まり 念願の役人となって行き 人生が決まった
オランダ語にも精通しているため 長崎海軍伝習所入り 教官になったりオランダ人との通訳も兼ねた
この時期に 薩摩藩主・島津斉彬とも知遇となる そして2度 薩摩を訪れて斉彬とも会った
不平等条約とも言われるアメリカとの批准書交換ではアメリカ軍艦の護衛と称して咸臨丸で渡米する
幕府崩壊のあとは 勝海舟は 徳川宗家の存続を認めさせ 徳川は400万石から駿府70万石になる
明治政府の旧幕臣の代表格で高官ともなって行く
徳川慶喜は水戸藩で謹慎していたが舟で駿府へ送られここで謹慎した
自身は政府の役人となるが 徳川家の面倒も見る 日光東照宮を保存したり旧幕臣に資金援助もした
駿府へ要人を送り 茶畑開墾も奨励したこれが現在の静岡茶の始まりである
新潟上越市・岩原へは大金を融通して貰った川上善兵衛にワインの製造とぶどう栽培を奨励する
西郷隆盛の名誉回復で上野に銅像を作ったり 徳川慶喜の叙勲で明治天皇と皇居で対面もさせた
明治32年に亡くなるが現在の脳溢血の様である 風呂上りにトイレに行った後倒れた
侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが間に合わず ブランディを飲んですぐに意識不明になった
最後の言葉は 『コレデオシマイ』だった
なお タマタマ事件は 9歳の時 犬に睾丸を噛まれて生死をさまよった
そのとき父は水垢離をして 息子の命を助けてくれるよう懸命に祈った
以後 勝海舟はトラウマのようになり 犬の姿を見るとおびえていたようだ
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