朝ドラもそろそろ最終に近くなり 時代は昭和18年ころが描かれている
花子の子供も山梨の甲府に疎開に行き 祖父母のところで暮らすようになる
東京もいよいよ空襲の危険が迫り この頃 多くの子供が家族が疎開に行った
添乗員時代に団体ツアーも 私は会社から依頼された
その中で小学校時代 疎開をした同窓生たちが集まって 一泊する企画があった
あの小学校 お世話になった村や公民館など どうなっているか訪ねると言う
おそらく50年を過ぎし日を 同窓会として行って見るかとなったようである
事前に幹事に校歌など残っていますかと聞くと有ると言う 楽譜も付いているそうだ
それではと言うことで 私のサービスはキーボードをバスに載せて添乗した
勿論 校歌をうたって貰うことである これで一気に車内が盛り上がる
併せて 唱歌なども歌いましょうと ふるさと もみじ なども合唱した
おまけは用意した 青い山脈 など抒情歌で青春時代を彷彿とさせる
最初に訪れた地は 信州・松本市 浅間温泉に近い小学校である
ああ ここへ通ったんだ この周辺も 僅かに想い出があるよと語り合っていた
50年も過ぎると 周囲の山々は変わらないが 微かな記憶とは違っている
次が桜で有名な高遠から南アルプスへ向かう山奥の伊那里である
その途中には 私の父母が育ち 今はダムが出来た美和湖があった
疎開先が変わるのは 松本が終戦近く 空襲の危険があるからとの理由である
結果的には 松本は空襲を逃れたが 彼らは この奥地へ転校してきた
ここには想い出と重なる地域があったようだ
ああ あのお寺 あの家 あの路地 思い思いに巡り歩いている
勿論 当時 住んでいた方たちは殆ど居ない 家族があとを引き継いでいた
疎開先の子供たちへは 集落でみんなあたたかったそうだ
収穫された果物や おはぎなど 住んでいた先へ届けてくれたと言う
更に 疎開先が変わり 今度は天竜川を伊那谷に沿って下る
信州は東京からの疎開児童を多く受け容れていた
それは森林が多く 密集した街は無い 空襲の危険が少ないと言うことか
飯田市に近い松川と言う街に 想い出を訪ねた
河岸段丘のような傾斜地の多い地で 柿やリンゴが栽培される地でもある
ここにも ああこの辺だ ここに想い出があると懐かしげに 佇んでいた
疎開は 親にとっては大変な辛さも伴うが 子供たちにはそれは分からない
こうして 当時の現地を訪ねることも 周囲の優しさ人情が支えていたのだろう
東京から疎開地を訪ねるツアー 私にも貴重な添乗が出来たこと感謝でもある
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
実家の両親は旧樺太生活の引揚者でしたし。
もう疎開と言う言葉は、わが子時代でもわからないと思います。
息子たちが小学生頃に、石炭をみて「これ、なぁに」でしたから。
時代は恐ろしく変化しています。
あはは! もう経験無い世代ですね(笑)
樺太も大変だったと思います
平和裡に日本と締約された地でありながら 一方的にソ連軍が追い払い占領されましたね
厳寒な土地を人の住める環境に変えてきたのに理不尽です
そして石炭も分からないと言えば その時代に居ないから当然ですが 私には寂しい気持ちです(笑)