お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「藤岡弘、さん」・・・誤植ではありません。念のため・・・

2006年07月12日 | エッセイ・日記・意見
芸名に「、」を付けるまで
1986年にアメリカ映画の「SFソードキル」で、武道を通して予てから関心のあった侍を演じることとなった。

しかし手元に渡った台本を見ると、外国人が想像する「侍」は史実のそれと全く異なるものであった。戸惑った藤岡は、通訳を通して日本の伝統文化における侍の地位、役割を粘り強く説明。苦労の甲斐あって藤岡の演じる「侍」は各国で高い評価を得て、パリ国際ファンタスティック&SF映画祭批評家賞を受賞し日本人として初めて米国俳優協会の会員となる。その熱意に深く感銘した現地のスタッフも藤岡のことを「ヒロシさん」と呼び、敬意をもって接するようになったという。この出来事が切っ掛けとなり、「昔の武将は一度"、"を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり自分を見つめる」という覚悟と「『我未だ完成せず』との意味を込めて」改名に踏み切った。映画の本場であるハリウッドという名前に流されれば史実と異なった侍を演じて誤解を招いてしまうかもしれないという自分の立場と昔の武将を重ね合わせたものであろう。

本人にとっては一つの大きな決心であったが藤岡自身が無理強いしなかったこともあって番組クレジットなどにも「、」が表示されることは殆どなく、一部のファンを除いてこの事実は知られなかった。しかしモーニング娘。などの台頭で藤岡の「、」も注目され次第に業界関係者に浸透しはじめる。当初はモーニング娘。の人気に肖ったものとの見方が多くを占めていたが2003年1月8日に関西テレビの「痛快! エブリデイ」に生出演した際、司会の桂南光に芸名について質問されるとそこに至る経緯を説明し句読点及び記号ブームの元祖は藤岡であることが公となり、それ以降は番組クレジットなどでも「、」が表示されるようになった。


なんか、痛快な話だ。「モーニング娘。」の「。」とは違う「、」に「和」を感じる。
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「上育堂」。

2006年07月12日 | エッセイ・日記・意見
雇ってくれる会社が無い・・・
えぇよ。 だったら、社長になってやる!

福祉施設のベッドの上から起業します。
 ー 2001年5月30日開店 -
私は障害者である事を隠しません
私は仕事の上で自分に障害があることを臥せません。私に難なくできる仕事があると同様、私にはできない仕事や、仕事上いろいろお客様にご理解いただく環境があります。それをご納得していただいた上でご発注をいただくのが私のお客様に対する誠意と考えています。
SOHOで起業したとき、障害者である事を表に出しただけで、それを人から同情を買おうとしている行為と中傷されました。そう思う方はお答えください。「私はなぜ同情されなければならないのですか?」「私のどこが不幸なのですか?」「私のどこが哀れなのですか?」
私はお客様とのお付き合いの中、幸福に生きています。
(ホームページ内の社長の言葉)


上記文章を読んでこちらを訪ねてみて下さい→http://www.wake-do.com/
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僕も今の時代、「親」の考え方がしっかりしていないといけないと感じている。

2006年07月12日 | 本・雑誌・漫画
「親力」で決まる ! 子供を伸ばすために親にできること

宝島社

このアイテムの詳細を見る

出版社/著者からの内容紹介
「親力」こそが、子供の学力と人間力を伸ばす!
この本でいう「親力」とは、“子供を育て、包み、伸ばす親の総合力”のこと。教師経験21年の著者が、どんな親でも親力をつけられるシンプルで具体的な方法を伝授する。
それらの方法は決して難しいものではなく、ちょっとした発想の転換や、ほんの少しの心がけでできるものばかり。しかし、これらのコツを知っているのといないのとでは、10年後に大きな違いが出てくるのだ。創刊1年弱で購読者1万人を突破した超人気メルマガから生まれた、画期的な“親教育”の書が本書である。
<こんなことで悩んでいる親たちに…>
●子供を伸ばしたいが、具体的にどうすればいいのか分からない
●お金も手間もかからず、しかも抜群の効果がある家庭教育の方法は?
●気持ちの優しい子供に育ってほしいが、どうすればいいのか
●子供がだらしない
●早期教育は是か非か
●しつけの方法が分からない
●子供とうまくコミュニケーションがとれない
●子供から逃げ出したい…


内容(「MARC」データベースより)
現役小学校教師が示す、明るく楽しく育てるためのヒント41。巻末には、作家・重松清氏との対談「親が「楽」になれば子は伸びる」を収録。メールマガジン『親力で決まる子供の将来』をまとめる。

出版社からのコメント
これまでの家庭教育に関する本は、「子供を伸ばすための方法」について書かれていました。この本はそれらとまったく違い、「“親としての力を伸ばす”方法」について書かれています。
「トイレに地図を貼る」といった超実践的な事柄から、「感情的対応を直す方法」、そして「親自身のトラウマを乗り越える方法」まで、そのすべては、これまで見過ごされがちだった“親としてのあり方”を示しています。
著者は静岡県の公立小学校の先生。21年間の教師経験の中で「親が子供に与える影響は絶大であること」そして、「多くの親は“子供を伸ばしたい”と思っていてもほんの少しのコツを知らなかったり、誤解をして間違った方法をとっている場合がある」ことを痛感し、自らの教師としての経験や技術を少しでも家庭で役立ててもらいたいと、2003年に日刊メールマガジン「親力で決まる子供の将来」の発行をスタートさせました。
このメルマガは悩める親たちの絶大な支持を得て、児童教育関係のメルマガにおいて群を抜く人気メルマガとなりました。
このメルマガを読みやすく編集し、1冊にまとめたものが本書です。
メルマガで多くの親子が救われたように、本書によってより多く親子が救われることでしょう。悩めるお父さん、お母さんには、巻末の、直木賞作家・重松清氏と著者の対談も必読です。


著者からのコメント
私は小学校教員として21年の間、教育の最前線に立ってきました。毎日、個性的な子供たちと向かい合い、また個性的な親たちと接してきました。
その中には、担任の私など足元にも及ばないほど素晴らしい教育理念と実践力を持った親たちもいました。その一方で、子供がかわいそうとしか思えないような親たちもいました。全くと言っていいほど教育力がない親たち、また、教育的な配慮が全然なくただただ自分たちの都合や楽しみしか頭にない親たちもいました。
世の中にはいろいろな親がいます。しかし大部分の親たちは、かわいい我が子のためにがんばっているということを私は知っています。ところが、「かわいい我が子のために」という思いが空回りしている場合が多いのもまた事実です。
つまり、具体的にどうすればいいのか分からないのです。
そこで、私は、自分の小学校教師としての経験と知識と技術を少しでも役立てられたらと思い立ちました。そして、少しでも多くの子供たちが幸せな小学校生活を送り、豊かな将来のための基礎固めをすることができたらと、切に願っています。
そして、それによって少しでもよりよい社会の建設に資することができれば、望外の喜びです。
(Amazon.の解説より)


すぐ「先生の責任」にする「親」がいる。PTA活動でも、「子供達」の事をあまり考えずに行動する「親」がいる。そんな「親」に是非読んでもらいたい。


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公立で「小中一貫教育」の試みが始まった!!!

2006年07月12日 | 教育・学校
開校相次ぐ公立小中一貫校

日野学園の開校式。クラス分けの名簿を渡され喜ぶ小学生(手前)と中学生たち=品川区東五反田2丁目で

 都内で、小学校と中学校の連携を深めた公立小中一貫校の開校が相次いでいる。5日に三鷹市立にしみたか学園が開校したほか、6日には、品川区立日野学園と足立区立興本扇学園が開校式を行った。特に品川、足立の場合は、学力向上などを掲げて「小学校6年、中学校3年」の枠組みを見直しての開校だ。「中1ギャップ」の解消が狙いの一つという。(山西厚、崎太郎)


 品川区は、今年度から全国の自治体で初めて区立の全小、中学校で一斉に一貫教育の独自カリキュラムを導入した。新設された日野学園は、1年生~9年生(中3生)計557人がすべて同じ施設を使うモデル校として位置づけられている。職員室も一つだ。


 文科省教育課程課などによると、小学校と中学校を同じ施設で運営することは、従来の枠組みでも可能だ。中学校教員の資格しか持たない教員でも1~6年生のクラス担任をしたり、資格を持つ教科に限って教えたりできる。


 品川区立日野学園の教員のうち、もともと小学校で教えていた教員の6割は中学校の資格も持っている。区は、教員が両方の資格を取るための費用を援助する方針だ。



◆独自に四三二制◆


 品川区は03年度から構造改革特区制度を活用する小中一貫校の研究を始め、昨年8月には独自のカリキュラムをつくり、市販した。


 そうして組み上げた「品川式」一貫校の特徴は、計9年間を子供たちの身体的、知的発達状況に合わせ、「4年、3年、2年」の3段階に分けて指導するという点。中学の教員が小学生のクラスを担任したり、小学校の教員が中学の教科を受け持ったりする。これは施設が一体化している日野学園に限らず、全小・中学校で実施する。


 区教委の吉村潔・小中一貫教育担当課長は「教員が9年間を見通して教育にあたることができるような仕組みを考えた」と話す。数学で習う「負」の考え方など、これまで子供たちが中学進学時につまずきやすい分野を前倒しして教えるなど、学力向上が期待できるとしている。


 児童・生徒計721人の興本扇学園の場合も、小学校と中学校で校舎が違うが、9年間を「4―3―2」に分ける。5、6年生は隣接する中学の校舎に移って、授業時間も45分から50分に延ばすという。




◆「ギャップ」解消◆


 両区がこれまでの「6年、3年」の枠組みを崩す目的の一つには「中1ギャップ」の解消がある。


 「中1ギャップ」とは、小学校から中学校に上がるといじめや不登校が急増する現象で、03年度に新潟県教委が実態調査を始めたことで知られるようになった。


 都教委が実施した04年度の実態調査でも、いじめの場合、小学6年の98件に比べ、中学1年では573件と6倍近い。また、不登校の人数も小学6年で597人だったのに、中学1年では1575人にのぼった。


 都教委指導企画課は「中学で教科担任制になることや小、中で生活指導の仕方が違うことが原因とする説もある」とするが、理由ははっきりしていないという。


 品川区の吉村課長は「ギャップは現場の教員がみな実感してきたものだった。一貫校では小、中の教員が連携でき、子供たちへのショックを弱められるはずだ」と話す。数年後の不登校率の変化を見て、成果を測るという。(朝日新聞より)

「日野学園」HPはhttp://www1.cts.ne.jp/~hinogaku/


1年生から9年生まで・・・先輩・後輩がたくさんいるというのは良い事だと僕は個人的に思う。親ももちろん、子供の教育に関わっていかなければならないのは当たり前だが、9年生が1年生にいろいろな事を教えていくという教育も、少子化の今、必要な事なのかもしれない。ホームページを覗くと、楽しそうな学校生活が想像でき、なんか嬉しくなった。そういえば、アメリカンスクールって、こんな形式だったはず。誤解を生む様な発言だが、結果を恐れず、「行動」してみる事も、「教育行政」には必要な事だと感じた。





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「タイトルが先だ!文学賞」とは・・・

2006年07月12日 | 本・雑誌・漫画
開始早々、応募数5000通突破! タイトル募集、応募受付中!
『タイトルが先だ!文学賞』

株式会社角川デジックス(本社:東京都文京区、代表取締役社長:福田 正 以下、角川デジックス)とバンダイネットワークス株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:大下 聡 以下、バンダイネットワークス)、 および株式会社公募ガイド社(本社:東京都新宿区、代表取締役社長:吉田 秀三 以下、公募ガイド社)は、ケータイ小説向け文学賞「タイトルが先だ!文学賞」を実施いたします。4月7日の募集開始早々、5000通以上の応募を頂き、おかげさまで上々の滑り出しとなりました。

ケータイ小説では、CDのジャケ買いと同様に“タイトル買い”という現象が存在します。画面上の限られた情報のみで購入を決めるため、タイトルのインパクトが売上を左右します。 「タイトルが先だ!文学賞」は、まず、最も重要な要素である小説のタイトルを募集し、次にキャッチコピーと表紙イラストを募集します。パッケージとなるべき部分がすべてそろったところで、小説のコンテンツを募集するというものです。小説部門の大賞受賞者は賞金10万円と、作品を電子書籍サイトで販売した際の印税が支払われます。

当文学賞は、タイトル、キャッチコピー、表紙イラストの募集を併設することで、さまざまなジャンルの人に参加していただくとともに、読者の視点で自分が読みたいと思う究極のケータイ小説をみんなで作り上げていく、そのようなケータイユーザー(読者)のリクエストに応えていくのが「タイトルが先だ!文学賞」なのです。

■タイトルのインパクト
世の中にはさまざまな名タイトルが存在します。
インパクトがあると感じる、または興味を引かれるタイトルというのは、それなりの理由があります。
過去の小説やマンガなどから、タイトルのつけ方を分析してみました。

1.かけ離れた意味の組み合わせ
大きくかけ離れた意味の言葉を組み合わせることで、そのギャップによりインパクトを出す手法です。
たとえば、「夏と花火と私の死体」(乙一)。「夏と花火」の次に、「私の死体」というおよそ似つかわしくない言葉をもってくることで、インパクトのあるタイトルになっています。
「晴れ、ときどき殺人」(赤川次郎)、「阿修羅ガール」(舞城王太郎)、「最終兵器彼女」(高橋しん)なども同じです。

2.言葉を付け加える
たったひとつの単語を付け加えることで、ありふれたタイトルにインパクトを与えることができます。
「彼女はたぶん魔法を使う」(樋口有介)。「彼女は魔法を使う」だったら、ごく平凡なタイトルです。ここに「たぶん」を付け加えることで、魅力的なタイトルに変身させているわけです。
ほかには「飛ぶ夢をしばらく見ない」(山田太一)、「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)などがあります。

3.小さなギャップ
かけ離れた意味ではなく、ちょっとした違いでインパクトを出す手法です。
たとえば、「夜のピクニック」(恩田陸)というタイトル。夜、ピクニックに出かける人はいませんから、普段の日常とは違うということが見て取れます。ちょっとした違和感で、見た人の関心を誘っています。
ほかには、「顔に降りかかる雨」(桐野夏生)、「注文の多い料理店」(宮沢賢治)、「薬指の標本」(小川洋子)などがあります。

上記以外にも、音の響きや視覚性、覚えやすさ、呼びやすさなどを工夫することでインパクトを出すことができるでしょう。

「タイトルが先だ!文学賞」実行委員長 橋谷尚人(公募ガイド編集長)
応募されたい方はhttp://www.koubo.co.jp/contents/title/



「日本語の奥行きの深さ」が無くならないかなぁ~と心配するのは杞憂でしょうか?
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「携帯サイト」で連載を6本も抱える作家・・・内藤みかさん。

2006年07月12日 | 携帯電話・電話
一日の掲載分は「100字強」。10分間で読めて、次がまた読みたくなる様に書くのがコツだそうだ。通勤のOL達が気軽に読めるので、5ヶ月で150万アクセス。彼女のブログはhttp://plaza.rakuten.co.jp/micanaitoh/ 

読みたい方はこちら→http://www.jepa.or.jp/sm/siryositu/20021211.files/frame.html

携帯で文庫読み放題(月額315円・税込み)というサイトもある。詳しくは→http://www.kadokawa.co.jp/sp/200308-06/


本が売れない訳だわー
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日航機事故の「遺書」展示始まる。

2006年07月12日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
御巣鷹犠牲者の遺書を展示 日航の安全啓発センター
2006年 7月10日 (月) 10:17


 日航は10日、1985年8月に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機の残骸(ざんがい)を展示している「安全啓発センター」で、事故で犠牲となった乗客や乗員が残した遺書やメモの展示を始めた。

客室乗務員の対馬優美子さん=当時(29)=が不時着した際のアナウンスを書き出したノートと、元日航社員の白井まり子さん=同(26)=が「恐い 恐い 恐い」などと走り書きをした時刻表は、遺族が実物を提供。

乗客の河口博次さん=同(52)=が7ページにわたって手帳に残した家族へのメッセージなど、乗客4人の遺書は写真を展示。撮影には遺族が協力した。

安全啓発センターは社員教育が目的の施設だが、予約すればだれでも見学できる。連絡先は電話03(3747)4491。(共同通信より)



日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日、当時の日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747 SR-100、登録番号JA8119のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山※に墜落した事故である。

単独の航空機事故としては世界航空史上最悪である。事故調査報告書によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名にのぼり、その中には歌手の坂本九などの著名人も含まれていた。生存者は4名で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。また、この事故が航空業界のみならず社会全体に大きな衝撃を与えたことから、一般的に「日航機墜落事故」「日航ジャンボ機墜落事故」と言う場合、この事故を指すことが多い。

※墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山(たかまがはらやま)にある無名の尾根である。後に、この尾根は、上野村村長であった黒沢丈夫によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではない。


事故の経過

事故当日のJAL123便
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、19時00分大阪(伊丹)着のフライトプランだった。使用機体はボーイング747のJA8119、JA8119は同日その前に503便、504便、363便、366便の各定期便として飛行し、123便で5回目。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量だった。

乗務員は、高浜雅巳機長(49歳)、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の3人のコックピットクルーと、客室乗務員(男性1人、女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった。

18時4分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。


異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊される。その際、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。そのため、エンジンと電気系統は無事なものの、油圧を使用しての操縦は不可能の状態に陥ってしまう。操縦は困難を極め、機体は迷走を続けるとともに上昇、降下を繰り返し、17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、降下手段としてランディング・ギア(着陸脚)を降ろした後、空気抵抗のためか、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。


その時、キャビンでは―
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス(緊急事態発生の際に自動的に流れ始め、予め録音してある男性の声で乗客にシートベルトの着用や安全姿勢を指示する音声)が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備えたのか、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、みな落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全の姿勢」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、事故現場から発見された。

大阪商船三井船舶神戸支店長の遺書
「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと食事したのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 津慶 しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」
※( )は脱落


その時、地上では―
123便は18時25分頃に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に受信される。直後に機長が無線でACCへ羽田へ戻りたいと告げ、ACCは了承、どちらに旋回するか尋ねると機長は右旋回を希望する。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。27分には機長から緊急事態が宣言され、その後123便を羽田へ誘導し続ける。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。28分、ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。

31分、ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸するかと提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。33分頃から日航は123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下してるので後ほど呼び出すまで待機するよう求められ、日航は了承した。

40分、ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが返答は無かった。42分、123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信がし続けられる。そのため、ACCは交信が入る機に個別で指示し続けた。

45分、無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(YOK)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが羽田(APC)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。47分、123便は千葉の木更津へ誘導するよう求め、ACCから真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、操縦不能と返答がきた。その後、APCの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。48分、何故か無言で123便から機長の荒い呼吸音がACCに記録されている。49分、123便からの応答がこない為、日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。

53分、123便から操縦不能と疲れ果てた声で無線が入ってくる。ACCとYOKが返答、YOKは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPCの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。54分、日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APCが羽田から55マイル(102km)北西で、熊谷から25マイル(46km)西と告げる。55分、APCから羽田と横田が緊急着陸準備を行っていると知らせ、123便から了解と返答が入る。しかし、その直後、APCが123便に対し、飛行計画を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPCとYOKが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。

57分、YOKが123便に対し、貴機は横田から35マイル(65km)北西の地点におり、横田基地に最優先で着陸できると交信、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時点で既に123便は墜落していた。


その時、コックピットでは―
衝撃音がした直後、機長は地上への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。

ところが、管制官の「右旋回?左旋回?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。

ボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、すでに操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、更には副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。

ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。

18時24分35秒頃、コックピットのボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。直後に機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士は「油圧」が異常に低下していることに気づく。26分、無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンク(迎え角)とるなそんなに」と怒鳴っている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。そして、僅か3分足らずの27分に、圧力の喪失を示すと思われる「オールロス」という航空機関士の音声が残されている。


そして同じころ客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空に降下させていった。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイトやダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が残っている。

31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(壊れる)しました」と連絡※している。

※R5のドアは墜落現場で破損していない状況が確認されている。また、機長に対しては「荷物の収納スペースのところがおっこちてる」と報告しておりR5に関しては酸素マスクの異常についてのみ報告している。なぜ「R5のドアがブロークン」と連絡したのか、そもそも、連絡がどのような内容であったかは不明。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを出そうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、電動で再度試み、着陸ギアが降ろされた。電動でギアが降ろされたことで右に大きく旋回しながら高度が下げられ、更には横揺れが縮小、又は一定に保たれ多少機体が安定した。

46分、機長が「これは駄目かも分からんね」との呟く様な独り言を残している。47分、この頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。49分頃には機首が39度も上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちた。その頃から機体の安定感が崩れ何度も失速を繰り返し、そのたびに最大出力「マックパワー」を指示する声が残っている。更に所々お互いを励まし合う声も記録されている。51分、依然続く失速を抑えるため、電動でフラップが出される。

54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね熊谷から25マイル西の地点であると告げられる。その直後55分頃、フラップを下げた途端、失速し、大きく機体は右にそれながら急降下を始める。彼らはすぐさまフラップを上げ、パワー出力を増やし機首を上げようとした。


墜落
3名の努力の甲斐も空しく、123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動、同20秒頃、機体は僅かに上昇しだしたが18時56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり18時56分30秒、高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーにも衝撃音が残されている。また、直前には機長ともう1名(誰かは不明)の最期の声が残されていた。

衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。しかし、この客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、そこから4名が奇跡的に生存できた。



あの日の大阪は晴れた暑い日だった。仕事が早く終わり、西日を浴びながら、会社
近くの飲み屋に行った。「日航機がレーダーから消えた」というニュースを店のテレビは流していた。入社3年目。同期のお父さんが悲しい事に、123便に乗っていた。後に、彼とドラマのロケハン(下見)に四国の山に登った時、彼から「毎年、御巣鷹山に登っている」という話を聞き、長い年月が経っても、心に受けた深い傷は消えない事を感じた。今日(正確には昨日の朝刊)に、「遺書」の写真が掲載されている。何年か前、「知覧平和記念館」で見たたくさんの「遺書」・・・。手書きの文字には涙を禁じえない・・・
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