お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「イキガミ5巻」「ボーイズ・オン・ザ・ラン9巻」「ヤッターマンVSみのもんた」

2008年05月05日 | エッセイ・日記・意見
「子供の日」の今日、「結婚記念日」である。1991年5月5日に結婚したから、17回目という事になる。

午前中は10時過ぎに起きて、ヨーガを初級・中級とやり、クールダウンする。中上級までやろうと思ったが、無理するのはやめた。
朝食は、「煎じた漢方薬(アトピー治療用)」「ニンジンジュース」「菓子パン1個」。一緒にドラマをやった脚本家の森下直さんの「新・科捜研の女」をVTRで観る。やはり、構成といい、キャラクター、台詞、どれもいい。「イキガミ5巻」「ボーイズ・オン・ザ・ラン9巻」を読んで、午後6時まで昼寝。
これから「ヤッターマンVSみのもんた」を1時間観ながら、鍋の夕食。「結婚記念日」なので、「赤ワイン」が付く。
明日は「番組収録」で仕事。早く寝よう。
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オリンピック聖火

2008年05月05日 | 旅・外国
オリンピック聖火(オリンピックせいか、英:Olympic Flame、仏:Flamme olympique)は、国際オリンピック委員会の権限の元、ギリシャのオリンピアでともされる火のことであり、オリンピックの象徴である。オリンピック大会開催期間中、主競技場でともされ続ける。その起源は古代ギリシア時代に遡り、ギリシア神話に登場するプロメテウスがゼウスの元から火を盗んで人類に伝えたことを記念して、古代オリンピックの開催期間中にともされていた。聖火は、1928年のアムステルダムオリンピックで再び導入されて以来、近代オリンピックの一部であり続けている。現在の聖火リレーは、1936年に開催されたベルリンオリンピックで導入された。


用途
伝統的に、聖火はオリンポス山で太陽を利用して採火され、聖火ランナーによってオリンピック開催地まで届けられる。

近年では、オリンピックの開会式が行われる数ヶ月前に、古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンピアで採火されている。聖火トーチへは、太陽光線を一点に集中させる凹面鏡に11人の(女優が演じる)巫女がトーチをかざすことで火をつけている。なおこの儀式の本番は非公開とされており、テレビ等で見られる採火の場面はマスコミ向けの“公開リハーサル”である。

その後、聖火は聖火リレーによってオリンピック開催都市までリレーされる。伝統的に聖火は足で運ばれるが、その他の輸送手段も同様に使われている。聖火ランナーは、スポーツ選手や有名人だけでなく、一般に多くの無名の人々もまたリレーに参加している。

開会式当日、聖火リレーは大会のメイン会場となる競技場に設置された聖火台に点火される。 かつては、最終ランナーが階段などで聖火台へ向かって走りより、トーチから聖火台に火を移すことが一般的であったが、アーチェリーの矢、スキージャンパー、競技場に設置された花火など、近年は様々な趣向が凝らされるようになってきている。 多くの場合、最終ランナーは最後の瞬間まで秘密にされ、一般的に開催国の有名スポーツ選手が務める。聖火台に火をともすことは、大変栄誉なことと考えられている。聖火台に点灯された聖火は、そのオリンピックの開催期間中ともされ続け、閉会式の最後に消灯される。


歴史
古代ギリシア人にとって、火はプロメテウスが神々の元から盗んできたものだと考えられており、神聖なものだった。このため、火はオリンピアの多くの神殿に見られるのである。火はオリンピアにあるヘスティアの祭壇で燃え続けた。オリンピック開催期間中は、ゼウスとゼウスの妻ヘラの神殿に火がともされ、ゼウスを称えた。近代オリンピックにおける聖火は、かつてヘラの神殿が建てられていた場所で採火されている。

近代オリンピックでは、1928年まで聖火は見られなかった。オランダの建築家ジャン・ウィルスは、1928年のアムステルダムオリンピックにあたって、オリンピックスタジアムの設計に塔を取り入れ、火が燃え続けるというアイディアを盛り込んだ。1928年7月28日、アムステルダム電気局の職員が、地元ではKLMの灰皿として知られている、いわゆる"マラソンタワー"と呼ばれる塔に最初の聖火をともした。


ベルリンオリンピックの聖火
ジョセフ・ジンドリック・サクトーリ撮影この聖火というアイディアは熱い注目を浴び、オリンピックの象徴として取り入れられた。1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツのスポーツ当局者でスポーツ科学者のカール・ディウムが、聖火リレーを思いついた。3,000人以上のランナーが聖火をオリンピアからベルリンまで運んだ。ドイツの陸上選手だったフリッツ・シルゲンが最終聖火ランナーで、競技場で聖火をともした。聖火リレーもまた、オリンピックの一部となった。

冬季オリンピックにおいては、最初の聖火リレーが行われたのは1952年のオスロオリンピックだった。最初の聖火リレーの採火地はオリンピアではなく、ノルウェーのモルゲダールにある、スキースポーツの開拓者、ソンドレ・ノールハイムの家の暖炉であった。1960年と1994年の聖火もそこで採火された。

1956年の聖火リレーはローマからスタートとなった。この年を除き、冬季オリンピックの聖火リレーはオリンピアからスタートしている。

聖火リレーの道中の多くはランナーによって運ばれるが、多くの異なる方法も試されている。

1948年にはイギリス海峡を渡るために初めて船が使われ、1952年のヘルシンキオリンピックでは初めて飛行機が使われた。1956年のメルボルンオリンピックの際には、開催国であるオーストラリアの厳しい検疫の関係で馬術競技が隔離して開催され、馬術競技が開催されたストックホルムへは、馬に乗って聖火が運ばれた。

注目すべき輸送手段として、1976年には聖火を電子パルスに変換することが行われた。このパルスは、アテネから衛星を経由してカナダまで送り届けられ、レーザー光線で再点火が行われた。

他の輸送手段としては、ネイティブアメリカンのカヌーや、ラクダ、コンコルドも挙げられる。

1998年の長野オリンピックでは、リレー用トーチの設計が悪く、特に前傾させると走行風で聖火が消えるトラブルが頻発した。失火させないよう、垂直、あるいはやや後傾させた場合は燃料が垂れ、火傷の原因となるなど、事前のテスト不足が指摘された。

2004年には、78日間にわたる初の世界規模の聖火リレーが行われた。聖火は、およそ11,300人の手によって78,000kmの距離を移動し、この中で初めてアフリカと中南米に渡り、過去のオリンピック開催都市を巡り、2004年のオリンピック開催地であるアテネまで戻ってきた。

2000年のシドニーオリンピックではグレートバリアリーフの海中をダイバーによって移動され、史上初めての海中聖火リレーとなった。開会式では、上昇式の聖火台が途中で3分ほど停止してから動き出すトラブルがあった。Australasian Special Event社で働くトレヴァー・コーネルによると、いくつかの推測がなりたつ。

"まず、コンピュータまたは機械、あるいはその両方がうまく動作しなかったこと。もう一方は、仕掛けを秘密にしておくために、完全な状態でのテストが一度も行われなかったこと。聖火台はおもりを使って引き上られる構造だったが、このテストは、燃料を入れない状態で一回だけしか行われなかった。夜になり、燃料を聖火台に注入した際におもりとのバランスが取れなくなった。このため、おもりとのバランスが取れる状態まで燃料が燃えてから、聖火台は斜面を登り始めた" (英語)。
2008年の北京オリンピックでは、世界135都市を経由し、標高8848mで世界最高峰のエベレスト山頂を通る予定となっている。しかし、フランス・イギリス・インドなど世界各国では中国のチベット弾圧に対する抗議デモなどの影響で、三度ほど聖火を消したり、予定されていたルートを変更する国が続出する事態となった。また、長野市で聖火リレーが行われる日本では、善光寺がスタート地点としての利用を取りやめにしてただの空き地にしたほか、公式スポンサーのレノボジャパン、日本サムソン、日本コカコーラ三社が広告掲示を取りやめ(三社ともチベット問題を理由とはしていない)など混乱している。



何故、こんなに「オリンピックの聖火」がいろんなところを周っているのだろう。「聖火」に関して、政治的問題を持ち出すのはどうかと、僕は思う。
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文壇バー「風花」

2008年05月05日 | お酒・焼酎・ウィスキー・ワイン
先日、久しぶりに「風花」に知り合いと行きました。その前に行った時、一緒に行った人が中上健次さんの大ファンで、「風花」に残っていた「中上健次さんのキープしたボトル」からウィスキーを少し飲んだ時の嬉しそうだったあの表情。今日、昨年11月にその彼が亡くなっていた事を知りました。最近、僕の周りで亡くなる人が多いのは・・・何故?
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幸せいっぱい!!イノッチ&朝香が挙式

2008年05月05日 | エッセイ・日記・意見
 昨年9月29日に入籍したV6・井ノ原快彦(31)と女優・瀬戸朝香(31)が3日、都内で親族ら100人に見守られ、挙式、披露宴を行った。

 会場は都内にあるチャペル付きの一軒家のゲストハウス。マスコミをシャットアウトする中、V6のメンバーのほかタレントの北乃きい(17)、俳優の勝地涼(21)といったごく親しい友人ら約100人が出席した。

 夕方から行われた披露宴は2人の手作り感あふれたものに。瀬戸は純白のドレス、井ノ原も白いタキシードで瀬戸をエスコート。今後も夫婦として支え合って生きていくことを誓い、2人は涙を見せたという。

 夫妻は夜、連名のFAXでマスコミ各社に「自分たちだけでひっそりと考えておりました。大変感動的な挙式になりました」と報告。結婚後7カ月たって念願だった披露宴が実現したことに「有言実行で2人の幸せな結婚式を挙げられたことを幸せに思います。一生一度の行事に涙しましたが、今日の喜びの気持ちを忘れずに生きていきます」と、感激いっぱい、幸せいっぱいの気持ちをつづっていた。

 井ノ原は現在、「20th Century」の全国ツアー中で、加えて連ドラ「警視庁捜査一課9係」の撮影と大忙しだが、その合間を縫っての結婚式。8日には大阪でコンサートがあり、無事挙式を終えたことをファンに報告することになりそうだ。
(ディリースポーツより引用)



ジャニーズ事務所所属のタレントが結婚まで漕ぎ着けた。オメデトウと言いたい。
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宮脇 俊三

2008年05月05日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は、日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子。


人物
地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。また熱心な鉄道ファンでありながら、一部のマニアに見られる特有の嫌味さ(専門用語や車両の形式名を自慢気に羅列したり、評論家ぶったりするなど)がほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在する。

処女作『時刻表2万キロ』で、「鉄道に乗る」ということを趣味として確立させ、第2作の『最長片道切符の旅』では「最長片道切符」を世に知らしめることとなった。これらの作品によって「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる人物はその後誰もいない、とも言われている)。

さらに晩年に刊行した『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(全10巻、1995年 - 2003年、JTB)では、これまでほとんど注目されていなかった鉄道趣味に「廃線跡探訪」という新たな1ページを築くなど、鉄道趣味の歴史において大きな役割を果たした事でも知られる。


年譜
1926年(大正15年)12月9日 埼玉県川越市で7人兄弟の末子(三男)として生まれる。宮脇家の男子の名は、「英雄俊傑」に「一二三四」を順に組み合わせた名前であった(長男英一、次男雄二は若くして病死。俊三が最後の子であり、「傑四」は誕生しなかった)。
宮脇家は元々香川県が本籍であり、父長吉も香川県から代議士に選出されている。俊三は幼い頃からの鉄道好きで、父が選挙区入りする際の一行の切符の手配なども、全て俊三少年が行っていたという。俊三の鉄道好きは戦中でも変わることがなく、1942年(昭和17年)に開通した関門トンネルを通ってみたいが故に、戦時下にも関わらず列車に乗って旅行に行ったほどである。
父長吉の陸軍予備役編入と共に、埼玉県川越町(現・川越市)から東京市渋谷町(現・東京都渋谷区)にあった皇族の梨本宮邸付近に一家で移住する。子供時代の遊び場は、梨本宮邸の裏に当たる山手線の線路沿いにあった空き地と、東京市電(現・東京都電)青山車庫だった。
旧制青山師範附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の1945年、東京帝国大学理学部地質学科に入学。同年8月15日、米坂線今泉駅前で玉音放送を聞き敗戦を知る。戦後の混乱期に大学に戻ったものの、地質学科での現地調査で「ブヨ」に悩まされたこと、本来地図や時刻表が好きだったこと、ちょうどその頃文学の方面に興味が移っていたこと、などの理由から転部しようと決意。ところが当時は理科から文科へ転科できなかったので、東大の文学部西洋史学科を再受験し合格した。青年期の彼を知るには『私の途中下車人生』(話し手:宮脇俊三。講談社 1986年10月9日刊 なお同書は文庫化されていない)が最も詳しい。
1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業(途中で理学部から文学部へ転部)。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長、『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」など出版史に残る企画にたずさわり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。
「世界の歴史」シリーズでは専門的過ぎて分かりづらい学者の文章は衝き返して再度執筆させた。東洋史学者宮崎市定に『科挙』『大唐帝国』執筆を依頼し、一般読書人に宮崎の名を知らしめてもいる。宮崎は名文で知られており、世界の歴史シリーズでも間然するところの無い文章を執筆したため、宮脇も衝き返さず、そのままとした。
1977年(昭和52年)5月28日 国鉄足尾線を最後に国鉄全線を完乗。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1978年(昭和53年)7月10日 国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビュー。
1978年(昭和53年)12月12日 『時刻表2万キロ』で第5回日本ノンフィクション賞受賞。
1981年(昭和56年) 『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞受賞。
1985年(昭和60年) 短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞受賞。この『殺意の風景』は同年上半期の直木賞候補にもなっている。このうち、第12話「石油コンビナートの巻」がのちに火曜サスペンス劇場「弁護士・高林鮎子 寝台特急あさかぜ4号殺人風景」」(1986年。主演、眞野あずさ)として、また第14話「砂丘の巻」がテレビ東京系月曜女のサスペンス傑作推理受賞作シリーズ「殺意の風景・砂色の迷宮」(1989年。主演、石野真子)としてドラマ化された。
1992年(平成4年) 『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞受賞。
1999年(平成11年) 第47回菊池寛賞受賞。気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。この頃、家族には「宮脇俊三も、もう終わりだな」と漏らしていたという。
2003年(平成15年)2月26日 東京都内の病院で没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。
死去の報道は葬儀が済む3月になるまで差し控えられた。宮脇の死が発表されると世田谷区の自宅に多くのファンが詰め掛け、自宅周辺はちょっとした混乱状態になった。晩年は執筆の依頼はすべて断っていた。雑誌「高原文庫」から依頼された親友の北杜夫に関するエッセイだけは例外として引き受けたが、既に病床にあった宮脇は完成させることができず、それが遺稿となった。


エピソード
公私共に縁の深い北杜夫の『マンボウ交遊録』によれば、編集者時代の宮脇は本にした時の見栄えまで考え、改ページや字数を考慮した上で北に文章を直すよう求めたという。自分が作家になってからも文章を読めば分かるように、創作に関しては非常にストイックな姿勢を貫いていた。しかし素の宮脇本人は大酒豪で、しかも変わった冗談や言動の多い人物だったという(これは同じく北と親交の深かった星新一と共通する点である)。なお北が1966年に刊行したエッセイ集『どくとるマンボウ途中下車』の中に、「鉄道ファンの編集者に開通直後の東海道新幹線に乗ろうと誘われて付き合った」という趣旨のものがあるが、この編集者はもちろん宮脇のこと。このように宮脇は現役時、公私ともに「中公に宮脇あり」(宮脇灯子『父・宮脇俊三への旅』)として知られていた。
娘の宮脇灯子『父・宮脇俊三への旅』には、59歳の時に真夜中にファミコンの「スーパーマリオブラザーズ2」に熱中するなど、家族にしか見せなかった俊三の一面が描かれている。なお、灯子によれば俊三は子供の教育には一切口を出さなかったという。
宮脇は生涯渋谷育ちを自認し、編集者には著者紹介欄に「川越で生まれ、渋谷で育つ」という一文挿入を希望した。
小学生の頃(1933~5年ごろ)、渋谷駅に佇む生前の忠犬ハチ公の姿を見ており、『時刻表昭和史』や『昭和八年 澁谷驛』にもそのことが触れられている。この話は林順信の「玉電が走った街 今昔」での対談にも出ている。
一番遠くへ来たと感じたのは、小2の時に母と熱海へ行った時だとされた。
青年期の思い出で一番印象に残っていることは米坂線今泉駅で父と玉音放送を聴いたときで、旅行では昭和19年3月に関門トンネルへ向かった時であったとしている。
鉄道の次に好きな乗り物は路線バスであり、飛行機はその逆で乗るたびに早く着陸して欲しいという気になったという。ちなみに存命中に開通していたJRの路線のうち、乗らずに終わった唯一の路線が宮崎空港線だった。
お気に入りの路線は宗谷本線・根室本線・山陰本線で、車窓は利尻島が見える宗谷本線の抜海駅付近や余部橋梁であった。
旅情を感じる駅名として、音威子府駅・信濃追分駅・姨捨駅などを挙げていた。また観光客誘致などを目的とした安易な駅名改名を嘆いていた(沓掛駅、坊中駅など)。
思い入れがある自筆作品はデビュー作の『時刻表2万キロ』と『時刻表昭和史』であった。
時刻表以外でよく読んだ鉄道雑誌は、「鉄道ジャーナル」・「鉄道ダイヤ情報」だったとされる。
一番印象に残っている食べ物は、昭和17年に北海道へ向かった時に列車の食堂車で食べた鮭フライであった。駅弁では小淵沢駅の「元気甲斐」、駅そばでは音威子府駅のものだという。
自動車の運転免許は昭和29年に収得したが、後に更新をしなくて失効した。
女優では原節子、噺家では志ん生が好みであった。
プロ野球はヤクルト(旧、国鉄)スワローズ、力士では神風が好みであった。
東大文学部西洋史学科の後輩にあたる有名人には、歌手の加藤登紀子がいる。
かつての特技はテニスと駅名暗唱で、前者は旧制高等学校中等部の大会で優勝した事があり、後者では東海道本線の全駅名を小学生の時に48秒で言った事があった。
大のモーツァルト好きであった。東大の卒業論文は「モーツァルトよりみた十八世紀の音楽家の社会的地位」であったし、「年刊モーツァルト」という同人誌も編集・発行するほどだった。また、バッハの曲も「神に近い」として好んでいた。
鉄道の車両にあまり興味がなく、文体に嫌味がなく、論戦を好まなかったことから、鉄道ファンの間では「神様」のように親しまれている。一方で当の本人は前述の通り酒好きであり、酒にまつわるトラブルも多い。
酒の勢いで、青函連絡船の寝台船室に乗り合わせた学生に絡んだことがある。
「いい店の探し方」と称してスナックの扉を少し開けて覗いて回ったことがある。
どんなに忙しくても、作家などとの飲み会に出る時間は確保していた。
隣の北杜夫の家で飲んだときに、一緒に自宅の庭に空き缶を放り込んでいた。北家には常にボトルキープがしてあった。
原稿の推敲を徹底して行うときには酒が欠かせなかった。ただし仕事がはかどった訳ではない。
晩年、医者に酒を止められてからも、内緒で紹興酒を購入しては「度数が低いから」と言って飲んでいた。
末期、入院中に見舞いに来た家族に「酒を持って来い」と当り散らしていた。結核の後遺症で片側だけだった肺に転移して「もう助からない」と悟った夫人は、帰宅したときに医者に内緒で酒を与えた。
博学で鉄道だけではなく日本史などにも詳しく著書には鉄道以外の本もある。日本通史の旅は彼のライフワークとなった。
知識があっても知らないふりをして書いている、とされることもある。よって前述の「鉄道の車両にあまり興味がない」というのもはたして事実か、韜晦なのか定かではない。
国内では一人で旅行することを好み、同行者がいると気を使うからよくないとも書いている。ただし例外は沢山ある。特に旅行中でも夜に飲む時は相手が欲しくなるとしている。
車中の男子学生についてはその行動の粗暴さを文中で語り、女子学生については美点を語ることが多い。秋田を旅したときには女子学生の美人度の高さをメモし、「江戸時代の人買いの気分になった」などと書いている。
元重役らしく、タクシーを割と長い距離にわたって駆使するときもある。ただし計画の穴埋めをしようとして失敗することもあった。
国内だけでなく海外の鉄道にも相当乗りに行っている。
ただし前述のように飛行機嫌いのため、飛行機に乗るとすぐに睡眠薬を飲んで寝てしまう。
フィリピン旅行でポン引きをなだめすかして列車に乗りまわったことがある。最後に、乗った席に石を投げ込まれて、怪我をした。
インド旅行では水あたりによる下痢をこらえて列車を乗りまわった。
時刻表好きで国鉄の複雑なダイヤを愛好し、私鉄は国鉄に比べてダイヤが複雑ではないためあまり食指が動かないと言っていた。
巧みな乗り継ぎによる旅行案を考えるのが楽しみであり、うまい案ができたら旅行に出たという。
『線路のない時刻表』では未開通路線の仮想の時刻表を作成したりもしている。
実際は私鉄にも相当乗っている。特に後年は地方の中小私鉄に(創作活動のためでもあったが)好んで乗り、以前に廃止された地方私鉄に乗っておけばよかったと惜しんでいた。もちろん創作する上の発言である可能性もある。私鉄をテーマとした作品には「東京の私鉄七社乗りくらべ」(七社は当時。『終着駅は始発駅』所収)、『時刻表おくのほそ道』などがある。
犬が大の苦手で、時間つぶし等で街をぶらついている時によく犬に吠えかけられ「生きた心地がしなかった」と感想を述べたり、自分の長所を自身で診断し「自分は犬にも弱いし、強いのは酒ぐらいだ」と書いている。実際犬に吠えられた描写は数多い。
国鉄の分割民営化時に雑誌上で東北本線から東武日光線への直通列車の実現を提唱していたが、本人の生前には実現しなかった(2006年3月18日から開始)。
コレクターではないと自称し、初めは切符の収集もしていなかったが、国鉄完乗時の「証拠のために」乗った切符や入場券を集めるようになった。買った時刻表も途中から自宅に集めていた。
『鉄道廃線跡を歩く』最終巻の取材で狩勝峠の旧線を回る予定だったが、直前に病に倒れ、実現せずに終わった。同シリーズ編集担当の大野が遺志を継ぐ形で同所を回り、シリーズの巻頭記事を締めくくっている。同シリーズで最後に回ったのは碓氷峠の信越本線旧線跡である。


長女の宮脇灯子さんの著書を貪る様に読んで作家「宮脇俊三」が晩年、アルコールとの闘いで苦しんでいた事を知った。初めて「時刻表2万キロ」を読んだ時の「体が震える様な感動」は忘れられない。「鉄道ファン」がメジャーになる30年も前の事です。

父・宮脇俊三への旅
宮脇 灯子
グラフ社

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時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1)
宮脇 俊三
河出書房新社

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宮脇俊三が以下の二つの紀行文学を娘さんがインドに行く時、推薦している事も頷けた。
河童が覗いたインド (新潮文庫)
妹尾 河童
新潮社

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深夜特急〈3〉インド・ネパール (新潮文庫)
沢木 耕太郎
新潮社

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