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あいのり 10―恋愛観察バラエティー (10)

2008年05月07日 | 本・雑誌・漫画
あいのり 10―恋愛観察バラエティー (10)

学習研究社

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人の「恋愛」を安全地帯にいて、ハラハラドキドキするのは楽しい。自分だったら、「告白して、断られたらどうしよう・・・」とか思ってしまうのに、それを疑似体験できるからだ。この番組が長続きしているのも、そんな心理が視聴者に働くのかもしれない。
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トイレットペーパー

2008年05月07日 | エッセイ・日記・意見
母方の田舎に子供の頃、行った時、便所は「汲み取り式」で「トイレットペーパー」の様なものは無く、「わら半紙」の様な「落とし紙」で、強烈な臭いと共に、潔癖症の僕にとって、嫌な思い出になっている。

トイレットペーパーがいつ出来たか調べたくなった。



トイレットペーパー(便所紙、Toilet paper)とは、便所で用を足す際に後始末に用いられる紙。普通巻紙(ロール紙)になっているので、トイレットロールとも呼ぶ。


概要
日本ではどれもほぼ一定の大きさであって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によってはロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものとなっている。また、これが個室の入口に設置され、必要分を取ってから個室に入るようになっている場合もある。

各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがある。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられている場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。

日本では、従来はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されていたが、水洗式便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途のために次の条件を満たす必要がある。

肌に触れて不快感がないこと。最近では二枚重ねのものが増えてきている。
強度があること。使用中に崩れてしまうと不快であり、また衛生上望ましくない。
吸水性に優れていること。
水に濡れると繊維がほぐれること。下水処理が行いやすくする必要がある。また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれないようにしなければならない。
安価であること。消耗品であるので、低コストである必要がある。また再生紙がよく使われる。
この他にも使用者の利便性のためにミシン目などが入っていたり、香りがつけられていたり、文字が印刷されている物も作られている。

トイレットペーパーには、一般的な厚紙で芯を作ってある物と、芯が無く最後まで使いきれる物がある。 芯の無い物は特にコアノンロール等と呼ばれ、環境問題や資源問題などの点から注目されている。 こういったロールの場合、中心一杯まで紙を巻いたものが多く、芯ありロール向けホルダーの太い軸では対応できないことが多いが、中心部の穴を芯の太さ程度まで大きくして、通常の芯ありホルダーに装着可能なものもある。


岐阜県の製紙メーカー、河村製紙株式会社は「うせん」というトイレットペーパーの商品名で発売している。

おもに東海地方で見られるが、一部においてこの名称にさまざまな憶測がなされた。

うんこ専用を略しての「うせん」なのか、やわらかな肌触りをイメージしての羽根扇(羽扇/うせん:出典広辞苑)なのか、侃侃諤諤の議論の末、メーカーに問い合わせるまでになった。

その結果「うせん」は岐阜県の長良川の鵜飼船であることが判明。鵜飼の船→「うせん」とのこと。(メーカー談) シンプルながらも一度みたら忘れられない青と黄色のポップなデザインは目撃者の間で人気の的であり、買い置きのペーパーが公衆便所から持ち去られたり、手にとって記念撮影する者までいる。

またこの「うせん」を登場させた創作紙芝居も上演されており、一部のコアな層に熱烈な支持がある。


歴史
トイレットペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。その当時は皇帝用であった。

便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセフ・カエティによってつくられた。カエティの名前はすべての紙に印刷された。

トイレットペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いるか、ぼろ布、かんなくず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。

帝政ロシアでは、部下が皇帝が用いるトイレットペーパーに皇帝の刻印を押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所担当の廷臣がいた。安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎日二人っきりになる好機であるので、影響力を得たいために部下にこの仕事は望まれた。


サイズ
ペーパーホルダーの制約があるので、トイレットペーパーのサイズは標準化されていることが多い。

日本、アメリカでは、114 mm幅が主流である。この半端な数値は4インチ1/2に由来する。日本ではJISで114 mm幅に定められている。芯の内径は38 mm(1インチ1/2)が主流である。

ヨーロッパではメートル法に基づき100 mm幅が主流である。

日本では、長さは60 m(2枚重ねでは30 m)前後が多い。ロールの状態では直径110 mm前後になる。JISでは、直径120 mm以下と定められている。


潔癖症の僕であるが、ウォシュレットはダメである。何故か・・・
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「テレビ」とは?

2008年05月07日 | テレビ
テレビとは、「テレビジョン」の略語であり、一般には次のような文脈で用いられる。

テレビジョン:放送あるいは通信や遠隔監視に使用される、遠方へ映像を送る技術。
テレビジョン放送:主として動画を電波を使って、不特定多数のために放送する仕組み。通常は動画に加えて音声、あるいはデータ等の付加情報を送ることができる。
テレビジョン放送で送られる番組(プログラム)。
テレビジョン放送を視聴するための受信機。
「テレビジョン」はフランス語の télévision (テレヴィジョン) に由来し、“TV”と略されることも多い。なお、tele- (τηλε) はギリシア語の「遠く離れた」、"vision" はラテン語で「視界」の意味である。


テレビの歴史
1877年 - イギリスのソーヤー、機械走査概念の提案。
1884年 - ドイツのポール・ニプコー、「ニプコー円板」の発明。
1897年 - ドイツのフェルディナント・ブラウン、「ブラウン管」の発明。
1908年 - イギリスのスウィントン、電子式走査法の概念を科学雑誌Natureに発表。陰極線管テレビジョンを示唆。
1911年 - ロシアのボリス・ロージング、ブラウン管を用いたテレビの送信実験を初めて公開。簡単な輪郭の受像に成功。
1925年 - イギリスのベアード、機械式テレビの開発。
1926年(昭和元年)12月25日 - 浜松高等工業学校の高柳健次郎、機械・電子折衷式テレビの開発。「イ」の字を表示させる。
この時期、テレビの本放送へ向けて各国で改良が活発となる。
ちなみにこの日、大正天皇崩御の為、日本のテレビの歴史は昭和から進歩したことになる。
1927年 - アメリカのフィロ・ファーンズワース、世界初の電子映像撮影成功。世界初の全電子式テレビ発明。
1929年 - イギリスのBBCがTV実験放送開始。
1933年 - アメリカのウラジミール・ツヴォルキンがアイコノスコープを発明。
1935年 - ドイツで世界初の定期試験放送開始。ベルリンオリンピックの中継が行われる。
1939年(昭和14年)5月13日 - NHK技研による公開実験。
1940年4月13日 - 日本初のテレビドラマ「夕餉前」の実験放送。
同年予定されていた東京オリンピックの中継が予定されていたが、オリンピックは中止となる。以後戦時下で民生用研究は中断したが、兵器への応用研究は継続される。
1953年(昭和28年)2月1日 - NHKのテレビ放送開始(日本での地上波テレビ放送の開始)。
1953年(昭和28年)8月28日 - NTV 日本テレビ放送網、テレビ放送開始(民放での初のテレビ放送の開始)。また、テレビ画面が裏側に映る放送事故が発生した。
主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。
しかし、テレビ受像機の価格が非常に高価(20万~30万円程度。白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度)で一般には買えないため、繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビや、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビを見ていたらしい。
1954年(昭和29年)1月23日 - アメリカNBCが、NTSC方式によるカラー本放送開始。
1955年(昭和30年)4月1日 - ラジオ東京(KRT・KRテレビ、現:東京放送=TBSテレビジョン)がテレビ放送開始。
1956年(昭和31年)12月 - NHKのカラーテレビ実験放送開始(UHF帯を使用)

1958年の14インチTVセット1957年(昭和32年)11月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)設立
日本では教育分野へのテレビ利用が検討され始め、教育局、準教育局として開設される局が多くなる。
1957年(昭和32年)11月18日 - 富士テレビジョン(開局前の1958年12月にフジテレビジョンに改称)設立。
1957年(昭和32年)12月28日 - NHK東京、日本テレビがカラー試験放送開始(通常テレビのVHF帯)
1958年12月23日 - 東京タワーから放送開始。
1959年(昭和34年)2月1日 - 日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)開局
日本では教育分野へのテレビ利用が検討され始め、教育局、準教育局として開設される局が多くなる。
1959年(昭和34年)3月1日 - フジテレビ(略称:CX)開局
前年1958年からこの年にかけて多くの局が開設され、4月10日の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚の中継をきっかけにテレビ受像機が一般に普及し始める。同時期に、JNNを始めとするニュースネットワークが結成される。
この頃より、東映以外の映画会社が、テレビへの作品販売や所属俳優の出演を拒否したため、代替としてホームドラマや西部劇などのアメリカ製テレビ映画が大量に日本に輸入されることになり、各局の番組の主力として1970年頃まで続く。作品によっては高い人気を得たものもあった。
1960年(昭和35年)9月10日 -カラー本放送開始(NHK=東京、大阪の総合、教育両テレビ、日本テレビ、TBS、読売テレビ、朝日放送)。日立製作所、国産カラーテレビを発売。キャッチコピーは「色は日立のお家芸」
1964年(昭和39年)4月12日 - 財団法人日本科学技術振興財団テレビ局開局。(通称:東京12チャンネル、別名:科学テレビ、略称:TX、後に東京12チャンネルを経てテレビ東京)
1968年(昭和43年)2月20日 - 日本初のUHF局としてNHK徳島教育テレビジョン運用開始。
1968年(昭和43年)5月5日 - 琉球放送・沖縄テレビがカラー放送開始。
1968年(昭和43年)8月12日 - 日本初の独立UHF局としてGBS 岐阜放送がテレビ放送開始。
1968年(昭和43年)10月1日 - 福島テレビのカラー放送開始により民放テレビ先発局のカラー化が完了。それ以降に開局する民放テレビ局は開局当初からカラー放送を開始することになる。
1970年(昭和45年) - NHK、東京と大阪でNHK UHFテレビ実験局(UHFテレビ放送の試験運用)を開始。(1975年(昭和50年)4月まで)
1973年(昭和48年)11月1日 - NETテレビ(日本教育テレビ。後のテレビ朝日。)と東京12チャンネル(後のテレビ東京)が総合テレビ局化。
1978年(昭和53年)9月28日 - 日本テレビが世界初の音声多重実用化試験放送を開始(その後、NHK、読売テレビ、他の在京民放等が続き、後にNHKは1986年までに全国へ 民放は北海道の一部地域を除いて全国へ拡大。なお、民放各局でもこれまでアナログ放送で行われていなかった北海道の一部地域(札幌圏以外の残りの地域)でも2007年10月1日以降の地上デジタル放送の中継局開設によりNHKだけでなく、地上デジタル放送のみだが、民放各局でも音声多重放送が受信可能となった。)。
1984年(昭和59年)5月12日 - NHKが衛星放送(BS)の試験放送を開始。1989年(平成元年)6月1日から本放送を開始。
1990年(平成2年)11月30日 - 日本初の民間衛星放送局・日本衛星放送(JSB・WOWOW)が試験放送を開始。翌年4月1日より有料の本放送を開始。
1991年(平成3年)11月25日 - BSアナログハイビジョン試験放送開始。
2000年(平成12年)12月1日 - 午前11:00 - BSデジタル放送が放送を開始。
2003年(平成15年)12月1日 - 午前11:00 - 東京、名古屋、大阪を中心に地上デジタル放送を開始。
2006年(平成18年)4月1日 - 午前11:00 - 東京、名古屋、大阪を中心に移動体受信機向けの地上デジタル放送、通称「ワンセグ」開始。
2007年(平成19年)10月1日 - BSアナログハイビジョン放送終了。


「テレビ」という言葉が「フランス語」から来ている事に驚き・・・
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春画が好きな人と出会った。

2008年05月07日 | エッセイ・日記・意見
「春画」が好きで、ロリコンで巨乳好き・・・そんな人と出会った。ほとんど、僕と被っている。嬉しかった。

春画(しゅんが)とは、江戸時代に流行した性風俗(特に異性間・同性間の性交場面)を描いた浮世絵の一種。笑い絵や枕絵、枕草紙、秘画、ワ印とも呼ばれる。また、それほど露骨な描写でない絵は危絵(あぶなえ)とも呼ばれた。

その描写は必ずしも写実的でなく、性器が大きく描かれることが多い。


歴史
春画の始まりは中国の医学書とともに伝えられた房中術の解説図だと思われる。日本では平安時代初期から偃息図(えんそくず、おそくず)、またはおそくずの絵と呼ばれる性的題材を描いた絵画があったとされているが(『古今著聞集』など)、もともと「偃息図」という言葉自体が中国からきたものである。 それが庶民に、室町時代から江戸時代にかけて広がり、絵師たちによって描かれるようになった。災難よけの一種のお守りとして使われるようになったり、特に枕絵の絵巻は花嫁の性教育のテキストとして使われた。ただ、この時代は肉筆のため一部の上流階級のためのものであった。

桃山時代、明から春宮秘戯図が伝来し出版された。それに影響され日本でさかんに春画が描かれるようになった。 初期の絵師としては菱川師宣が代表的であり、彼の作品の大半が春画である。 また、井原西鶴の浮世草子、好色一代男が大流行し、好色物と呼ばれるジャンルが流行る。それにより、春画の需要が増える。

しかし享保7年(1722年)享保の改革により好色本が禁止される。それでも需要があるためこれより非公開で販売されることとなる。そして、錦絵の開発により、多色刷りの春画が寛政のころから本格的に登場しだした。

江戸幕府の規定を守る必要がない春画は、通常では出版できない極彩色の作品が作られた。そのため、浮世絵の最高の技術が使われているものは春画とも言われている。有名な絵師のほとんどがこれを手がけ、狩野派・土佐派の絵師達までもが描いた。

ただ、幕府による取締りの対策として、作者、絵師、版元を分からないよう画中に隠号という形で記した。

明治に入り、次第に写真に取って代わられるようになった。改定律令違式罪目中に、春画およびその類の諸器物を販売する者を笞罪に処し、また没収を付加した。

現代においては、芸術作品(エロティカ)として社会的に高く評価されており、猥褻出版物としての扱いは受けていない。

幕末におきたジャポニズムによって、西洋では浮世絵がもてはやされたが、春画は画題が猥褻であるとの理由から嫌われ、輸出には供されなかった。しかし、次第に外国人好みの美人画が不足していったことから、明治末期から大正にかけて局部を書き換えた春画や、複数の春画を切り張りして一枚の美人画に仕立て上げたものを輸出するようになっていった。こうして作られた美人画は現在も多数流通しており、真贋をめぐって裁判沙汰になったケースもある。


彼は「吹石一恵」が好きだそうだ。
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551蓬莱の豚まんを食べられない関東の人の為に・・・

2008年05月07日 | 料理・飲み物・食べ物
15年近く前、大阪ロケで、三田佳子さんに差し入れしたら、「こんな美味しいものがあったの!!!!!」と言われ、ビックリした。「夜のヒットスタジオ」の司会をされていた芳村真理さんが大阪のチェーン店の焼肉屋にいたく感動されていたが、僕はそれが゛不思議でしょうがなかった。もっと美味い店、いっぱいあるのに・・・

東京で「551の豚まん」を手に入れたい人は→http://www.551horai.co.jp/tuusinn/iiaeii.html

なんで、東京の食べ物は値段が高く、その割に不味いんだろう。今日、実感させられた。
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