出版社/著者からの内容紹介
きっと、心が笑いだす──。飢饉がつづいた江戸時代、全国を旅しながら、願いをこめて、まあるく、ほほ笑んだ仏像をほりつづけた木喰上人を描く、はじめての絵本(小学校高学年から)。木喰の旅の足跡を知る地図、年表つき!
木喰(もくじき 1718年(享保3年)- 1810年(文化7年)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。
日本全国におびただしい数の遺品が残る、いわゆる「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。木喰の作品は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した円空がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。
木喰の再発見
木喰の存在は、本人の没後1世紀以上の間、完全に忘れ去られていた。木喰を再発見したのは、美術史家で民芸運動の推進者であった柳宗悦(やなぎむねよし、1889年 - 1961年)であった。柳は1923年(大正12年)、山梨県甲府市郊外の池田村の村長をしていた小宮山清三という人物の自宅を訪れ、小宮山家所蔵の朝鮮陶磁器の調査をしていた際、偶然、同家所蔵の木喰仏を見出した。当時は、木喰仏の美術的価値はおろか、木喰という人物自体についても全く知られていなかったが、柳はその芸術性の高さに打たれ、以後、木喰仏の調査研究のため、全国を奔走することになる。それまで無名の存在であった木喰の伝記が明らかになり、日本各地から多くの遺品が発見されたのは、柳の功績によるところが大である。
生涯
木喰は1718年(享保3年)、甲斐国の丸畑(現在の山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑)という寒村に生まれた。本姓を伊藤といい、父は六兵衛、次男として生まれる。彼の生涯については、自身の残した記録や、各地に残した仏像の銘などから、かなり詳細にたどることができる。1731年(享保16年)、14歳(数え年、以下同)の時、家人には「畑仕事に行く」と言い残して出奔(家出)、江戸に向かった。その後、青年期のことはあまり詳しくわかっていないが、1739年(元文4年)、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家している。「木喰」と名乗るようになるのはそれから20年以上を経た1762年(宝暦12年)、彼はすでに45歳になっていた。この年、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた。「戒」とは仏教者として守るべき規律のことであり、「木食」とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち、山菜や生の木の実しか口にしないという、厳しい戒律である。古来、木食上人と呼ばれた人物は他にも複数おり、豊臣秀吉に重用され、高野山の復興に尽力した木食応其(もくじきおうご)上人は中でもよく知られているが、木喰仏の作者である木喰上人の場合は、「口へん」の「喰」の字を使用する点で他の「木食上人」と区別しやすい。当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めている。
木喰が回国修行(日本全国を旅して修行する)に旅立つのは、木食戒を受けてからさらに10年以上を経た1773年(安永2年)、56歳の時である。以後、彼の足跡は、北は北海道の有珠山の麓から、南は鹿児島県まで、文字通り日本全国にわたっており、各地に仏像を残している。確認できる最初期の仏像は1778年(安永7年)、61歳の時、蝦夷地(北海道南部)で制作したものである。つまり、仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できる。この間、佐渡島に4年間、日向(宮崎県)に7年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。木喰仏と言えば、特有の微笑を浮かべた仏像が多いが、蝦夷地で制作した初期の作品では、まだ作風もぎこちなく、表情も沈うつなものが多い。
故郷の甲斐国丸畑には60歳、68歳、83歳の3度帰っている。83歳の1800年(寛政13年)の帰郷は、念願であった回国(日本一周)を果たした後であった。木喰は、故郷丸畑に「四国堂」という堂を建て、四国八十八箇所霊場にちなんで88体の仏像を制作し、安置した。四国堂は大正時代に解体され、安置されていた木喰仏も四散した。1913年に柳宗悦が見た木喰仏も四国堂の旧仏であった。
木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出、91歳の1808年(文化5年)まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。91歳の時、甲斐国(甲府市金手(かねんて)町)の教安寺に仏像を残してから、木喰は消息を絶った。故郷の遺族にもたらされた記録によれば、1810年(文化7年)、93歳でこの世を去ったことになっている。最期の地は、木喰戎を受けた水戸の羅漢寺ではなかったかと言われているが、確証はない。木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して「木喰の里微笑館」という博物館が建てられている。
代表作品
五智如来(1800年)(山梨県身延町・永寿庵)
地蔵菩薩(1801年)(日本民藝館蔵)
七仏薬師、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・毘沙門堂蔵)
勢至菩薩・聖観音、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・天乳寺蔵)
十王尊・白鬼・葬頭河婆、自刻像、立木子安観音(1807年)(兵庫県猪名川町・東光寺蔵)
最近、ゆっくり仏像を見て回りたくなってきた。ほほ笑んだ仏像・・・見たい。