山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

明治の元勲 木戸孝允(桂小五郎)実母の実家は周防大島町屋代

2025年03月25日 13時46分06秒 | 明治の元勲木戸孝允実母
明治の元勲、木戸孝允(桂小五郎)の実母の実家は大島郡屋代村北迫(現・周防大島町西屋代北迫)である。

あまり知られていないので郷土史に触れておきましょう。
木戸孝允について多くの書が世にだされているが、彼の実母についてはあまり触れられていない。
これも已む得ない、孝允は十六歳の嘉永元年三月十二日に実母を喪っている。またその時、彼は
和田家より木戸家の養子(天保十一年三月十三日養子縁組)であり、養母、養父がある身でもあった。

木戸孝允の実母は旧姓、猪口(いのくち)と云い、父親は猪口平馬と云う、猪口家は江戸期、代々、
毛利家直臣平岡家の臣であり同僚の臣に、岡原氏、岡本氏、岩本氏、山中氏があり、大島郡和佐と
屋代村北迫(都合四百九十四石)の給領地の管理をする陪臣家でもあった。

平岡家はこのブログで頻繁に現れる、伊豫河野家重臣であった平岡房実家のことであり、伊豫河野家が
豊臣秀吉により断絶止む無きに至った折に毛利・小早川家を頼り、屋代島和佐に領地を与えられ後に
屋代村北迫に加増された家であるので、これら四家の陪臣たちも伊予の平岡領より移住してきたと
されます。

猪口平馬には一人娘の「清子」しかいませんでしたので、同臣の岡原家より岡原宗右衛門を養子に迎え
家を継がせました。木戸孝允文書に、清子の条に「宗右衛門義姉」と説明があるのはそのためです。
もちろん、猪口家も岡原家も現在空き家ですが家は残っています。

猪口家は江戸期の武家屋敷の風情を残す門構えで、まわりをはがれてはいますが漆喰の土塀で囲まれ
ています。内側に庭に通じる内門が残されおり母屋はありますが、惜しむらくは土蔵は数年前に
取り壊されたとかで、猪口文書等什器備品は失われたとされます。解体した人が全部捨てましたと
云ってましたので残念なことです。
また、この家の造りは解体される前の能島村上海賊の末裔、村上亀之助惟庸家の屋代田屋とよく
似ています。当時の武家屋敷の風情ですね。

猪口平馬の一人娘「清子」は萩の和田正直の後妻として嫁します。
和田正直との間に生まれたのが「小五郎」です。
小五郎が木戸家へ養子へ行き後の元勲、木戸孝允となります。

現在、猪口平馬より以前の系図が見当たらないのでたぶん子孫の方が御持ちではないかと
探してします。
養子の岡原宗右衛門家も通字が「義」なので元々は一門かもしれない。

なお、旧東和町の人達は木戸孝允実母は当町民としますが、間違いではありません。
かって屋代村に引っ越すまえは和佐に居住していましたから。

また、地元の伝承に屋代の猪口家は和佐の猪口家の株を買った別家とする話がまことしやかに
流れていますが、これは猪口家の男子無きにより岡原家から養子を迎えてことを武士株を買い
家を買うとする徳川家家臣団の中で行われた株売買と混同しているものと思います。毛利の家臣は
陪臣を含めてい家臣の地位の売買はありません。家系を守るために養子を迎えるのは今でも
普通です。これを家の売買とは言いません。

【猪口平馬以降系図】

 ① 猪口 平馬

 ↓
  娘)猪口 清子(萩・和田正直「毛利元成七男に出づ」に嫁す:木戸孝允実母)

 ↓
 ② 猪口 宗右衛門(屋代村・岡原鶴松長子養子)   「家は近所」

 ↓
 ③ 猪口 義助

 ↓
 ④ 猪口 義胤

 ↓
 ⑤ 猪口 義雄

 ↓
 ⑥ 猪口 義道

 ↓
  以後不詳

 猪口家の手がかりはないものでしょうかね?安下庄の娘さん見てませんかね?

 木戸孝允




「ウイキ」木戸孝允

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 

  

河野流島岡略系図

2025年03月22日 13時03分52秒 | 伊予河野家再興
広島の河野家子孫の瀬戸様より「河野流島岡系図」を頂戴した。
古書なのでまで全文を掌握したわけではありませんが取り敢えず人名の流れだけ
紹介しましょう。

島岡初代前は一人を除いて他の河野系図に出てくる人たちばかりですので信頼性
は高いと思われます。人名の順序は異なるケースはありますが他系図が正確か否か
の検証ができていませんので何とも言えませんが、付属情報の検証で正誤が分って
来るかと思います。人名の説明情報は初見が多いので「新発見の河野系図」となる
可能性があります。一部は小生の書き込みで説明していますので原文そのものでは
ありませんので悪しからず。以後付属情報は解読しだいUPしていきましょう。

【河野流島岡略系図】

初代     
孝霊天皇
(BC342~BC215)

二代目
伊予王子
和介姫

三代目
小千御子

四代目
以小千為姓
大(天)狭貫

五代目
三島祭神仕祭政
大(天)狭介

六代目
粟鹿(阿波鹿)

七代目
(三岡)
(大小市)三並

八代目
(久味部)熊武

九代目
伊但馬

十代目
喜多守

十一代目
高縄

十二代目
高箕

十三代目
三囘田

十四代目
【初見】
門命大達

十五代目
勝海

十六代目
久米丸

十七代目
百里

十八代目
百男

十九代目
武男

二十代目
緒飽

二十一代目
万躬

二十二代目
越智益躬
推古2年(593)
三島八社創建

二十三代目
【島岡ではない】
663年
天智天皇御宇遣新羅
三年後帰朝
越智守興

二十四代目
越智有興

二十五代目
【島岡ではない】
伊予大領
越智玉興
716年
元正天皇霊亀二年
依勅建立三島社

二十六代目
【島岡ではない】
宇摩大領
越智玉澄
実玉興弟
居於予州河野邑
712年
和同5年則之内村
三島社に2神合祀
728年
聖務天皇神亀五年
奉勅建立安養寺
今之石手寺是也

二十七代目
周敷郡司
越智益男

二十八代目
西条御館(領)
越智真(実)勝

二十九代目
【島岡ではない】
越智元家
越智元家女娶
大伴武虎

三十代目
【島岡ではない】
越智家時

三十一代目
浮穴四郎太夫
越智為時

三十二代目
浮穴新太夫
越智時高

三十三代目
【島岡ではない】
樹下押領司(使)
越智興(息)利

三十四代目
朱雀院之御宇
越智郡押領司
越智好方
純友の乱平定

三十五代目
野間押領司
越智好峰

三十六代目
風早大領
越智安国

三十七代目
風早太夫
越智為綱

三十八代目
北条太夫
越智親孝
甲成氏長者

三十九代目
【島岡ではない】
河野家正統系図【河野姓初代】
源頼義へ服従1063年
北条新太夫
河野親経
イ・河野親晴

源頼義(988~1075)
八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光
他に、子、河野親清(説・ウイキ)
新羅三郎義光は武田・松前祖

四十代目
源頼義庶子養子1064年
北条新太夫
┬ 河野親清 【河野宗家に続く】
│ 改通明三郎太郎
│ 通字「通」初

├ 河野盛孝(遠藤・瀧口・山野井・浅海祖)

├ 河野康孝(北条・正岡・島岡祖)


四十一代目
島岡大夫経兼
保元丙子時合戦属新院仕
為壱岐守

四十二代目
島岡頼房 丹後守

四十三代目
島岡弘経

四十四代目
島岡経純

四十五代目
島岡盛経 兵部少輔

四十六代目
島岡盛詮 備後権守

四十七代目
島岡経秀 備前守

四十八代目
島岡経岡 備後守

四十九代目
島岡左衛門尉経長 

五十代目
島岡経友 備後守

五十二代目
島岡経義

五十三代目
島岡太郎左衛門尉経安
備後守

五十四代目
島岡経澄

五十五代目
島岡経種 丹後守
経澄無嗣故賜其跡住
幸門城へ行、正岡正親出家譚
正實 河野□通 弟

五十六代目
島岡経政 備後守
天正十三年河野没落而後
越智郡竜岡邑蟄居居
□□云日足利昭王丸 通宣孫也
寛永元年五月朔日九十六歳卒去

注)足利照王丸は河野家棟梁通宣の娘・章子が将軍足利義昭との間に産んだ
  子供の幼名と同じであるが、卒年が違う。正岡系図等が語る話とニヤミス
  をしているが島岡経種が跡取りがいないのでと幸門城の正岡家に行き養子と
  して貰う話と関係してくるのかも知れない。ただ通宣の孫とする別の河野系図
  も存在するので別人かもしれない。これ以降の系図が破り捨てられているのが
  なにか意味をしているのかもしれない。謎の人物でもある。

五十七代目以降,故意か過失か破却されている。

メキシコ紀行 5

2025年03月13日 07時08分14秒 | 旅紀行
今日も朝から爽やかな天気である。
日本はまだまだ寒い季節であるが、こちらが暖かいし、昼は暑くなる。
メキシコ最終日となるのでガツガツと何でもみてやろう!(笑)

今日のメインはグアナファト市内とサンミゲル・デ・アジェンデである。
グアナファトはスペイン統治時代に発見された銀山の採鉱地である。
現在、三つの坑口があるが二つは閉められていて、残る一つが採掘を続けていると云う。
採掘された銀の多くは日本に輸出されているとされます。日本では銀製品として売るの
ではなく工業部材に組み込まれているらしい。日本の佐渡金山、生野銀山は世界有数の
生産地であったがタダ同然の為替レートで欧州に流れていった。
まさに黄金の国ジパングが出現していたのである。これらの多くは各国の教会の
装飾品として現在も輝いている。
グアナファト銀も殆どがスペインに流れていった。

前置きはさておき、

朝食を早々ととって夜には帰国便に乗るので、荷物をトランクに詰める。
近頃は土産は買わなくなったのでトランクの余裕はあるが、メキシコの友人がテキーラを
四本、「帰ったら飲んでと呉れ」頂いたで割れない位置に置くのが少し手間どった。

日本は別にして海外の空港の荷扱いは乱暴で、ケースごと毀されることは珍しくない。
酒が割れたら中身はすべてパーの上に匂いが酷い。
液体はアメリカの貿易センタービルの破壊以降「液体爆弾」防止のため機内持ち込みが
禁止になったので面倒である。なんとかケースに収めた。

専用小型バスに乗る。中世の街であるので大型バスは入れない。
まずはグラファント歴史地区散策となる。主な所は、ユニオンガーデン、ファレスト劇場、
ラパス広場、イダルゴマーケット等である。

バスはある広場の前で停車して客を降ろす。

目の前にメキシコ独立戦争で戦った時の銃弾跡が数多く残る建物前であった。
グラファトは山に囲まれた狭い「坂の街」である。
ほんの僅かな平地に教会を中心に市場た市民センターがあり、四方の山の坂に民家が
ひしめき合っている。道は中世のままなのでとても狭い。
かって銀鉱石のガラ(廃棄石)を捨てた所が、今は地下道となって多くの車は行きかって
いた。車を地下で降りて地上に上がる珍しい都市でもある。
銀鉱山がなせる業なのでしょう。

朝は早かったのでマーケットの殆どは開店前の支度で開いている店は少なかった。
開いているマーケットをひやかしながらめぐるのは面白いのだが。食堂も同様であった。
店の娘(?)さんたちが手招きしているの数が少なかった。先日のNHKの「世界町歩き」
ではとても賑やかな光景であったが、時間が早すぎた。

時間が早くて幸いしたのは「恋人の坂」はまだ我々以外の観光客はいなくて全景を見ること
ができた。この坂道は幅80CM程度の路地である。言い伝えによれば左の家は大金持ちの
家で右の家は貧しい鉱夫の下宿で、金持ちの娘とこの鉱夫が恋に落ち、狭い路地の窓越しに
キスをしていたのを娘の父親に見つかり、怒った父親は娘を殺してしまったとか。
それ以来命を懸けた「恋人の坂」とされ、現地の恋人や夫婦は勿論、海外からも両側の家に
入り二階のベランダ越しにキスをするのが大流行りだとか。
ここでキスすれば以後30年間愛が継続するとの伝承があり大にぎあいである。

NHKでは多くの男女が順番を待っていたが、今回は朝早いので我々以外いなかったし、
日本人は人前でキスするなど、こっぱずかしいので誰もしない。(笑)

今やこの街は大学生を多く擁し、大きな大学があった。スペイン語では大学をウニベルシダード
と発音する。東京の上智大学は「ウニベルシダード・ソフィア」とされるのと同じである。

底地の市中心部からケーブルカーに乗り、ピピラ丘に上がってくる。
ピピラ丘からグアナファトの全景が見渡せる絶景の場所である。
街全体がパステルカラーである。
パステルカラーは陽の強い坂の多い国によくみられる。地中海全域、中南米の諸国に多く
見られますね。共通するのはラテン系の人達が住む地域ですね。
同じ白人でもアングロサクソンやゲルマン人はパステルカラーは好みませんね。

日本は侘び寂びの国ですから、茶、黒、白、を好みますね。雪や雨の影響があるのでしょう。

中国は赤が好きですね。別にソビエト共産党が赤が基調だったから中国共産党が流布した
訳ではなく、歴史的に赤が好きですね。

東南アジアの仏教系はキラキラ輝く黄金色がすきですね。
色にも宗教や国民性が感じられとても面白いですね。
日本で自宅を青一色や黄色一色で塗ったら、だれも付き合ってくれませんね(笑)

さてグラファトを満喫してのでサンミゲル・デ・アジェンドに向かう。
メヒコシチーから来た道を折り返すので大体景色は同じ。

サンミゲルは中世のメキシコの街なので無粋な高層ビルなどなく、中世そのものでした。
京都や奈良の歴史地区を歩くのと同じおだやかさを感じました。

この街は何故か中南米の観光客と近くの日系企業の日本人が土日に家族で遊びにくる
街だそうでした。中心地の公園で一服していると、突然、マリアッチの演奏が始まりました。
本格的マリアッチ(メキシコ曲演奏)は今回初めてなので慌ててビデオを回し始めました。
日本人のガイドさんによるとマリアッチ演奏は免許制で素人はできないとのこと。
面前のマリアッチは本格的なもので1時間の演奏で30万円以上かかるとのこと。
クライアントは6人程度ですので一人五万円の割り勘かなとせこい計算が頭をよぎりました。
私は今回五万円しか小遣いを持たずにきたのに(´;ω;`)

サンミゲルを後にして車は一路空港へ、これが長い。途中で駅の道風の土産物屋により
みんな残ったペソを使い果たそうと頑張ります。空港売店が高いのは世界共通ですので
通常の民間商店で買い物をするのは最後のチャンスとなりますね。

帰途の途中、或る鉄道の踏切を通過しました。
ガイドさんによるとこの鉄道はメキシコを縦断して南米からUSAまで繋がっているので
貨物列車の屋根に中南米の人達が屋根に鈴なりになりアメリカ合衆国を目指します。
列車が途中駅に停まると地元のメキシコ人が水食糧を与えて援助するとか。
前バイデン大統領は移民政策には寛容でこの人たちの違法移民を日に三万人も受け入れました。
トランプは不法移民が米国の治安を悪化させているとして今回国境警備を強化しましたね。

中南米の圧政を追われてきた人たちだから正規の手続きをしなくても民主党政権は受け入れ
ました。共和党はこれを許しません。

これらについて日本の報道は情緒的ですね。助けを求めている可哀そうな人たちを助けるのは
当たり前であるとの論調です。もし毎日一万人の避難民が日本に押し寄せたらどうなるのでしょう。
かってベトナム難民が多く日本に辿りつきましたが日本政府は第三国へ中継し日本での定住は
許可しませんでした。今も基本方針は変わりません。ただ現在は中国共産党の愛想をつかした
金持ち中国人が日本への移住を加速しています。現在、日本の移住の中国人は90万人を越えました。
その他を含めると150万人となり日本人口の1%を超えています。田舎にも多くの中国人が住むように
なりました。東京の高層マンションの主な買主は中国人でマンション価格を吊り上げている元凶
ですが政府は手を打ちませんね。本当に住居が必要な日本人には手が出せない価格となりました。
事態を重くみた東京都は住民票登録のない(投機不動産)に増税する方向で進んでいます。
投機不動産の山を作った現在の中国の経済低迷は他山の石ですね。

小池都知事に出来るのに総理大臣は何をしているのでしょうと言わざるをえませんね。

さてなんとか空港に辿りついて荷物整理をしてイミグレーション、税関を無事通過して最後の買い物
を物色していたら旅仲間が税関で掴まっているとのこと、助けに行ったら、税関職員がテキーラ
を三本持ち上げている。旅仲間は液体は手荷物で機内に持ち込めないことを知らなかったらしく
「これは私が買ったもの」と主張しているが、如何せん日本語とスペイン語では先に進まない。
手とすればもう一度、ANAのカウンターに戻って別送扱いにすればいがトランクはもう流れている
し現地のスペイン語しか理解しないANAスタッフに説明するのは無駄に等しい。

「もう所有権を放棄して通過させてもらいないさい」と云ったら、泣く泣く通過できた。
サンミゲルの酒屋で3万円程度で土産に買った酒がルールを知らないばかりに没収され可哀そうで
あるが、日本を出る前に基本ルール位、見ておくべきだとおもいました、
今はスマホで情報を手に入れますが、体系的な情報ではないので見落としがちです。

やはりかってのブルーガイドのような体系的の情報本は必用なのでしょうね。
ただこのような本も売れないので絶版や更新があまり行われていません。

今から14時間、偏西風のアゲンストで成田に向います。
寝るためにビールを1本買った。
市中で150円のものが1200円も空港売店でした。
すこしボリ過ぎでないですか! たしかにどの国の空港売店(出国エリア)は高いが精々3倍程度だよ。
成田も高いけど2~3倍程度だから、高い家賃を考えると仕方ないかなと。
ただコンビニは庶民相場だから液体以外は通関する前にコンビニで買うのがコスパとなる。

まどろみながら、機はロス・アンジェルス近くまで北上しそれから左旋回し成田に向います、

おやすみ。アディオス・メヒカーナ!! ビバ・メヒカーナ!!

朝日テレビ「朝サラダ」感想

2025年03月08日 08時46分40秒 | 新談論風発
本日、朝日テレビ放映の「周防大島リゾートホテル」を楽しみに見ました。

岩国錦帯橋から始まり,押し寿司、柳井の甘露醤油、マリッサ、ハワイ移民資料館、ハチミツと
久々にバランスがよい番組でした。

「錦帯橋」は江戸初期に移伝させられた、吉川(きっかわ)公が、城下町の武家屋敷と庶民町を隔てる川に
橋を架けますが何度も流されました。困った殿様は流されない橋を作れと命令しました。

普請奉行は試行錯誤を重ね、長崎の西洋風アーチ石橋が強固であるとのことで石橋ではありませんが木で
アーチ橋を作りました。平たい橋よりとても強くなりました。ただ木造なので20年程度で造り変えが
必用となり現在も作り直しが20年毎に行われています。これは伊勢神宮のすべての神社、橋を20年毎に
再製造するのと同じで、木そのものはもう少し持ちますが、職人の技術が失われるので行われます。
再製造する時の大棟梁(工事総責任者)は20年前の新人(小工)で職人として技術を継承してきた
集団の一人です。新人→中堅→ベテランのサイクルが20年毎となっています。
錦帯橋のこのサイクルを説明する場所は岩国城の下の「岩国藩資料館・徴古館」となりますね。

「岩国の押し寿司」は観光用にいまでは有名ですが、かって周防地区では「ハレ」の時はどこの家でも
作っていましたね。一人用の一合程度を一つづつ作る「押し枡」がどの家にもありました。盆と正月はどの
家も作っていましたね。飲み会の席で吸い物と押し寿司が出ると「もう酒が無いから止めてくれ」との
暗黙のサインでみんな了解して食事して散会していました。今、このサインが分からない人が多く
「酒!もう一本」と騒ぐ無粋な人が増えています(笑)

「柳井甘露醤油」が久々に全国放映されましたね。歴史の全くない「金魚提灯」かと思いましたが
甘露醤油を取り上げた朝日テレビのディレクターは「歴史を紐解いて」ていたのでしょう。
今回は「佐川醤油」が取りあげれられていましたが、確か柳井で甘露醤油を売り物にしていた醤油業者は
三家あったと記憶します。柳井高校の同級生の一人が「俺んちも甘露醤油を作っている」(別家)
と言っていたのを思い出しました。
柳井地区は毛利藩の直轄領ではなく、岩国藩吉川公の領地でしたので、柳井の醤油を「甘露、甘露
(美味しい、とても美味しい)」と絶賛した殿様は吉川公でした。
甘露醤油は「二度仕込み」とされ、通常の醤油が一年で出来るのを二度仕込んで二年かかる代物です。
確かに、甘露と云われるだけに「甘い」です。塩っぽい醤油が主流の時代には柳井の甘露醤油は高級品
だったのでしょう。

当時の江戸の醬油は塩分が多く「塩水に近い」とされました。江戸のファースト・フードの寿司も蕎麦も
当時は相当、塩辛いものだったのでしょう。江戸寿司は現在のミツカン酢が酒作りの事故でできた
「酢」がとてもまろやかで江戸で売ったら大評判となり「江戸前寿司」が評判になりました。
これにはには尾張のミツカン酢が必須となりましたね。
ただ、江戸蕎麦はいまだに真っ黒けでしょっぱいですね。
いりこ出汁をメインとする西日本人には合いません。

しかし、今の甘露醤油はとても高い。昔は一割程度高かっただけだったけど今、三倍から五倍する。
昭和40年代までは田舎土産では柳井名産は「甘露醤油」と「三角(みかど)餅」であったが。
甘露主醤油は握り寿司の「紫」に限定して使用すれば差別化が図れるが取扱説明はない。(´;ω;`)
大島には多くの造り醤油がかってはあり、「丸京醤油」のブランドの開作の星出醤油は有名でしたが
柳井の甘露醤油は高級なので特別な料理の時のみ使用しました。

佐川醤油が頑張っているのは喜ばしい。
佐川と名乗るので江戸初期に柳井に移り住んだ土佐の長曾我部氏の家臣の佐川分家と思われます。
運送屋の「佐川急便」と500年前は同じ一門かと思われます。同じ重臣にダイエー創始者「中内功」
もいますね。更に同郷に「公文式」の公文さんもいますね。歴史的には面白いのです。

「マリッサ」は綺麗に編集されていましたね。
ベランダの「オリーブ」の鉢植えが気になりました。南国風情でオリーブを使用したのか?
日本でオリーブと云えば小豆島が有名ですが、それを日本一有名にし商業化にしたのが
大島郡大島町開作の佐村氏でしたね。氏は当時農事試験場技師として小豆島のオリーブオイルの
商業化に導きました。現在の小豆島が「「オリーブの父・山口県周防大島佐村氏」と顕彰していますので
マリッサ支配人がさりげなく置いてあるのかなと痛み入りました。

熟女のフラダンスも良いですが「周防大島高校の娘たちのフラダンス」を見たかったな~。
まあ「労働基準法」の関係もあるから「いつも」と云う訳に行かないが、土日祝にアルバイト
なら子も親も助かる。熟女は混ぜればもっと良くなるのでは(笑)

そもそもフラダンス(ハワイヤンダンス)はハワイの土着民が踊っていました。
現在も、ハワイに行くと白人が観光用に踊っています。
昔むかしのフラの現地写真をみると現地の人だけです。日本は土人と表現しましたので今は
放送禁止用語です。ただ「土人」とは「現地の土着民」の略ですので軽蔑の意味は含まれて
いませんが戦後何故か蔑視と批判されるようになりましたね。
カルピスの商標が黒い女性がカルピスを飲んでいるのは問題とされ商標変更しましたが、
今からすると変ですね。
フラダンスは部族間の「手話ダンス」ですので、楽しい時、悲しい時、愛を告げる時等に
ダンスを通じて意思表明をしています。ミクロネシア、メラネシアに共通していますね。
インドネシアのバリダンスやタイ、ベトナム、カンボジア、ラオスも同様な意思表現
ダンスをします。面白いものですね。

「ハワイ移民資料館」の紹介がされました。館長の木元君が、痛い足を引き釣りながら一生懸命
説明をしていましたね。周防大島が瀬戸内海の「布哇(ハワイ)」と称される原点ですね。
初回にハワイに行った人の名前と給料は当ブログで個人別に紹介していますので興味あるかたは
見て下さい。真珠湾攻撃時の大島のハワイの人達とその後の強制収容所へ移された人たちも
個人別に紹介を始めています。

「ハチミツ」は三蒲ですね。個人的には存じ上げないが、同所の先日放映された「うどん屋」と
あわせ頑張って貰いたいものです。

私、大島郡の「土人」としては大島の戦前からの伝承を引き継いでもらえればと思います。

マリッサ・支配人様に

①周防大島の「一人押し寿司」を対面で提供して頂ければと、複数の具を用意して選ばす手法も
 よいのでは。地元の海・農産物を素材にして頂ければと。いいもの沢山ありますよ。
 大島瀬戸で取れる「瀬戸貝」が別名「にたり貝」とも称されますが、この貝はとても美味しい。
 大きいものは「食事処 あらかわ」(小松)で提供しています。
 これも提供して頂きたい。ただ大きいの大畠の石神(しかみ)の漁師の独占のようです。
 大きいのは見栄えはしますが味は小物より大味になります。
 小さいものは「混ぜご飯」や「茶碗蒸し」「吸い物」に一つ入れるだけで様替わりです。
 あと、おばけ蟹(扇蟹)もとても美味しいですよ。旧東和町でしか食べられていません。
 これがまた旨いのなんのって。流通量があまりないので喜ばれます。
 ただ季節があります。

②クルーズサービスをしていましたが、マイクロバスで嵩山見物も感動を与えることができます。
 道が悪いので小人数しか案内できないと思いますが、嵩山からの眺めは瀬戸内では最高ですよ。
 天気がよければ、右に大分・国東半島、正面に伊予・大洲、松山、東予、左に瀬戸諸島、江田島
 広島方面が見渡せます。感動のシーンです。三国が豊後・伊予・安芸の三国を見渡せるのは
 ここだけです。道が悪いのは、西連寺の藤本さんと「あらかわ」の荒川氏」と白清寺住職と
 に御願いし県会議長に御願いすれば改善するかもしれません。ただ現在駐車場から、アンテナ
 基地を経て相当あるきますのでハイヒールでは無理ですね。

③余談ながら「周防大島の郷土料理」の味を伝承するのは、瀬戸の「つるや」です。
 この家は元々小松港の前に「鶴屋旅館」として旅館兼食堂で有名な店です。
 今、老夫婦がほそばそとしていますが、何時火が消えるかもしれません。
 できれば「レシピ」を継承して頂きたいと思います。
 この味は外に出かけた「周防大島町民」のソールフードです。
 かっての全盛期の「大観荘」は経営者が地元民ではなかったのでこの味を無視して潰れました。
 間違っても「みかん鍋」のようなでっち上げの鍋に手を出してはいけません。
 マスコミ受けはしますが、みかんは湯がいて食べるものではありません。(笑)
 こんな事書くと「観光協会」が怒るかな。

④最後の高級路線のマリッサに御願い!
 地元民に朝食、昼食、夕食、テータイムの「組数限定」でよいので受け入れて欲しい。
 以前、遠来の客をもてなすためにマリッサに昼食は外来がとれるかと訪問しましたが
 体よく断られました。百人も来られたら困るでしょうど数組くらい予約制で受け入れて
 くれれば、品を落とすことはないと思います。料金はそれなりでかまいません。
 貴社はそれなりに努力しているのかもしれませんがHP上は訴求はないですね。(´;ω;`)

単なる20分程度の周防大島の放映でふと思いついたことを「そこはかとなく」書きました(失礼)

周防大島リゾートホテル

2025年03月08日 07時56分32秒 | 新談論風発
テレビ朝日系列は今日八時から周防大島のリゾートホテルを放映します。
マリッサですね。