明治の元勲、木戸孝允(桂小五郎)の実母の実家は大島郡屋代村北迫(現・周防大島町西屋代北迫)である。
あまり知られていないので郷土史に触れておきましょう。
木戸孝允について多くの書が世にだされているが、彼の実母についてはあまり触れられていない。
これも已む得ない、孝允は十六歳の嘉永元年三月十二日に実母を喪っている。またその時、彼は
和田家より木戸家の養子(天保十一年三月十三日養子縁組)であり、養母、養父がある身でもあった。
木戸孝允の実母は旧姓、猪口(いのくち)と云い、父親は猪口平馬と云う、猪口家は江戸期、代々、
毛利家直臣平岡家の臣であり同僚の臣に、岡原氏、岡本氏、岩本氏、山中氏があり、大島郡和佐と
屋代村北迫(都合四百九十四石)の給領地の管理をする陪臣家でもあった。
平岡家はこのブログで頻繁に現れる、伊豫河野家重臣であった平岡房実家のことであり、伊豫河野家が
豊臣秀吉により断絶止む無きに至った折に毛利・小早川家を頼り、屋代島和佐に領地を与えられ後に
屋代村北迫に加増された家であるので、これら四家の陪臣たちも伊予の平岡領より移住してきたと
されます。
猪口平馬には一人娘の「清子」しかいませんでしたので、同臣の岡原家より岡原宗右衛門を養子に迎え
家を継がせました。木戸孝允文書に、清子の条に「宗右衛門義姉」と説明があるのはそのためです。
もちろん、猪口家も岡原家も現在空き家ですが家は残っています。
猪口家は江戸期の武家屋敷の風情を残す門構えで、まわりをはがれてはいますが漆喰の土塀で囲まれ
ています。内側に庭に通じる内門が残されおり母屋はありますが、惜しむらくは土蔵は数年前に
取り壊されたとかで、猪口文書等什器備品は失われたとされます。解体した人が全部捨てましたと
云ってましたので残念なことです。
また、この家の造りは解体される前の能島村上海賊の末裔、村上亀之助惟庸家の屋代田屋とよく
似ています。当時の武家屋敷の風情ですね。
猪口平馬の一人娘「清子」は萩の和田正直の後妻として嫁します。
和田正直との間に生まれたのが「小五郎」です。
小五郎が木戸家へ養子へ行き後の元勲、木戸孝允となります。
現在、猪口平馬より以前の系図が見当たらないのでたぶん子孫の方が御持ちではないかと
探してします。
養子の岡原宗右衛門家も通字が「義」なので元々は一門かもしれない。
なお、旧東和町の人達は木戸孝允実母は当町民としますが、間違いではありません。
かって屋代村に引っ越すまえは和佐に居住していましたから。
また、地元の伝承に屋代の猪口家は和佐の猪口家の株を買った別家とする話がまことしやかに
流れていますが、これは猪口家の男子無きにより岡原家から養子を迎えてことを武士株を買い
家を買うとする徳川家家臣団の中で行われた株売買と混同しているものと思います。毛利の家臣は
陪臣を含めてい家臣の地位の売買はありません。家系を守るために養子を迎えるのは今でも
普通です。これを家の売買とは言いません。
【猪口平馬以降系図】
① 猪口 平馬
↓
娘)猪口 清子(萩・和田正直「毛利元成七男に出づ」に嫁す:木戸孝允実母)
↓
② 猪口 宗右衛門(屋代村・岡原鶴松長子養子) 「家は近所」
↓
③ 猪口 義助
↓
④ 猪口 義胤
↓
⑤ 猪口 義雄
↓
⑥ 猪口 義道
↓
以後不詳
猪口家の手がかりはないものでしょうかね?安下庄の娘さん見てませんかね?
木戸孝允

「ウイキ」木戸孝允
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
あまり知られていないので郷土史に触れておきましょう。
木戸孝允について多くの書が世にだされているが、彼の実母についてはあまり触れられていない。
これも已む得ない、孝允は十六歳の嘉永元年三月十二日に実母を喪っている。またその時、彼は
和田家より木戸家の養子(天保十一年三月十三日養子縁組)であり、養母、養父がある身でもあった。
木戸孝允の実母は旧姓、猪口(いのくち)と云い、父親は猪口平馬と云う、猪口家は江戸期、代々、
毛利家直臣平岡家の臣であり同僚の臣に、岡原氏、岡本氏、岩本氏、山中氏があり、大島郡和佐と
屋代村北迫(都合四百九十四石)の給領地の管理をする陪臣家でもあった。
平岡家はこのブログで頻繁に現れる、伊豫河野家重臣であった平岡房実家のことであり、伊豫河野家が
豊臣秀吉により断絶止む無きに至った折に毛利・小早川家を頼り、屋代島和佐に領地を与えられ後に
屋代村北迫に加増された家であるので、これら四家の陪臣たちも伊予の平岡領より移住してきたと
されます。
猪口平馬には一人娘の「清子」しかいませんでしたので、同臣の岡原家より岡原宗右衛門を養子に迎え
家を継がせました。木戸孝允文書に、清子の条に「宗右衛門義姉」と説明があるのはそのためです。
もちろん、猪口家も岡原家も現在空き家ですが家は残っています。
猪口家は江戸期の武家屋敷の風情を残す門構えで、まわりをはがれてはいますが漆喰の土塀で囲まれ
ています。内側に庭に通じる内門が残されおり母屋はありますが、惜しむらくは土蔵は数年前に
取り壊されたとかで、猪口文書等什器備品は失われたとされます。解体した人が全部捨てましたと
云ってましたので残念なことです。
また、この家の造りは解体される前の能島村上海賊の末裔、村上亀之助惟庸家の屋代田屋とよく
似ています。当時の武家屋敷の風情ですね。
猪口平馬の一人娘「清子」は萩の和田正直の後妻として嫁します。
和田正直との間に生まれたのが「小五郎」です。
小五郎が木戸家へ養子へ行き後の元勲、木戸孝允となります。
現在、猪口平馬より以前の系図が見当たらないのでたぶん子孫の方が御持ちではないかと
探してします。
養子の岡原宗右衛門家も通字が「義」なので元々は一門かもしれない。
なお、旧東和町の人達は木戸孝允実母は当町民としますが、間違いではありません。
かって屋代村に引っ越すまえは和佐に居住していましたから。
また、地元の伝承に屋代の猪口家は和佐の猪口家の株を買った別家とする話がまことしやかに
流れていますが、これは猪口家の男子無きにより岡原家から養子を迎えてことを武士株を買い
家を買うとする徳川家家臣団の中で行われた株売買と混同しているものと思います。毛利の家臣は
陪臣を含めてい家臣の地位の売買はありません。家系を守るために養子を迎えるのは今でも
普通です。これを家の売買とは言いません。
【猪口平馬以降系図】
① 猪口 平馬
↓
娘)猪口 清子(萩・和田正直「毛利元成七男に出づ」に嫁す:木戸孝允実母)
↓
② 猪口 宗右衛門(屋代村・岡原鶴松長子養子) 「家は近所」
↓
③ 猪口 義助
↓
④ 猪口 義胤
↓
⑤ 猪口 義雄
↓
⑥ 猪口 義道
↓
以後不詳
猪口家の手がかりはないものでしょうかね?安下庄の娘さん見てませんかね?
木戸孝允

「ウイキ」木戸孝允
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81