山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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通字の紛乱 投稿者:勝山真人

2022年07月24日 10時49分04秒 | 屋代島友澤家
ご教示ありがとうございます。

 まず、私は石﨑・友澤の遠い先祖が中村姓だったということは特段疑っておりません。ただその遠祖が北畠顕家や伊達朝宗だったということにはやはり疑問を感じております。

 石﨑総系譜は複数の家々の系図や過去帳を元に作成されたものですから、虚実ない交ぜという側面もありますし、混乱している部分もあります。私が見ても明らかに年代が一致しないと思える部分があります。

 遠祖と思われる中村弾正忠道日(友澤家系図略伝では「道日」ですが、興居島総本家の石﨑家譜、油宇石﨑家の系図ではご指摘の通り「通日」となっています)が下野国、現在の栃木県真岡市の中村城主だったとされていますが、石﨑家譜では大龍院殿紅顔道日居士、至徳元年(1384年)7月14日没という戒名や命日の記載があります。

 沖家室島開拓前後の石﨑家の当主についての記載は、石﨑総系譜ではかなり混乱しています。以下、石﨑総系譜に記載されている、沖家室島開拓前後の石﨑家の当主について、順に転載します。

 中村弾正忠通日(道日)-日政-日文-日方-日久-石﨑四郎三郎尉日宗

 油宇石﨑家の系図と友澤家系図略伝では、通日(道日)と日宗の間が抜けており、石﨑家譜に記載されていた分です。
残念なことに、四郎三郎日宗の戒名と没年はどの系図にも記載されていません。

 日宗の後ですが、油宇石﨑家の系図では兄の四郎左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)と弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)に分かれ、日為の子孫が興居島総本家、日行の子孫が油宇と沖家室に分かれたことになっています。日為・日行の兄弟は、友澤家系図略伝、石﨑家譜にも記載されています。そして石﨑家譜には、日行が「油宇浦浄西寺に奉安セラル、文明6年7月8日死、徳孝院浄光日行居士」とあります。文明6年は1474年ですので、これは父である四郎三郎日宗が天正8年(1580年)頃に活躍していたのであれば明らかに間違いです。私はこれは文禄3年(1594年)の間違いではないかと思います。過去帳や位牌には干支で没年が記載されることがありますので、同じ甲午に当たる文禄3年であればつじつまが合わないことはありません。

 油宇石﨑家の系図では、日行の長男が直宗(油宇浦切開住居)、次男が石﨑勘左衛門(家室エ参切開住ス)と記載されています。勘左衛門の諱と子孫は記載されていませんが、沖家室を開拓したことになっています。
 一方友澤家系図略伝では、日行が勘左衛門と名を改めたことになっています。その嫡男が勘左右衛門惟昭、「庄太郎是也」とあります。友澤開基・惣右衛門徳昭の父に当たるわけですが、日行と「勘左右衛門惟昭」の間が一代抜けていると思います。「惟昭」という諱も間違いだと思います。
 石嵜系譜は勘左衛門顕宗から始まっており、この開祖が慶長11年(1606年)に沖家室を開拓したことになっています。元は善兵衛と言ったとあります。没年は不詳ですが、5月18日が命日で、(本性院)月山道清居士という戒名です。嫡子は勝太郎とあります。そして二代勘左衛門宗政の項には「幼名少太郎」とあります。寛文10年(1670年)7月8日没です。
 二代勘左衛門が若いときは「しょうたろう」と名乗ったのは間違いないのかもしれません。

 それと「通字」ですが、中村姓時代は「日」、三田尻友澤本家(萩友澤)は幕末に至るまで当主は「昭」で間違いありません。友澤開基・惣右衛門徳昭(のりあき)の祖父が勘左衛門顕宗(あきむね)ですから、「あき」という読みでは共通していると思います。
 石﨑家はいくつにも分かれていますから、「宗」で統一はされていないようです。興居島総本家は「忠」、沖家室の宗家は「政」、油宇は「直」です。

 以下、石﨑総系譜で整理された系図です。

 日宗 ┬ 日為 ─ 為忠(興居島)
     │
     └ 日行 ┬ 直宗(油宇)
            │
            └ 顕宗(沖家室) ─ 宗政 ┬ 徳昭(友澤)
                               │
                               └ 政家

興居島の古史

2022年07月24日 10時46分56秒 | 屋代島友澤家
明澤城址:『伊予温故録』に「興居島の内、本浦にあり、河野家十八将の一人、士大将、船大将兼帯村上備中守吉光(因島)の旗本組衆村上信濃守弘正これに居る。後、石崎四郎三郎居る」とある。また『伊予温故録』に「明沢城主石崎四郎三郎天正八年(1580)九月十五日これ(厳島神社)を勧請せり」とある

○弘正寺:1569年建立という。名の由来は明澤城主・村上信濃守弘正。当初は泊部落の庄司(厳島神社裏)にあったが、江戸時代文化期に現地に移った。真言宗。
○石崎四郎三郎日宗:中村孫四郎日久の子。子に日為。天正期に明澤城主。1606年(慶長11)に沖家室島に移住する。

通字の紛乱

2022年07月24日 10時45分10秒 | 屋代島友澤家
「通字」とは同じ苗字がある中で同一家族(一門)であることを示す意味で発生したと
されます。元々は天皇家からきているものと思われます。
現天皇家は「仁」ですね。石﨑氏の主君であった河野家は「通」ですね。

石崎家の先姓は中村と思われます。

貴殿は否定されていますが、元祖は

中村弾正忠道日 と思われます。(本当は道ではなく通かとも思われます。)

代が下がり、
中村孫四郎日久 となり、其の子が

石崎四郎三郎日宗  (天正8年興居島厳島神社建立)、その子が

石崎日為  (興居島明沢城主、慶長11年周防沖屋室移住)

この人が沖家室石崎家初代と思われます。石崎家初代は石崎勘左衛門勝太郎とされますが
諱が分かりません。興居島古史が正しいなら石崎勘左衛門日為となります。
石崎二代目は石崎勘左衛門宗政とされますね。

ただ石崎家二代目は石崎勘左衛門・庄太郎・惟昭と友澤貞昭系図にありませんか?
昔は同じ人で名前は沢山あるので何とも言えませんが。

この流れからすると古姓中村時代の「通字」は「日」
石崎姓時代の通字は「宗」石崎から分かれたとする友澤姓時代は「昭」となるようです。
伊予河野家は1000年以上「通」のみです。
友澤の通字が「昭」とし石崎、中村とは違うことも友澤家が別家であろうとする根拠です。


沖家室の二宮家について 投稿者:勝山真人

2022年07月24日 10時44分18秒 | 屋代島友澤家
いろいろ教えていただきましてありがとうございました。

 友澤の初代の改姓についてはよくわかりませんし、歴史のロマンということで私自身は良しとしています。

 愛媛の友澤姓の方々のお話をぜひ伺いたいものです。

 沖家室友澤家の九八が二宮に改姓したのは明治になってからのことで、これが二宮余次との養子縁組だったことは紛れもない事実であることは申し添えておきます。
 私の祖父らが先祖の戸籍を入手して判明したことです。そのコピーが私の手元にあります。

 あと、「石崎家も友澤家も「通字」の踏襲が不安定なのも気になります」とはどういうことでしょうか?

沖家室の二宮家について

2022年07月24日 10時42分16秒 | 屋代島友澤家
二宮家のことはよく分かりませんが、庄屋の二宮家と同根と見ています。

沖家室の友澤家から改姓して二宮とするとも資料がありますが、そう簡単に改姓したり苗字を創れる時代ではない
ことは御承知の通りです。

また院殿号があるから毛利家の御落胤ではとの見解ですが、御落胤は原則系図に載せることはありません。
系図に載せないから「御落胤様」(内緒の子)となります。

また院殿号は毛利の殿さんだけではなく、和田の村上家は代々院殿号です。他に大島の諸氏の中で、
元一国一城の主であった家は院殿号をもっている所も多いのです。
二宮家も昔一国一城の主だったのではないでしょうか?

ちなみに本来戒名は院号が最高位ですが、侍衆が院号を欲しがるので、寺は仕方なく院殿号とする次席のクラスを
作ったのが始まりとされます。ただ室町後期からは院殿号が院号より上との風潮が始まり今に至ってます。
殿様のいなくなった現在でも院殿号を欲しがる人がいますが、ちゃんちゃらおかしいことが分からないのでしょうね。
名は出しませんが芸能人達に見られます。

本来、院殿号、院号、軒号は家格で決まっていますので、葬式の時菩提寺の導師が家格と過去帳を見て戒名を
つけます。軒号が院号に昇格したり、居士が大居士に昇格することはそれなりの金銭が寺に納められる時に起こる
場合があります。子孫が金持ちになった時に先祖の戒名の格上げをする場合もあります。
このような場合、位牌は格上法名となりますが、墓名はそのままとかも多いので事情が分からなければ子孫と
雖も混乱します。

尚、御存じと思いますが、院殿号とはそもそも、寺を一宇新たに建立して寄進するだけの武士に与えるもの
でしたから、寺の名前が開基の殿様の法名と同じになっています。後に、慣習的に開基の殿様の子孫であれば
院殿号は貰えていますね。当たり前ですが、室町後期までは寺の住職の任命権は領主(殿様)にありました。

江戸期の寺の住職の任免権は檀家総代にありますので、たぶん泊清寺だと石崎本家が任免権をもっていたのでしょう。
また行政上の寺の管理は庄屋がしていましたので、庄屋と檀家総代は同一家だった場合が多いのも事実ですね。