ご教示ありがとうございます。
まず、私は石﨑・友澤の遠い先祖が中村姓だったということは特段疑っておりません。ただその遠祖が北畠顕家や伊達朝宗だったということにはやはり疑問を感じております。
石﨑総系譜は複数の家々の系図や過去帳を元に作成されたものですから、虚実ない交ぜという側面もありますし、混乱している部分もあります。私が見ても明らかに年代が一致しないと思える部分があります。
遠祖と思われる中村弾正忠道日(友澤家系図略伝では「道日」ですが、興居島総本家の石﨑家譜、油宇石﨑家の系図ではご指摘の通り「通日」となっています)が下野国、現在の栃木県真岡市の中村城主だったとされていますが、石﨑家譜では大龍院殿紅顔道日居士、至徳元年(1384年)7月14日没という戒名や命日の記載があります。
沖家室島開拓前後の石﨑家の当主についての記載は、石﨑総系譜ではかなり混乱しています。以下、石﨑総系譜に記載されている、沖家室島開拓前後の石﨑家の当主について、順に転載します。
中村弾正忠通日(道日)-日政-日文-日方-日久-石﨑四郎三郎尉日宗
油宇石﨑家の系図と友澤家系図略伝では、通日(道日)と日宗の間が抜けており、石﨑家譜に記載されていた分です。
残念なことに、四郎三郎日宗の戒名と没年はどの系図にも記載されていません。
日宗の後ですが、油宇石﨑家の系図では兄の四郎左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)と弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)に分かれ、日為の子孫が興居島総本家、日行の子孫が油宇と沖家室に分かれたことになっています。日為・日行の兄弟は、友澤家系図略伝、石﨑家譜にも記載されています。そして石﨑家譜には、日行が「油宇浦浄西寺に奉安セラル、文明6年7月8日死、徳孝院浄光日行居士」とあります。文明6年は1474年ですので、これは父である四郎三郎日宗が天正8年(1580年)頃に活躍していたのであれば明らかに間違いです。私はこれは文禄3年(1594年)の間違いではないかと思います。過去帳や位牌には干支で没年が記載されることがありますので、同じ甲午に当たる文禄3年であればつじつまが合わないことはありません。
油宇石﨑家の系図では、日行の長男が直宗(油宇浦切開住居)、次男が石﨑勘左衛門(家室エ参切開住ス)と記載されています。勘左衛門の諱と子孫は記載されていませんが、沖家室を開拓したことになっています。
一方友澤家系図略伝では、日行が勘左衛門と名を改めたことになっています。その嫡男が勘左右衛門惟昭、「庄太郎是也」とあります。友澤開基・惣右衛門徳昭の父に当たるわけですが、日行と「勘左右衛門惟昭」の間が一代抜けていると思います。「惟昭」という諱も間違いだと思います。
石嵜系譜は勘左衛門顕宗から始まっており、この開祖が慶長11年(1606年)に沖家室を開拓したことになっています。元は善兵衛と言ったとあります。没年は不詳ですが、5月18日が命日で、(本性院)月山道清居士という戒名です。嫡子は勝太郎とあります。そして二代勘左衛門宗政の項には「幼名少太郎」とあります。寛文10年(1670年)7月8日没です。
二代勘左衛門が若いときは「しょうたろう」と名乗ったのは間違いないのかもしれません。
それと「通字」ですが、中村姓時代は「日」、三田尻友澤本家(萩友澤)は幕末に至るまで当主は「昭」で間違いありません。友澤開基・惣右衛門徳昭(のりあき)の祖父が勘左衛門顕宗(あきむね)ですから、「あき」という読みでは共通していると思います。
石﨑家はいくつにも分かれていますから、「宗」で統一はされていないようです。興居島総本家は「忠」、沖家室の宗家は「政」、油宇は「直」です。
以下、石﨑総系譜で整理された系図です。
日宗 ┬ 日為 ─ 為忠(興居島)
│
└ 日行 ┬ 直宗(油宇)
│
└ 顕宗(沖家室) ─ 宗政 ┬ 徳昭(友澤)
│
└ 政家
まず、私は石﨑・友澤の遠い先祖が中村姓だったということは特段疑っておりません。ただその遠祖が北畠顕家や伊達朝宗だったということにはやはり疑問を感じております。
石﨑総系譜は複数の家々の系図や過去帳を元に作成されたものですから、虚実ない交ぜという側面もありますし、混乱している部分もあります。私が見ても明らかに年代が一致しないと思える部分があります。
遠祖と思われる中村弾正忠道日(友澤家系図略伝では「道日」ですが、興居島総本家の石﨑家譜、油宇石﨑家の系図ではご指摘の通り「通日」となっています)が下野国、現在の栃木県真岡市の中村城主だったとされていますが、石﨑家譜では大龍院殿紅顔道日居士、至徳元年(1384年)7月14日没という戒名や命日の記載があります。
沖家室島開拓前後の石﨑家の当主についての記載は、石﨑総系譜ではかなり混乱しています。以下、石﨑総系譜に記載されている、沖家室島開拓前後の石﨑家の当主について、順に転載します。
中村弾正忠通日(道日)-日政-日文-日方-日久-石﨑四郎三郎尉日宗
油宇石﨑家の系図と友澤家系図略伝では、通日(道日)と日宗の間が抜けており、石﨑家譜に記載されていた分です。
残念なことに、四郎三郎日宗の戒名と没年はどの系図にも記載されていません。
日宗の後ですが、油宇石﨑家の系図では兄の四郎左衛門尉日為(河野殿エ随身日宗家督ス)と弟の次郎左衛門尉日行(能嶋殿エ随身後屋代嶋居住)に分かれ、日為の子孫が興居島総本家、日行の子孫が油宇と沖家室に分かれたことになっています。日為・日行の兄弟は、友澤家系図略伝、石﨑家譜にも記載されています。そして石﨑家譜には、日行が「油宇浦浄西寺に奉安セラル、文明6年7月8日死、徳孝院浄光日行居士」とあります。文明6年は1474年ですので、これは父である四郎三郎日宗が天正8年(1580年)頃に活躍していたのであれば明らかに間違いです。私はこれは文禄3年(1594年)の間違いではないかと思います。過去帳や位牌には干支で没年が記載されることがありますので、同じ甲午に当たる文禄3年であればつじつまが合わないことはありません。
油宇石﨑家の系図では、日行の長男が直宗(油宇浦切開住居)、次男が石﨑勘左衛門(家室エ参切開住ス)と記載されています。勘左衛門の諱と子孫は記載されていませんが、沖家室を開拓したことになっています。
一方友澤家系図略伝では、日行が勘左衛門と名を改めたことになっています。その嫡男が勘左右衛門惟昭、「庄太郎是也」とあります。友澤開基・惣右衛門徳昭の父に当たるわけですが、日行と「勘左右衛門惟昭」の間が一代抜けていると思います。「惟昭」という諱も間違いだと思います。
石嵜系譜は勘左衛門顕宗から始まっており、この開祖が慶長11年(1606年)に沖家室を開拓したことになっています。元は善兵衛と言ったとあります。没年は不詳ですが、5月18日が命日で、(本性院)月山道清居士という戒名です。嫡子は勝太郎とあります。そして二代勘左衛門宗政の項には「幼名少太郎」とあります。寛文10年(1670年)7月8日没です。
二代勘左衛門が若いときは「しょうたろう」と名乗ったのは間違いないのかもしれません。
それと「通字」ですが、中村姓時代は「日」、三田尻友澤本家(萩友澤)は幕末に至るまで当主は「昭」で間違いありません。友澤開基・惣右衛門徳昭(のりあき)の祖父が勘左衛門顕宗(あきむね)ですから、「あき」という読みでは共通していると思います。
石﨑家はいくつにも分かれていますから、「宗」で統一はされていないようです。興居島総本家は「忠」、沖家室の宗家は「政」、油宇は「直」です。
以下、石﨑総系譜で整理された系図です。
日宗 ┬ 日為 ─ 為忠(興居島)
│
└ 日行 ┬ 直宗(油宇)
│
└ 顕宗(沖家室) ─ 宗政 ┬ 徳昭(友澤)
│
└ 政家