https://www.okikamuro.com/index.html
で、下記文章は上記管理人に送った内容です。
柳原兼吉氏の情報を集めているとか、
私なりのまとめてみました。
柳原兼吉について
彼の名は雑誌「かむろ」に何度も出てきてますから、ハワイ・ヒロで商売をしていました。
渡航日時はアラン青木氏の情報で正しいでしょう。柳原健吉氏のそれ以前のルーツは
「改姓原戸籍」で幕末までわかります、但し直系子孫でないと役場は出してくれません。
それ以前は泊清寺の家別過去帳しかありません。これも親族にしか見れません。
通常、寺には時系列過去帳しかありませんが、泊清寺には家別も保管してあります。
但し、江戸中期までしかないとのことでした。それ以前の資料を寺に保管して欲しいとか
檀家さんの要望があったようですが、後日談は聞いていません。
尚、柳原家の家紋は伊豫守護家河野家の別れを意味する「傍折敷縮三文字紋」です。
本来は「折敷漢数字三文字紋」ですが江戸以降の分家は前者を使用することが多いです。
「傍折敷縮三文字紋(そばおりしきしゅくさんもじもん)」は

で「折敷漢数字三文字紋(おりしきかんすうじさんもじもん)」は

となりますので似て非なるものです。漢数字三文字紋は元弘の役で河野家(カワノ)旗印として
使用されたとされます。大山積神社宝物殿に残りますし、現在の松山の河野家本城
「湯月城」もこちらを使用しますので、知らない子孫は「あれ?」となります。
柳原兼吉は真珠湾攻撃まではハワイ・ヒロで順調に商売をしていましたが、日米開戦が
起こるや1942年1月に多くの日系人と同様逮捕され、オアフ島ホノルルのサンドアイランド
強制収容所に収容されました。しかし同年3月には日系人リーダー格と看做されたのか
ハワイのリーダー格グループの第二陣として米本土の強制収容所に送られました。
この第二陣は166人の一世の男子がほとんどでした。嫁のトメさんはハワイ収容所に
残されたようです。米陸軍と司法省は家族をバラバラにして収容していました。
1942年3月 ~1942年4月までは兼吉はカルフォルニア州エンジェルアイランド強制収容所に
入れられ、更に1942年4月~1942年5月まではオクラホマ州フォートシル強制収容所
転住され、1942年6月~1943年6月まではルイジアナ州キャンプリビングストン強制収容所に
更に転住させられ、1943年6月~1945年10月まではニューメキシコ州サンタフェ強制収容所に
再転住させられました。手許のサンタフェ日本人自治会(サンタフェ時報)発行の
「収容人員名簿」によると、
『柳原 兼吉
居住バラック NO.58
年齢 60歳
原籍 山口県大島郡家室西方村
米国住所 ハワイ・ヒロ
職業 商業
家族住所(収容所) 布哇(ハワイ){どの収容所か不明}
とあります。
ハワイへの帰還は1945年11月軍用兵員輸送船ヤーマス号にのり、他の抑留者450人
とともにホノルルに到着したとあります。
柳原兼吉の息子、レイモンド・ヒロユキ・ヤナギハラは第二次世界大戦中に米軍に従軍した
とありますので、兼吉は「No!No!Boy」ではなく、息子は米国に忠誠を誓ったものと
思われます。
米本土の日系人と違い、ハワイの日系人は財産没収をされていなかったらしく、戦後通常の
生活に戻ることは難しくなかったとされます。
参考として柳原兼吉のサンタフェ強制収容所の集合写真を添付しましょう。【JCCH提供】
前列左から二番目が柳原兼吉です。孫のグレゴリー柳原氏とそっくりですね。

また、室町以前の河野は「カワノ・Kawano」と発音し江戸期以降は「コウノ・Kouno」と発音しますのでどちらが古い分家かがわかります。柳井の河野工業は「カワノスレート」と発音してましたので室町末期の伊豫からの移住家でしょうね。
屋代源三
で、下記文章は上記管理人に送った内容です。
柳原兼吉氏の情報を集めているとか、
私なりのまとめてみました。
柳原兼吉について
彼の名は雑誌「かむろ」に何度も出てきてますから、ハワイ・ヒロで商売をしていました。
渡航日時はアラン青木氏の情報で正しいでしょう。柳原健吉氏のそれ以前のルーツは
「改姓原戸籍」で幕末までわかります、但し直系子孫でないと役場は出してくれません。
それ以前は泊清寺の家別過去帳しかありません。これも親族にしか見れません。
通常、寺には時系列過去帳しかありませんが、泊清寺には家別も保管してあります。
但し、江戸中期までしかないとのことでした。それ以前の資料を寺に保管して欲しいとか
檀家さんの要望があったようですが、後日談は聞いていません。
尚、柳原家の家紋は伊豫守護家河野家の別れを意味する「傍折敷縮三文字紋」です。
本来は「折敷漢数字三文字紋」ですが江戸以降の分家は前者を使用することが多いです。
「傍折敷縮三文字紋(そばおりしきしゅくさんもじもん)」は

で「折敷漢数字三文字紋(おりしきかんすうじさんもじもん)」は

となりますので似て非なるものです。漢数字三文字紋は元弘の役で河野家(カワノ)旗印として
使用されたとされます。大山積神社宝物殿に残りますし、現在の松山の河野家本城
「湯月城」もこちらを使用しますので、知らない子孫は「あれ?」となります。
柳原兼吉は真珠湾攻撃まではハワイ・ヒロで順調に商売をしていましたが、日米開戦が
起こるや1942年1月に多くの日系人と同様逮捕され、オアフ島ホノルルのサンドアイランド
強制収容所に収容されました。しかし同年3月には日系人リーダー格と看做されたのか
ハワイのリーダー格グループの第二陣として米本土の強制収容所に送られました。
この第二陣は166人の一世の男子がほとんどでした。嫁のトメさんはハワイ収容所に
残されたようです。米陸軍と司法省は家族をバラバラにして収容していました。
1942年3月 ~1942年4月までは兼吉はカルフォルニア州エンジェルアイランド強制収容所に
入れられ、更に1942年4月~1942年5月まではオクラホマ州フォートシル強制収容所
転住され、1942年6月~1943年6月まではルイジアナ州キャンプリビングストン強制収容所に
更に転住させられ、1943年6月~1945年10月まではニューメキシコ州サンタフェ強制収容所に
再転住させられました。手許のサンタフェ日本人自治会(サンタフェ時報)発行の
「収容人員名簿」によると、
『柳原 兼吉
居住バラック NO.58
年齢 60歳
原籍 山口県大島郡家室西方村
米国住所 ハワイ・ヒロ
職業 商業
家族住所(収容所) 布哇(ハワイ){どの収容所か不明}
とあります。
ハワイへの帰還は1945年11月軍用兵員輸送船ヤーマス号にのり、他の抑留者450人
とともにホノルルに到着したとあります。
柳原兼吉の息子、レイモンド・ヒロユキ・ヤナギハラは第二次世界大戦中に米軍に従軍した
とありますので、兼吉は「No!No!Boy」ではなく、息子は米国に忠誠を誓ったものと
思われます。
米本土の日系人と違い、ハワイの日系人は財産没収をされていなかったらしく、戦後通常の
生活に戻ることは難しくなかったとされます。
参考として柳原兼吉のサンタフェ強制収容所の集合写真を添付しましょう。【JCCH提供】
前列左から二番目が柳原兼吉です。孫のグレゴリー柳原氏とそっくりですね。

また、室町以前の河野は「カワノ・Kawano」と発音し江戸期以降は「コウノ・Kouno」と発音しますのでどちらが古い分家かがわかります。柳井の河野工業は「カワノスレート」と発音してましたので室町末期の伊豫からの移住家でしょうね。
屋代源三
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます