山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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屋代の安部と現首相家の安倍家

2022年07月29日 19時59分47秒 | のんびり屋代島
因幡さまから、古代の屋代の安部と現代の首相家安倍晋三家は同一かとの
質問を受けました。また、古代大島の製塩ついても。
よって下記の通り答えました。

屋代の名はアベとなんら関係ありせん。

10世紀後半に編纂される「和妙抄」よりさらに2世紀遡る、平安京の天平年間の出土木簡に

「周防国屋代郷□□□調塩三□   」とあり、この木簡は平城京址出土木簡として

千葉県佐倉市の国立民族学博物館に展示されていますのでご覧ください。

屋代のゆわれは神様が降りてきた「社」は後世なまったものとされます。

奈良女子大学の先生は大嶋の瀬戸の「オオタマル神社」をそれとしますが

地元では奥畑の妙見宮志度石社とします。

よって神代の昔、神が国を造り給うとき大嶋を造ったと記紀は記します。

よって製塩は周防の國では歴史上初めて大嶋郡があらまれますので毛利時代の若いものではありません。

塩は高級なものですが、技術的には難しいものではありません。

古来「藻焼く」とされるのは製塩です。

「忠臣蔵」で赤穂製塩を吉良上野介に教えなかったから、吉良がいじわるしたから「刃傷事件」がおこった

としますがあれはお話です。赤穂、姫路、加古川あたりも塩田がありましたが、作り方はみんなOPENでした。


屋代源三

廣元、三庄について

2022年07月29日 19時58分39秒 | のんびり屋代島
因幡様から大江廣元の大島郡統治の史料を求められましたので下記のように
答えました。

下記の「吾妻鏡」の内容を補強する古文書を見つけましたのでお送りします。

宮本常一先生は下記古文書に基づいて「東和町史」を上梓しています。

建久2年 3月22日 山口県文書館 屋代庄 古文書

     花押
殿下 御領
 屋代御庄
  補任惣公文職
  散位 安部守真
右人以為惣公文職任先例懈怠専御務可執行萬雑事者
御庄官等宜承和用故補任如件
  建久弐年三月廿二日
       地頭中原 在判


建久3年 6月3日 山口県文書館

并前右大将家政所下周防国大島三箇庄并公領住人可早
前因幡守中原朝臣廣元為地頭職事
右去文治二年十月八日御下文書件島者平氏知盛卿謀反之時
構城郭所居住也 其間住人字屋代源三 小田三郎等
恠令同意始終令結構彼城事所業之旨旁竒恠也
早以廣元為地頭職任先例可令勤仕本家所役矣者而
今可成政所下文旨依仰所改如件以下
  建久三年六月三日  安主藤井 判
            知家事中原
 令民部少丞藤原 在判
 別當前因幡守中原朝臣 在判
 前下総守源朝臣
 散位中原朝臣

参考
中原は大江です。最初の文書の地頭中原は「大江廣元」のことです。

島末庄と大江氏

2022年07月29日 19時55分44秒 | のんびり屋代島
因幡太夫様より、島末庄と大江氏について質問を受けました。
下記の通り答えました。

因幡前司廣元使者自京都到來。申云。今月三日。熊野參詣所進發也。而其精進中。蒙御感仰者。閑院并六條殿修造已下。於事勤節。殊神妙云々。
凡歡喜之涙難抑。此仰。偏陰徳之所致歟云々。次廣元知行周防國嶋末庄事。女房三條局捧折紙。所望之間。爲師中納言之奉行。被尋知行由緒之間。
注子細。進状畢。定直被仰下歟。爲被知食廣元言上之樣。進彼状案文之由云々。
周防國嶋末庄地主職事
右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。
件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候



周防国島末庄の地主職について

因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、
その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした
このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうか。次ぎの話題は、
大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、
所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、
大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしました。
 右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して
数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。
何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、
ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。

と理解しました。

知盛のあと頼朝様の命で地主の職だけは認めてもらっていたとする主語を廣元と理解しました。
その後、女官三条局の欲しがった島末の庄はその後名目上は高野山へ寄進され地主職に大江廣元が補任されました。
大江氏は下向することがなかったので島末庄の代官(当時は代官と言わず下司職と云う)藤原判官親康されます。
下司職は藤原家に世襲されました。下司職のことを公文職とも言います。親康のの孫は光親は東西兼帯惣公文に
補されていますので、周防大島はその後、東西に分かれていたことになります。

失礼!周防大島が東西に分かれていたわけではなく島末の庄が東西に分かれていたの間違いでした。

他に廣元は屋代庄、安下庄の地主職を兼ねていました。今、島末には西方の地名は残っていますが、
東方なる地名は消えてしまっていますが、大よそ旧東和町の反対側と見られています。
大きな庄は分割して統治していたようです。ちなみに屋代庄は北と南とに分かれており、北方は
今の屋代川の小田側、南方は屋代川の南側でそれぞれ公文職は小田三郎、屋代源三となっています。
小田の地には「公文所」と呼ばれる地名が現在もありますので、それぞれに公文(役所)があったと
と思われます。

尚、久賀と日前(ひくま)、油良は庄ではなく公領を意味する「保」と呼ばれていました。
よって倉庫を意味する「保」ではありません。
宮本常一先生は保は湊を意味しているのではないかとしますが、山の中でも「保」はありますので
湊を意味するものではないと思われます。確かに上記の3つの「保」は湊でもありますが。

ほぼ承久まではこのような状態と見られます。後世、大内氏にとって代わられます。

又、長崎氏は初代の公文職の藤原家が長崎と言う所に居住したので、孫の代以降長崎氏と
なっているだけで同一家となります。



本土への飛び地はいつのころからか知りませんが、大畠遠崎から神代、由宇あたりまでが最大飛び地です。
これは郷が郡となったころと思われます。今はそれぞれ岩国や柳井市に編入されています。
由宇や神代はその前は玖珂郡となっています。
よって、大島郡から切り離されたのは
①大島郡柱島(現在岩国市)
②大島郡由宇(同)
③大島郡神代(同)
④大島郡大畠(柳井市)
⑤大島郡平郡島(柳井市)
等があり、大畠遠崎の僧性」は本により、大畠の人とか柳井の人とか書かれていますが、
彼の時代は大島郡遠崎でし。
平郡島は河野家末裔、浅海氏が統治したところです。昔は浅海君だらけでしたがこちらも
過疎により昔も面影はありません。


周防大島と塩

2022年07月29日 19時54分29秒 | のんびり屋代島
塩は基本的には海水を煮詰めて作るだけですね。
天平時代の木簡も周防国大嶋郡から塩を都に送ったときの「送り状」あります。
「周防国屋代郷□□□調塩三□   」とあり、この木簡は平城京址出土木簡として
千葉県佐倉市の国立民族学博物館に展示されていますのでご覧ください。
多くの大嶋郡関係の木簡が23点も見つかったのは長屋王家から出土しています。大嶋郡は大量な製塩を都に
送っていたとおもわれます。一送り状で三斗とありますので、60Kg程度あったのではないでしょうか。
これらの木簡から、この時期の大島郡は長屋王家の封土とされるゆえんです。

これらの時代は「玉藻刈る」製塩ですから、海水を濃い塩水にするのに、藻を何度も溜めた甕に浸して塩分濃度を上げていきます。

江戸期以降はこれが「入り浜式」の塩分濃度を揚げる技術が確立し、飛躍的な生産量を確保します。
この製塩法はNHKの朝ドラで能登で砂の上に海水を撒いている場面がその一部です。この撒く人を長州では「浜子」と呼んでおり
今日のような猛暑の中でふんどし一丁で撒き続けますから、相当きつい肉体労働です。身体にだけは自信がある若者は手っとり早い
就職口でした。表面に塩が濃く付着した砂だけをかき集め、海水に浸して、最高度の濃塩水にしたものを煮詰めていきますので

24時間の作業です。ですから、火が途絶えることはありません。周防大島は藩政時代はこの塩田用の薪の山は指定されていて一年で一山刈り尽くされ

ますので。燃料、天日干し用の塩田、24時間生産体制の維持するシステムが必要になり、藩の専売事業となっていきます。

こららを明治期に引き継いだのが「専売公社」となり、大嶋では小松開作の「塩釜神社」の隣に支店がありました。
大正、昭和になって「入り浜式」より生産性の高い「流下式製塩」が全国の塩田に広がります。

これは高さ15M位のやぐらを建てそのやぐらに竹の枝をびっしりと逆に組み、一番上に海水を均等に流し、しずくが一番下まで
落ちる間に天日により水分を蒸発させる技術です。これをくりかえしますと、入り浜式以上に濃い塩水が得られます。

現在この方式を小規模稼働させて製塩しているのが「伯田の塩」ですが、人気の割に生産量が伴わないので「外塩」を混ぜて
いたのがばれて、「ブランド力」をなくしました。

流下式は古来の干満の差を利用する製法ではないので、大潮、小潮に関係なく継続生産が可能となりました。

近代になって流下式に切り替えることができたのは、薪の代わりに九州の炭鉱の石炭が手に入りやすくなったのと、やぐらの上まで
海水を揚げるための動力(モーター)が使えるようになったからです。江戸時代の樽廻船は一挙に石炭を運び始め、帆船は動力つきの
機帆船となり海運日本の礎となりました。

屋代源三

大江廣元 屋代島拝領

2022年07月29日 19時52分51秒 | のんびり屋代島
> 大江廣元が大島を頂戴したのは「吾妻鏡」によると
>
> 『因幡前司廣元使者自京都到來。申云。今月三日。熊野參詣所進發也。而其精進中。蒙御感仰者。閑院并六條殿修造已下。於事勤節。殊神妙云々。
> 凡歡喜之涙難抑。此仰。偏陰徳之所致歟云々。次廣元知行周防國嶋末庄事。女房三條局捧折紙。所望之間。爲師中納言之奉行。被尋知行由緒之間。
> 注子細。進状畢。定直被仰下歟。爲被知食廣元言上之樣。進彼状案文之由云々。』
>
>
> とあり元々私のものですから正式に認めて下ださいと嘆願したからとしますので、平家の代から縁があったと
> 思われます。
>
> ちなみに子孫の毛利家の文書では廣元の時代の領地異動は
>
> ①文冶4年2月7日    肥後国山本庄(熊本県鹿本部山本村)頼朝より拝領
> ②文冶4年12月12日  周防国務理郷島末庄(山口県大島郡船越以東油田に至る地域)
> ③文冶5年11月     出羽国寒河江寒河江庄(山形県羽前国西村山郡寒河江)
> ④建久年中        相模国愛甲郡ノ内毛利庄(神奈川県愛甲郡ノ内小鮎村付近)
> ⑤建仁3年11月9日   武蔵国高麗郡(埼玉県入間郡の内)
> ⑥建保元年5月7日    武蔵国多摩郡横山庄(多摩郡八王子付近)これより実朝より受領
> ⑦建保元年5月7日    常陸国下野之内(五千町)(現在地不明)
> ⑧建保元年5月7日    甲斐国森本(現在地不明)

と以前書きましたが「吾妻鏡」の上記記述を補強する、一次史料の古文書は見出しましたの掲載します。

この古文書に基づいて宮本常一先生は「東和町史」を上梓しています。

【建久2年 3月22日 山口県文書館 屋代庄 古文書】

     花押
殿下 御領
 屋代御庄
  補任惣公文職
  散位 安部守真
右人以為惣公文職任先例懈怠専御務可執行萬雑事者
御庄官等宜承和用故補任如件
  建久弐年三月廿二日
       地頭中原 在判


【建久3年 6月3日 山口県文書館】

前右大将家政所下周防国大島三箇庄并公領住人可早
前因幡守中原朝臣廣元為地頭職事
右去文治二年十月八日御下文書件島者平氏知盛卿謀反之時
構城郭所居住也 其間住人字屋代源三 小田三郎等
恠令同意始終令結構彼城事所業之旨旁竒恠也
早以廣元為地頭職任先例可令勤仕本家所役矣者而
今可成政所下文旨依仰所改如件以下
  建久三年六月三日  安主藤井 判
            知家事中原
 令民部少丞藤原 在判
 別當前因幡守中原朝臣 在判
 前下総守源朝臣
 散位中原朝臣

参考
中原は大江です。最初の文書の地頭中原は「大江廣元」のことです。

文冶4年の大江(毛利)の屋代島拝領記述は「もりのしげり」に書かれていますが根拠は「吾妻鏡」の
文冶4年12月12日の条と思われます。

また、惣公文職の安部守真を現総理大臣「安倍晋三」の先祖と見る向きがありますが、
安倍晋三家は奥州安倍家の流れで、一旦豫州河野家へあづけられたのち長門地区、九州へ後に
繁茂した一族とされます。これも時代が違いますし苗字がそもそも違います。
こちらを語れば本が一冊書けます(笑)