山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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沖家室漁業 事 蹟

2022年07月20日 18時35分10秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
    事 蹟

一、理事長氏名   木村 勝之助

二、組合員数    四百八十九名

三、組合員の従事する漁業及副業  組合漁業を左に区別して

  一、地元漁業 (沖家室地先)

  二、出稼漁業 (馬關組、筑前組、朝鮮漁業、台湾漁業に就きて)

    就中出稼漁業は組合存立以前よりすでに団体を組織して出漁せるものあり
    組合員の漁業として茲にこれを掲げくるか当らざるか如しと雖も組合員に
    して地元漁業より出稼漁業に傳せるものありその経路と方法を記するは
    もっとも要用のことなりと信す。

   一、地元漁業

     当漁業組合地先は大島郡家室西方村の一部に属し大水無瀬島と小水無島との
     中間に一大岩礁あり、伊賀磯と名つけ他にも岩礁散在して潮流急激近辺の海底
     に砂州を生じ種々の小魚蝦蟹類を産し自然に魚類を誘致し四時間断なき最良
     漁場となりとす。
     貞享初年の頃、人家少なく人口わづか二百人に過ぎずその当時は住民農を以て
     本業と為し農業の間をもって漁業を試みるのみ、同三年に至り阿波の国より
     漁業修練者数名を聘し以て釣漁法の伝習を受け漁業の利益を知りて漁業を重んずる
     に至り、年とともに漁業者の数と漁獲高を増進し、一面に於いては地民は増加し
     限りある土地は自ら狭隘を訴ったうるに至り、到底農業の頼むべかざるを覚悟し
     農業に代ゆるに漁業を以てするにしかずと遂に永年の意思を翻してこの時方針を
     探ることを決定せり。爾来日進月歩地民悠々増し漁業悠々拡張し駿々として漁業の
     発展を見るに至る、されども現今に至りては一般漁業者の増加は暫時漁獲高の減ずる
     に至り、漁具を精巧にし漁法を改良するにあらざれば従前の漁獲の半ばをも得ること
     能わざるに依りその結果は乱獲酷漁に陥り易くもっとも注意を要する事たり、漁業
     従事者は之等に細心の注意を払い漁業を営むも又一には気候潮流其の他の関係により
     毎年漁期において來遊する魚族も魚道を変じて近づかず又は餌料となるべき小魚類の
     繁殖せざる為に、魚族を誘致せざるにより予想せる漁獲を見ることを得ざる状態にあり
     故に地元漁業に従事する者は漁業上総ての調査研究を怠らず別項記載の如く魚類の餌付
     を為して魚類を誘致し新発明の漁具を使用し、または禁止漁具の使用許可を受けて漁獲
     の増加に力むる県郡以外に発展して魚利の増収に力むる等いずれも魚利の増進に力めて
     止まず。

沖家室漁業

2022年07月20日 18時33分57秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
大正5年に大島郡の産業に尽くした団体に大島郡長より表彰を受けた中に
沖家室島漁業組合があります。

曰く

 大島郡家室西方村沖家室島漁業組合殿

組合員共同和衷相率いてよく事業の経営に努め殊に進取の気風に富み
地元漁業 遠洋漁業協同販売等その成績顕著にして水産業の改善発達
に資するところ少なからず 依りて茲に金拾円を賞与しこれを表彰す

大正五年一月四日

  山口県大島郡長 従六位勲六等   横 山 素 輔

周防大島沖家室漁業の変遷

2022年07月20日 18時26分59秒 | 周防大島沖家室漁業の変遷
周防大島はかって盆暮には島が沈むとされるまで島外の出身者で大混雑をしました。中でも島末の沖家室島はさらに小さい島に更に多くの出身者が里帰りしました。現在の周防大島町の人口は16000人あまりですが
最盛期は7万人近い島人がいました。この7万人のなかには出稼ぎの人もいますので、現在で言う、住民票は大島ですが通常は居住していない人も含まれます。

大島郡には多くの漁民が江戸期からいましたが、地元漁業は殆ど本浦とされる、久賀浦や安下庄浦に独占されています。

沖家室島は小さな島で、かっては海賊浦の一つでしたが、秀吉の海賊禁止令の影響か一時期無人島となりました。後に伊予河野家残党である人たちが伊予から移り住んできました。

同島の漁民もその人たちの一部が従事します。

特異なのは、日清・日ロの戦争、その後の日韓併合を経ることにより、沖家室島漁業の指導者は地元の海ではなく台湾の海、朝鮮の海、九州の海へ出稼ぎ漁業を拡大します。これらは大島郡の他の浦ではあまりみられません。

当時の沖家室島漁業組合ではこれらを出稼漁業組として台湾組、馬関組、朝鮮組、筑前組として分類管理しています。本体は地元漁業(沖家室地先)が本部となります。

出稼ぎ組は沖家室島漁業組合として出稼ぎ漁業を出先の漁業権をもつ漁業組合と契約し入漁料を支払い入漁していました。とても民主的なシステムです。

遠く台湾沿岸、朝鮮済州島付近まで出漁しています。

これらの沖家室島の漁業従事者は大正五年の最盛期には、組合員数489名で、理事長は木村勝之助氏でした。家族を含めると2000人に及ぶ人たちが沖家室島の人たちと想定されます。

現在のハワイの漁業市場の制度を作ったのも沖家室島の青木家らを中心とするグループであったことも沖家室漁業の先達たちの知恵だったのでしょう。

沖家室漁業の最盛期の状態を一部紹介してみましょう。