キツツキのドラミング

思い付くまま, 気が付くまま・・

民主主義の功罪・・責任の分散

2011-01-11 15:01:03 | Weblog

「私はもとより民主主義を否定しようといふのではない。その利点も承知し、恩恵にも浴くしてゐる。芸術や文化の領域、宗教や道徳の領域に、みだりに民主主義を持ち込むことは慎まねばならない。芸術作品は多数が支持したからといって、必ずしも優れた作品とは限らない。支持者が少ないからといって、価値がないとは言へない。ともすれば、その逆ではないかと思はれることがある。作品のよしあしを多数決できめたらどうなるか。恐らく、惨憺たる結果になるだろう。マチスにしてもピカソにしても、物置小屋に放り込まれかねない。ところが、多数の支持するものをよしとしてゐるのが現実の社会である。何かの賞を選ぶやうな場合、専門家の多数決なら結構ではないかと言う者もあろうが、近頃はその専門家があてにならないのである・・一人より三、五人で選ぶ方が良い作品を選ぶ出せると思ふのは錯覚に過ぎない。多数決は責任の所在を曖昧にし、各個人の責任を多数の中に埋没させてしまふ・・責任を感じないから社会の風潮に迎合することになる」そして当時芥川賞を受賞した作品に疑問を呈している。以上同窓の土屋道雄君の著書『日本よ日本人よ』に収められている昭和54年『日本及日本人』に掲載された評論『憂ふ責任の拡散現象』の引用である。そして32年経過しても「芥川賞」は複数の選考委員である。我々が同好会などで絵画、写真、俳句、短歌など仲間同士で選ぶのと経験豊富な識者が選考した場合一致する場合と別の作品が評価されることもあろう。長年展覧会や書籍或いは実践してしっかりした鑑賞眼を持った人間は当然少数であり反対に持たない者の方が多いのは世の常である。この辺を良く弁えないとつまらぬ作品を選んで臍をかむことになる。写真はシャコバサボテン