殿は今夜もご乱心

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奉仕

2021年09月09日 10時55分21秒 | 前向き論
前回の記事、『手抜き料理・心機一転の秋』のコメント欄で

H&Mさんがおっしゃった一言。

>「奉仕は、嫌になった時から始まる」

>とても深いお言葉ですね。


深いと言われて、いい気になるみりこん。

「奉仕は嫌になった時から始まる」について、もうちょっとしゃべりたくなった。


無償で行う自主労働、つまり奉仕は必ずどこかで頭打ちになるものだ。

回数を重ねるにつれ、裏に存在する闇が見えてくるからである。

逆に言えば奉仕の二文字を掲げ、他人をタダで使いたがる人や組織は

たいてい闇を抱えているものだ。

図らずも闇を覗いてしまったお人好しは、当然嫌になる。

やがて穏便に離れることを考えるようになるのは、自然の成り行きだろう。


同級生ユリちゃんの実家のお寺で、檀家さんに出す料理を作り始めた2年前

私もまた、お人好しの一人だった。

友だちが料理で困っていると知り

調理師の自分が立ち上がらないでどうする…と思った。

美味しい料理は作れないが、大人数のこなし方は知っている。

それだけでも何か役に立てるような気がして

同級生のけいちゃん、マミちゃん、モンちゃんに声をかけて巻き込んだ。


こうしてお寺料理に携わるようになった我々は

それなりに面白おかしくやっていた。

しかし昨年11月、けいちゃんが東京へ引っ越す。

最大の戦力だった彼女が抜けた穴は想像以上に大きく

同窓会気分で楽しんでいたお寺料理は、過酷な労働へと変化した。

とはいえ、それまではけいちゃんを立てて洗い場に回っていたマミちゃんが

実は料理上手な頼れる女だとわかったことは僥倖であった。


が、洋品店を経営しながらのお寺料理は、彼女にとって負担になっていった。

選民たちの無遠慮な批評も、彼女を傷つけた。

さらに8月の始め、お寺の台所で

ムカデに刺されるという不幸に見舞われたマミちゃんは

料理番からのリタイアを模索するようになった。

しかし彼女はメンバーの中で、ユリちゃんとの付き合いが一番親密だ。

自分が抜けることは難しいと知っているため、苦しんでいた。


そして私は、マミちゃんが抜けても一人でやれる。

お寺料理をやめて、ユリちゃんと決別するのも平気。

どっちでもかまわないので、マミちゃんをあやしながら

1回、また1回とお寺料理を積み重ねている。

以上が我々にとってのお寺料理だ。


一方、ユリちゃんやお寺の思いは、全く違うところにあると私は考えている。

誰も気付いてない様子だが、調理師の目で眺めた場合

そもそもお寺が料理に行き詰まり、我々同級生を頼るようになった原因は

例の芸術家の兄貴が連れている弟子、A君の存在だ。


20代のA君は、芸術家の弟子になろうかというぐらいだから

こだわりが非常に強く、世渡りが下手なタイプ。

兄貴はその純粋を愛(め)で、衣食住も我が子のように面倒を見ていた。

しかしアレルギーが多い子なので、食事も大変だ。

お寺での会食は、兄貴がひと息つける時間だった。


兄貴に弟子入りして1年が経った頃

A君はインドの思想やベジタリアン、ビーガンなどに興味を持ち始める。

能力的に自炊が難しいタイプの子なので、本人は興味を持つだけ。

あとは兄貴任せとなるのだが、いくら小まめな兄貴でも

年取った男性が一人で彼の要望に応えるのは難しいだろう。


それはお寺も同じだった。

それまではカレー、シチュー、ハヤシライスのローテーションに

夏はそうめん、冬はおでんを加えて回していた安上がりの会食メニューが

A君には不適合となると、元々料理が苦手なユリちゃんはお手上げ。

我々がお寺料理を本格的にやるようになったのは、2年前のそんな時だった。


我々が参入したのと同じ頃

A君の食品に対するこだわりもいちだんと強まりつつあった。

牛肉から始まって豚肉や鶏肉も食べなくなり、やがて魚と野菜しか受け付けなくなる。

そう言ったら少食めいて聞こえるだろうが、若いA君の食欲はすさまじい。

野菜はともかく魚が大量に必要となると、予算オーバーは必至。

敬愛する兄貴の弟子だから粗末にもできず

ケチケチ寺の皆様はA君の対応に困り果てていたと言っても過言ではない。


しかしうちには釣り好きの息子たちがいるので、どうってことない。

子供のいないユリちゃんはA君の食べっぷりを怖がるが

私は息子たちの少年時代を彷彿とさせられて気持ちが良く

美味しそうに、そして綺麗に食べてくれるA君が可愛いかった。

魚の料理は手早いし、冷凍庫にあふれる釣果を整理してくれる彼のおかげで

助かっている面も大いにあった。

私のほうは友だちであるユリちゃんのために参加しているつもりだったが

お寺はA君の対策係として私を必要としていたのだと思う。


そのA君、8月の下旬に兄貴のもとを去った。

今後は母親と暮らすことになり、3年に渡る弟子生活に別れを告げたのだ。

詳しいことは知らないが、兄貴が私にチラリと漏らした内容によれば

やはりA君の食へのこだわりが原因と思われた。


A君が去ったとなると、アレルギー対策も大量の魚料理も必要無い。

魚の消費が減る私は複雑な気分だが、お寺料理が楽になるのは明白だった。

梶田さんが町内に別荘を買い、再びお寺と接触を持つ意志を見せたタイミングも

真相はわからないが、実はこの件が無関係ではないような気がする。


ともあれ「ユリちゃんのため」に始まった、私のお寺料理。

ユリちゃんは単にごはんの支度が嫌で、同級生を利用しているだけ…

そうわかってはいたものの、はっきりしてしまったLINE事件があり

ここで「ユリちゃんのため」という意識が消えた。

同時にA君が去ったことで、「A君のため」という意識も自動消滅。

私のお寺料理は、「ため」の対象を失った。


前にもどこかで話したことがあるが、「人の為」と書いたら

「偽(にせ)」、「偽(いつわり)」になる。

子供のため、親のため、家族のため、仲間のため…

「誰かのため」と言っているうちは、ニセ、イツワリなのだ。


悩みのある人は、何のために苦しんだり我慢しているのかを

まず考えてみるといい。

誰か人のためであるうちは、悩む価値無し。

誰かのためにかこつけた、偽の悩みだからである。

金のためや将来のためなど、対象がモノであれば、結論の出せる前向きな悩みだ。


人の話の信憑性を判断する時にも便利だ。

「子供のために辛抱してきた…」

「親のために頑張った…」

それらはたいてい美化され、かなり盛ってある。

話を聞かされるあなたの方が、よっぽど苦労人だ。


ともあれ「誰かのため」という拠り所が無くなった時

それでもやるか?ということになる。

特に無償の奉仕は、ここからが本番。

あの人のため…この人のため…そんな建て前が取っ払われると

案外スッキリするものだ。

そのリセットされた心で、続けるかやめるかを改めて選択し直す。

続ける方を選ぶと、新しい扉が開く。

すると、そこから先は誰かのためでなく、自然な気持ちで動けるようになる。

それが本当の奉仕だ。


私は料理の腕を上げたい。

いろんなメニューを考えたい。

マミちゃんの作る料理をもっと知りたい。

よそで他人に食べてもらう習慣があると

アンテナが働いて、つい料理に敏感になる…そんな自分が好き。

要は食べ物が好きだから、やる。


だったら飲食店に就職した方がいいんじゃないかって?

何とおっしゃるウサギさん。

人に使われながら、金をもらって料理を作るぐらいしんどいことは無いぜ。

しかもコロナじゃん。

ゼニにならん所でチャラチャラするのが、オイラにはお似合いなのさ〜。
コメント (10)
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