今回の「認識主体としてのプトガラの存在に関する批判」という論文を読んでの気付きです。
まっ、消化できたものから書いてます。
○犢子部はプトガラが「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の総称)の
いずれのよっても認識される実有(佛教では世の中のもの全ては、因縁によって成り立っていて
それ単体で組織されているものではない、という考えだが、実有はそれ単体で成り立っている。
という考え)である。」と説いている。
たとえば、犢子部は、「プトガラは眼識によって認識される」と、しているが、続けて
「プトガラは『色』を特相としていないので、
諸色であるとも、ないとも説くことができない。」としている。しかし、プトガラが
「諸色に縁って眼識により認識される」としているので、プトガラ自体は実体ではなく、
仮有(因縁によって成り立っていて、それ自体、本質的な実体性を持っていない仮の存在である
こと↔実体)の存在であると言える。
○「プトガラを了得(さとる)する(原)因が諸色である」としているが、①「諸色を了得する
時にプトガラが必要」なのか、または②「プトガラを了得する時に諸色が必要」なのか。
①-では、諸色とプトガラが別もののように説かれているが、二つは「不一・不異」の
関係である。そして、「両者は別ものであると説かれるべきでない」と加説してある。
この二説は矛盾しないのか?
②-では、眼識は『色』しか認識しないことが前提となっている。プトガラと色との関係は、
「不一・不異」であるならば、少なくともプトガラは、「色であるとも、
色でないとも言えない」ことになり、これもまた矛盾をはらんでいることになる。
また、色を了得する眼識によって、プトガラが了得されるならば、プトガラと色とは
同一の体である、といえる。そして、プトガラと色とが同一の体ならば、「これが色である、
これがプトガラである」という区別ま無くなるはずである。
というところまでが、私が消化した部分です。
これまたあまり、万人受けしない内容ですが、なにか
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○犢子部はプトガラが「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の総称)の
いずれのよっても認識される実有(佛教では世の中のもの全ては、因縁によって成り立っていて
それ単体で組織されているものではない、という考えだが、実有はそれ単体で成り立っている。
という考え)である。」と説いている。
たとえば、犢子部は、「プトガラは眼識によって認識される」と、しているが、続けて
「プトガラは『色』を特相としていないので、
諸色であるとも、ないとも説くことができない。」としている。しかし、プトガラが
「諸色に縁って眼識により認識される」としているので、プトガラ自体は実体ではなく、
仮有(因縁によって成り立っていて、それ自体、本質的な実体性を持っていない仮の存在である
こと↔実体)の存在であると言える。
○「プトガラを了得(さとる)する(原)因が諸色である」としているが、①「諸色を了得する
時にプトガラが必要」なのか、または②「プトガラを了得する時に諸色が必要」なのか。
①-では、諸色とプトガラが別もののように説かれているが、二つは「不一・不異」の
関係である。そして、「両者は別ものであると説かれるべきでない」と加説してある。
この二説は矛盾しないのか?
②-では、眼識は『色』しか認識しないことが前提となっている。プトガラと色との関係は、
「不一・不異」であるならば、少なくともプトガラは、「色であるとも、
色でないとも言えない」ことになり、これもまた矛盾をはらんでいることになる。
また、色を了得する眼識によって、プトガラが了得されるならば、プトガラと色とは
同一の体である、といえる。そして、プトガラと色とが同一の体ならば、「これが色である、
これがプトガラである」という区別ま無くなるはずである。
というところまでが、私が消化した部分です。
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