どういうお方なのかと思います。
いえね、私、勝さんについてはさっぱり詳しくないんです。
なんとなく虫が好かない、とでもいえばいいんでしょうか、妙に好きになれなくって‥‥‥、といいますか、たいして好きではなくとも、その人物について詳しく調べる、ということはあるんですけど、いったいなにをしたっていうの? という気分がぬけなかったんです、この人に関しては。
そこへもってきまして、晩年のおしゃべりぶりが、あまり好感を持てませんで。とはいえ、談話集とかは読んでいて、たしかにおもしろいおしゃべりなんですけど、要するに、おしゃべり男は好みにあわない、わけでして。
で、ですね。甲賀源吾と回天丸、そしてwiki に書きましたような事情で、記事を書いていましたところ、甲賀源吾の師匠だった矢田堀鴻の項目が、ないんですね。『回天艦長 甲賀源吾傳』に写真と略歴が載っていますので、じゃあついでだ、これも書こう! ということになりまして、読み返してあきれました。勝海舟というお方に‥‥‥。
詳しくはwikiの記事を見ていただきたいんですが、矢田堀鴻は、勝海舟より6つ年下で、同期で長崎海軍伝習所でオランダ海軍の伝習を受け、勝さんより優秀だった幕臣なんですね。幕府の最後、海軍総裁を務めますが、維新以降は不遇で、勝さんより先に死に、勝さんが墓碑銘をよせているんです。それがまあ、なんといいますか。
「利刃缺けやすく、敏才伸びがたし」って、ねえ。「鋭い刃物は欠けやすく、学業秀才は案外のびねえもんだよな。あんたの人生もそうだったよ」って、ことですよね? 私が矢田堀の遺族だったら、つっかえしますよ。いくらそれが勝さんから見た真実だったにしても、墓碑銘なんですから。
もちろん、そんなことはwikiには、書いてませんけど。
で、この本です。この本で、謎がとけました。
私、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、昔読んでいたんですが、読んだ視点が「オランダ人は当時の日本をどう見たか?」というものでして、伝習所に関しては、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』で、薄ぼんやりとしたイメージをもっていたくらいのものでした。それで、幕府海軍といえば勝海舟、という話を、あまり疑ってはいなかったのですが、今回、資料を読んでいますと、どうもおかしいのです。
根本資料の「海軍歴史」は、勝海舟著となっていますように、勝さんが中心になってまとめたものなんですが、それでも、資料部分を読んでいますと、なにやら少々、話がちがうんです。
それで、この『長崎海軍伝習所』を読んでみますと、やっぱり、勝さんの話には、そうとうな潤色があるようなんですね。この本の後書きによれば、『海軍歴史』は資料部分は信用できるけれども、そこに勝さんのホラ話がまじるんだとか。いや、実は主に必要な資料部分しか見てないもので、ホラには気づかなかったんですが、資料部分だけ見ていたら、薄ぼんやりともっていた、勝さんイコール旧幕府海軍、みたいなイメージは変ですわ。
それで『長崎海軍伝習所』の著者は、オランダ人が書いた長崎海軍伝習に関する論文と、『海軍歴史』の資料部分だけを使って、この本を書かれたんだそうで。海軍兵学校出の方で、海軍知識が確かで、いい本でした。
そういえば、忘れていましたけど、『軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者』にも、福沢諭吉がなぜ勝海舟を嫌ったか、ということで、勝さんは『海軍歴史』で、あたかも自分一人で幕府海軍を作ったかのようにしてしまっていることが、許せなかったのだと、していましたね。
渡米時の咸臨丸での勝さんを見ていた諭吉さんにとっては、諭吉さんにとっては恩人である木村摂津守をないがしろにして、しかもさっぱり艦長の役目を果たすことができなかったくせに、という思いが、生涯ぬけなかったのだとも。
さらに当時の勝さんは、年下の木村奉行が、航海術も知らないのに、門閥であるというだけで咸臨丸の長におさまっているのが気に入らなくて、すねていたのだというんですけど。
えーと、じゃあ、あれなんでしょうか。矢田堀の場合は、年下であるのに、自分よりはるかに学問吸収が上で、航海術に長けていたのが、気に入らなかったんでしょうか。出身身分は同じ小普請組で、かわりませんし。
それにしても勝さんは、オランダ海軍伝習では、出来がよくなかったらしいにもかかわらず、カッテンディーケにもうまく取り入っていますし、アメリカ行きも、幕閣への売り込みが功を奏したようなんですのに、すねるって、ねえ。
これじゃあ、咸臨丸の部下たちから嫌われて、帰国後しばらく海軍をはずされた、って話にも、うなずけますわ。
まあ、なんといいますか、歴史は勝者が作る、といいますけどねえ。勝さんも立身出世街道では、勝者だったわけで。
おそらく、薩摩の海軍閥が勝さんを持ち上げたんでしょうね。肥前海軍閥を押さえるために。それに勝さんが、うまく調子をあわせて乗った、と。勝さん、薩摩が好きですしねえ。
いやしかし、やはり、好きにはなれないお方です。
政治的、といっても、大久保利通くらいすさまじく政治的ですと、それはそれで、私はけっこう評価したりするんですが、こう、なんといいますか、ねちねちねちねちと政治的なのは、どうにも好きにはなれないんです、はい。
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いえね、私、勝さんについてはさっぱり詳しくないんです。
なんとなく虫が好かない、とでもいえばいいんでしょうか、妙に好きになれなくって‥‥‥、といいますか、たいして好きではなくとも、その人物について詳しく調べる、ということはあるんですけど、いったいなにをしたっていうの? という気分がぬけなかったんです、この人に関しては。
そこへもってきまして、晩年のおしゃべりぶりが、あまり好感を持てませんで。とはいえ、談話集とかは読んでいて、たしかにおもしろいおしゃべりなんですけど、要するに、おしゃべり男は好みにあわない、わけでして。
で、ですね。甲賀源吾と回天丸、そしてwiki に書きましたような事情で、記事を書いていましたところ、甲賀源吾の師匠だった矢田堀鴻の項目が、ないんですね。『回天艦長 甲賀源吾傳』に写真と略歴が載っていますので、じゃあついでだ、これも書こう! ということになりまして、読み返してあきれました。勝海舟というお方に‥‥‥。
詳しくはwikiの記事を見ていただきたいんですが、矢田堀鴻は、勝海舟より6つ年下で、同期で長崎海軍伝習所でオランダ海軍の伝習を受け、勝さんより優秀だった幕臣なんですね。幕府の最後、海軍総裁を務めますが、維新以降は不遇で、勝さんより先に死に、勝さんが墓碑銘をよせているんです。それがまあ、なんといいますか。
「利刃缺けやすく、敏才伸びがたし」って、ねえ。「鋭い刃物は欠けやすく、学業秀才は案外のびねえもんだよな。あんたの人生もそうだったよ」って、ことですよね? 私が矢田堀の遺族だったら、つっかえしますよ。いくらそれが勝さんから見た真実だったにしても、墓碑銘なんですから。
もちろん、そんなことはwikiには、書いてませんけど。
『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』中央公論社このアイテムの詳細を見る |
で、この本です。この本で、謎がとけました。
私、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、昔読んでいたんですが、読んだ視点が「オランダ人は当時の日本をどう見たか?」というものでして、伝習所に関しては、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』で、薄ぼんやりとしたイメージをもっていたくらいのものでした。それで、幕府海軍といえば勝海舟、という話を、あまり疑ってはいなかったのですが、今回、資料を読んでいますと、どうもおかしいのです。
根本資料の「海軍歴史」は、勝海舟著となっていますように、勝さんが中心になってまとめたものなんですが、それでも、資料部分を読んでいますと、なにやら少々、話がちがうんです。
それで、この『長崎海軍伝習所』を読んでみますと、やっぱり、勝さんの話には、そうとうな潤色があるようなんですね。この本の後書きによれば、『海軍歴史』は資料部分は信用できるけれども、そこに勝さんのホラ話がまじるんだとか。いや、実は主に必要な資料部分しか見てないもので、ホラには気づかなかったんですが、資料部分だけ見ていたら、薄ぼんやりともっていた、勝さんイコール旧幕府海軍、みたいなイメージは変ですわ。
それで『長崎海軍伝習所』の著者は、オランダ人が書いた長崎海軍伝習に関する論文と、『海軍歴史』の資料部分だけを使って、この本を書かれたんだそうで。海軍兵学校出の方で、海軍知識が確かで、いい本でした。
そういえば、忘れていましたけど、『軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者』にも、福沢諭吉がなぜ勝海舟を嫌ったか、ということで、勝さんは『海軍歴史』で、あたかも自分一人で幕府海軍を作ったかのようにしてしまっていることが、許せなかったのだと、していましたね。
渡米時の咸臨丸での勝さんを見ていた諭吉さんにとっては、諭吉さんにとっては恩人である木村摂津守をないがしろにして、しかもさっぱり艦長の役目を果たすことができなかったくせに、という思いが、生涯ぬけなかったのだとも。
さらに当時の勝さんは、年下の木村奉行が、航海術も知らないのに、門閥であるというだけで咸臨丸の長におさまっているのが気に入らなくて、すねていたのだというんですけど。
えーと、じゃあ、あれなんでしょうか。矢田堀の場合は、年下であるのに、自分よりはるかに学問吸収が上で、航海術に長けていたのが、気に入らなかったんでしょうか。出身身分は同じ小普請組で、かわりませんし。
それにしても勝さんは、オランダ海軍伝習では、出来がよくなかったらしいにもかかわらず、カッテンディーケにもうまく取り入っていますし、アメリカ行きも、幕閣への売り込みが功を奏したようなんですのに、すねるって、ねえ。
これじゃあ、咸臨丸の部下たちから嫌われて、帰国後しばらく海軍をはずされた、って話にも、うなずけますわ。
まあ、なんといいますか、歴史は勝者が作る、といいますけどねえ。勝さんも立身出世街道では、勝者だったわけで。
おそらく、薩摩の海軍閥が勝さんを持ち上げたんでしょうね。肥前海軍閥を押さえるために。それに勝さんが、うまく調子をあわせて乗った、と。勝さん、薩摩が好きですしねえ。
いやしかし、やはり、好きにはなれないお方です。
政治的、といっても、大久保利通くらいすさまじく政治的ですと、それはそれで、私はけっこう評価したりするんですが、こう、なんといいますか、ねちねちねちねちと政治的なのは、どうにも好きにはなれないんです、はい。
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