流離譚〈上〉講談社このアイテムの詳細を見る |
『流離譚』は、数多い幕末ものの著作の中で、私にとっては、屈指といっていい名著です。
安岡章太郎氏は、土佐出身の小説家ですが、土佐にいたのはごく幼いころのみです。その著者が、丹念に古文書を読み解いて、幕末維新期を生きた祖先たち、安岡家の人々を描いているんです。
安岡家は土佐郷士で、男たちは勤王党員となり、横死したり、入牢したり、戦死したりもするのですが、ごく日常的な日記や手紙が、幕末維新の動乱に結びついていて、安岡氏の筆は政治的な大局におよび、あの時代に身を置いたかのような確かな感触で、しかし客観的に、描写を重ねています。
最初にこの本を読んだ動機は、昔、吉田東洋暗殺犯の一人である、大石団蔵、後の高見弥一に関心を持ったこと、でした。
吉田東洋暗殺は、土佐勤王党が組織ぐるみで企てた事件で、後の藩内大弾圧につながり、多くの者が死に、土佐郷士はぞくぞくと脱藩し、高市半平太は切腹に終わります。
暗殺志願者は多く、何組かにわかれて狙っていたようですが、最終的に実行したのは、那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の三人です。そうなんです。安岡嘉助は、安岡章太郎氏の血縁です。
三人はただちに脱藩し、島津久光の上洛でわいていた京へ上り、最初は長州藩邸にかくまわれました。しかし、土佐藩庁の追求はきびしく、長州藩邸でかくまいきれなくなり、久坂玄瑞が頼み込んで、薩摩藩邸が引き受けるんですね。
ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ、なんですが、自藩の過激尊攘派は寺田屋で上意討ちにし、しかも、行動をともにしようとした他藩士は国元へ送り返し、後ろ盾のない田中河内介などは殺害し、ですね、土佐藩の重役殺害犯は、かくまって丁寧にもてなす、わけです。
しかし、京の情勢は転変し、長州藩主導で過激尊攘派が主導権を握り、結局、那須信吾、安岡嘉助は薩摩藩邸を出て、同じく土佐郷士の吉村虎太郎とともに、天誅組の義挙に参加したところで、薩摩藩が8.18政変を引き起こします。
天誅組のお話は、またの機会にゆずりたいと思いますが、結論だけいいますと、那須信吾は戦死、安岡嘉助は捕らえられ、翌年、処刑されました。
大石団蔵がなにをしていたかと言いますと‥‥‥、彼は薩摩藩邸をでることなく、薩摩藩士になったんです。寺田屋事件で上意討ちの中心になっていた奈良原喜八郎と親しくなり、その親戚だったかの養子になった、というんですが。
いえ、それだけだったら、私はさほど関心を持たなかったかもしれません。これも昔読んだ犬塚 孝明氏の『薩摩藩英国留学生』によれば、なんと大石団蔵改め高見弥一は、幕末薩摩藩英国留学生の一人になったのです。
なにかもう、すごい転変じゃないですか?
土佐郷士で、勤王党員。刺客を志願して、藩の重役を暗殺。土佐藩にとっては犯罪人で、この事件のために勤王党は壊滅状態。自分が深くかかわった故郷の流血沙汰をよそ目に薩摩の人となり、薩摩藩士でも厳選された数少ないイギリス留学生におさまっているんです。いえ、おそらく、けっこう年がいっていたせいもあるんでしょうけれど、あまりイギリスにはなじめなかったみたいで、短期間で引き上げ、それから後は鹿児島で学校の先生。以降、歴史の表舞台には、いっさい顔を出しません。
いえね、『流離譚』が追っているのは安岡嘉助で、高見弥一のことが詳しく載っているわけではないと、知ってはいたのですが、どういう心境で、弥一がこの転変を選び取ったのか、なにか手かがりでもあるかな、と。
『流離譚』は、人にとって、切っても切れない故郷の原風景への思いを、淡々とうたいあげた物語です。
幕末も押し詰まった時点での、坂本龍馬の心境も、その故郷への執着から読み解いていて、それは、とても説得力のあるものでした。
高見弥一はどうだったのでしょう? なにが彼を故郷から断ち切り、流離させたのか。個人の日常の平安を選び取り、そのことが流離につながったのだとすれば、彼は、もはや帰ることのできなくなった故郷に、どんな思いを抱き、維新後の日々を生きたのでしょうか。
いまなお、そのことが、心にひっかかっています。
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