えーと、またまたフリーメーソンです。昨日のモンブラン伯爵はフリーメーソンか?に続きます。
ネットの情報のみしか知りませんで、しかもそのネット情報でも、現実に確証はないそうなんですが、トーマス・ブレーク・グラバーがフリーメーソンだったのではないか、と言われますと、そうだったかもしれないな、と思います。長崎のグラバー邸には、フリーメイソンのシンボルの入った門があるそうですし。
どうも龍馬との関係で、グラバーのフリーメーソン説は話題にのぼっているようなんですが、薩摩密航留学生をイギリスに送り出した貿易商、グラバーです。ちなみに、長州ファイブは、グラバーの世話ではなく、横浜のジャーデン・マセソン商会の世話だそうです。
このグラバー、モンブラン伯とは犬猿の仲でした。去年、モンブラン伯とグラバーに書いたのですが、グラバーはモンブラン伯について、「非常に嫌な奴でありました。自分は大分彼の邪魔をしてやりました。西洋の言葉で申すと棺に釘を打ってやったのです」とまで言っています。
しかし、ネット上に氾濫するグラバーの陰謀説も、いかがなものか、と思います。維新がなって、グラバーは破産してますし。詳しくは、杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』がお勧めです。
グラバーといい、グラバーやジャーデン・マセソン商会から引き継いで、イギリスで長州や薩摩の留学生の面倒をみたローレンス・オリファント(江戸は極楽である参照)といい、「日本人を文明に導く手伝いをしたい」といった親切を感じますし、そういった親切といいますか、彼らなりの善意は、フリーメーソンの理神論と博愛の精神、あるいはそれに類似した思想、に導かれたものでしょう。
ところで、そのオリファントの影響を強く受けた森有礼が、です。モンブラン伯を、非常に悪く言っているのですね。これは、そういう書簡が残っております。
薩摩をめぐって、モンブランとグラバーが商売の綱引きをしているような関係もありますし、利害は当然ありえると思うのですけれども、例え同じフリーメーソンでも、イギリスとフランスのちがいがかなりあるのではないか、という気もします。
昨日の『宗教VS.国家』でも、そのちがいはある程度わかったのですが、もう少し系統だててフリーメーソンの英仏のちがいを知りたい、ということで、これです。
かなりうまく、フリーメーソンの歴史がまとめられた本だと思います。
そもそも近代フリーメーソンは、モンテスキューなどの啓蒙思想に誘発され、イギリスで生まれた、上流知識人のサロン的結社でした。
会員の絆は、理神論………、えーと、つまり『すべての人間が同意できる宗教』なんだそうで、当時の実態としては、キリスト教の宗派に関係のない、普遍的な神、ですね。「神は天地を創造したが、その後は人間世界に恣意的に介入することなく、自然に内在する合理的な法に基づいてのみ宇宙を統治する」というのですから、一神教的的ではありますが、寛容で、理知的な信仰と、友愛精神です。
アメリカに伝わったのは、このイギリスのフリーメーソンで、昨日書きましたように、今なお、なんらかの信仰(仏教でもイスラム教でもいいそうですが、神道でもいいんですかね? おそらく、普遍的な宗教じゃなければだめなんじゃないでしょうか)が、入会の条件です。
ところが、これがフランスに入ると、少々、様相がちがってきます。
イギリスはイギリス国教会が大多数ですし、これは、国家が管理する宗教です。その次に多いのがプロテスタントで、プロテスタントは、そもそも理神論的な要素を持って生まれ、近代国家と衝突するものでは、なかったんです。
一方フランスは、圧倒的にカトリック教徒が多い国です。カトリックにはローマ教皇の存在がありますし、教会も修道院も、国家に管理されることなく、存在してきたものです。
またカトリックは、古い宗教であるだけに、ですね、土俗的な(普遍的ではない、ローカルな)宗教の要素を取り込んでいて、聖人遺物崇拝だとか、迷信じみた、言い方をかえるならば神秘的な要素を持っていて、理神論とは、折り合わない部分もありました。
それが、18世紀にフランスに入った当初は、神秘主義的な傾向となって現れるのですが、やがて、反カトリック、といいますか、反教皇権的傾向をおび、無神論をまで、許容するに至ることになります。
ここらへんの事情は、以下の別冊宝島233の記事にも、詳しく出てきます。
日本ロッジ元グランド・マスター・ロングインタビュー ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち
今日においてなお歴史的評価が難しいのは、イギリスの次にグランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリーであろう。世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。
イギリスとフランスのフリーメーソンが断絶した1868年というのは、明治元年のことです。
ちなみに、この3年後のパリ・コミューンでは、コミューン側に多数のフリーメーソンが、個人的に参加していたりもしていまして、無神論もごく普通であったわけです。
モンブラン伯爵が、はたして無神論者であったかどうかはわかりませんが、そうであった可能性が、高そうに思えます。昨日見ましたように、当時のフランスの上流、中流家庭では、男は無神論者で、女は熱心なカトリック信者、というのも、けっこうあったりしたようなのですから。
あるいは、無神論者、とはっきりしてはいなくても、日本の葬式仏教的な、冠婚葬祭のみカトリック、という形式的な信仰が、はびこってもいたようなのです。
宗教に対する態度が、イギリス人とはちがったわけなのですね。
とすれば、たとえオリファントとモンブラン伯がともにフリーメーソンであったにしましても(あるいはなかったにしましても、ですが)、理神論に忠実な、といいますか、むしろ熱心な理神論的キリスト教信者であるオリファントから見て、モンブラン伯爵が信用のおける人間に見えるはずもないでしょう。
ところで、このイギリスとフランスの宗教観をくらべてみましたとき、どちらの宗教観が日本に近いか、といえば、フランスです。
モンブラン伯の日本観にしろ、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に出てきますM・ド・モージュ侯爵の来日観察にしろ、フランスの知識人がかなり正確な日本への認識を持ち得たのは、そういう宗教観もあったのではないか、と思うのです。
下の、近代古典学の成立、2.近代古典学の草創 をご覧になってみてください。
新しい価値観の確立と古典学研究所の設置について
産業革命を経、フランス革命をなし遂げた18世紀末の西洋が開始した古典研究は、科学と合理主義を旗印とし、堅固な文献学的手法に拠る点において、縦前のものと質的に異なったものとなった。
先ずこのような近代古典学の中心となったのは、パリである。コレージュ・ド・フランスには、中国学(1814年、初代教授レミュザ)、インド学(1814年、初代教授シェジ)、エジプト学(1831年、初代教授シャンポリオン)の講座が次々に創設され、アジア学会(パリ・1822年)も設立された。
これに刺激を受け、ヨーロッパ各国に古典学の講座が設けられ、また王立アジア学会(ロンドン・1823年)、アメリカ東洋学会(1842年)、ドイツ東洋学会(1847年)等の学会が創立された。
王立アジア学会は1857年にアッシリア学を認定した。
日本学は、関係の深かったオランダにおいてはJ.J.ホフマンが1835年にライデン大学教授となり、パリ東洋語学校ではレオン・ド・ロニーが1863年以来講じ始めた。
後者は第1回国際東洋学者会議(1873年・パリ)では会長となって会議を差配し、議事録の3分の1を日本学関係の論文が占めた。
パリで花開いたアジア学を、オリエンタリズムの産物である、と決めつけることはできないでしょう。
普遍性の根底に宗教を置かない、ということは、他の文明を文明として認める、第一歩であるからです。
パリ東洋語学校の学者であるレオン・ド・ロニーは、モンブラン伯爵と行動をともにしていることが多く、パリの日本学は、おそらく、フリーメーソンのつながりで、オランダのライデン大学から情報を得ることも多かったと思われます。
そういえば私、大昔に澁澤龍彦氏の『秘密結社の手帖』で、フリーメーソンのことを一応読んでおりましたのに、ころりと忘れておりました。
いえ、当時の私は、とても神秘的な、怪しい団体であることを期待しまして、わくわくしながら本を開いたのですが、あまりに神秘と遠い、普通のおじさんばかりがいそうな団体でしたので、がっかりして、忘れてしまったものでした………。
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ネットの情報のみしか知りませんで、しかもそのネット情報でも、現実に確証はないそうなんですが、トーマス・ブレーク・グラバーがフリーメーソンだったのではないか、と言われますと、そうだったかもしれないな、と思います。長崎のグラバー邸には、フリーメイソンのシンボルの入った門があるそうですし。
どうも龍馬との関係で、グラバーのフリーメーソン説は話題にのぼっているようなんですが、薩摩密航留学生をイギリスに送り出した貿易商、グラバーです。ちなみに、長州ファイブは、グラバーの世話ではなく、横浜のジャーデン・マセソン商会の世話だそうです。
このグラバー、モンブラン伯とは犬猿の仲でした。去年、モンブラン伯とグラバーに書いたのですが、グラバーはモンブラン伯について、「非常に嫌な奴でありました。自分は大分彼の邪魔をしてやりました。西洋の言葉で申すと棺に釘を打ってやったのです」とまで言っています。
しかし、ネット上に氾濫するグラバーの陰謀説も、いかがなものか、と思います。維新がなって、グラバーは破産してますし。詳しくは、杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』がお勧めです。
グラバーといい、グラバーやジャーデン・マセソン商会から引き継いで、イギリスで長州や薩摩の留学生の面倒をみたローレンス・オリファント(江戸は極楽である参照)といい、「日本人を文明に導く手伝いをしたい」といった親切を感じますし、そういった親切といいますか、彼らなりの善意は、フリーメーソンの理神論と博愛の精神、あるいはそれに類似した思想、に導かれたものでしょう。
ところで、そのオリファントの影響を強く受けた森有礼が、です。モンブラン伯を、非常に悪く言っているのですね。これは、そういう書簡が残っております。
薩摩をめぐって、モンブランとグラバーが商売の綱引きをしているような関係もありますし、利害は当然ありえると思うのですけれども、例え同じフリーメーソンでも、イギリスとフランスのちがいがかなりあるのではないか、という気もします。
昨日の『宗教VS.国家』でも、そのちがいはある程度わかったのですが、もう少し系統だててフリーメーソンの英仏のちがいを知りたい、ということで、これです。
フリーメーソン創元社このアイテムの詳細を見る |
かなりうまく、フリーメーソンの歴史がまとめられた本だと思います。
そもそも近代フリーメーソンは、モンテスキューなどの啓蒙思想に誘発され、イギリスで生まれた、上流知識人のサロン的結社でした。
会員の絆は、理神論………、えーと、つまり『すべての人間が同意できる宗教』なんだそうで、当時の実態としては、キリスト教の宗派に関係のない、普遍的な神、ですね。「神は天地を創造したが、その後は人間世界に恣意的に介入することなく、自然に内在する合理的な法に基づいてのみ宇宙を統治する」というのですから、一神教的的ではありますが、寛容で、理知的な信仰と、友愛精神です。
アメリカに伝わったのは、このイギリスのフリーメーソンで、昨日書きましたように、今なお、なんらかの信仰(仏教でもイスラム教でもいいそうですが、神道でもいいんですかね? おそらく、普遍的な宗教じゃなければだめなんじゃないでしょうか)が、入会の条件です。
ところが、これがフランスに入ると、少々、様相がちがってきます。
イギリスはイギリス国教会が大多数ですし、これは、国家が管理する宗教です。その次に多いのがプロテスタントで、プロテスタントは、そもそも理神論的な要素を持って生まれ、近代国家と衝突するものでは、なかったんです。
一方フランスは、圧倒的にカトリック教徒が多い国です。カトリックにはローマ教皇の存在がありますし、教会も修道院も、国家に管理されることなく、存在してきたものです。
またカトリックは、古い宗教であるだけに、ですね、土俗的な(普遍的ではない、ローカルな)宗教の要素を取り込んでいて、聖人遺物崇拝だとか、迷信じみた、言い方をかえるならば神秘的な要素を持っていて、理神論とは、折り合わない部分もありました。
それが、18世紀にフランスに入った当初は、神秘主義的な傾向となって現れるのですが、やがて、反カトリック、といいますか、反教皇権的傾向をおび、無神論をまで、許容するに至ることになります。
ここらへんの事情は、以下の別冊宝島233の記事にも、詳しく出てきます。
日本ロッジ元グランド・マスター・ロングインタビュー ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち
今日においてなお歴史的評価が難しいのは、イギリスの次にグランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリーであろう。世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。
イギリスとフランスのフリーメーソンが断絶した1868年というのは、明治元年のことです。
ちなみに、この3年後のパリ・コミューンでは、コミューン側に多数のフリーメーソンが、個人的に参加していたりもしていまして、無神論もごく普通であったわけです。
モンブラン伯爵が、はたして無神論者であったかどうかはわかりませんが、そうであった可能性が、高そうに思えます。昨日見ましたように、当時のフランスの上流、中流家庭では、男は無神論者で、女は熱心なカトリック信者、というのも、けっこうあったりしたようなのですから。
あるいは、無神論者、とはっきりしてはいなくても、日本の葬式仏教的な、冠婚葬祭のみカトリック、という形式的な信仰が、はびこってもいたようなのです。
宗教に対する態度が、イギリス人とはちがったわけなのですね。
とすれば、たとえオリファントとモンブラン伯がともにフリーメーソンであったにしましても(あるいはなかったにしましても、ですが)、理神論に忠実な、といいますか、むしろ熱心な理神論的キリスト教信者であるオリファントから見て、モンブラン伯爵が信用のおける人間に見えるはずもないでしょう。
ところで、このイギリスとフランスの宗教観をくらべてみましたとき、どちらの宗教観が日本に近いか、といえば、フランスです。
モンブラン伯の日本観にしろ、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に出てきますM・ド・モージュ侯爵の来日観察にしろ、フランスの知識人がかなり正確な日本への認識を持ち得たのは、そういう宗教観もあったのではないか、と思うのです。
下の、近代古典学の成立、2.近代古典学の草創 をご覧になってみてください。
新しい価値観の確立と古典学研究所の設置について
産業革命を経、フランス革命をなし遂げた18世紀末の西洋が開始した古典研究は、科学と合理主義を旗印とし、堅固な文献学的手法に拠る点において、縦前のものと質的に異なったものとなった。
先ずこのような近代古典学の中心となったのは、パリである。コレージュ・ド・フランスには、中国学(1814年、初代教授レミュザ)、インド学(1814年、初代教授シェジ)、エジプト学(1831年、初代教授シャンポリオン)の講座が次々に創設され、アジア学会(パリ・1822年)も設立された。
これに刺激を受け、ヨーロッパ各国に古典学の講座が設けられ、また王立アジア学会(ロンドン・1823年)、アメリカ東洋学会(1842年)、ドイツ東洋学会(1847年)等の学会が創立された。
王立アジア学会は1857年にアッシリア学を認定した。
日本学は、関係の深かったオランダにおいてはJ.J.ホフマンが1835年にライデン大学教授となり、パリ東洋語学校ではレオン・ド・ロニーが1863年以来講じ始めた。
後者は第1回国際東洋学者会議(1873年・パリ)では会長となって会議を差配し、議事録の3分の1を日本学関係の論文が占めた。
パリで花開いたアジア学を、オリエンタリズムの産物である、と決めつけることはできないでしょう。
普遍性の根底に宗教を置かない、ということは、他の文明を文明として認める、第一歩であるからです。
パリ東洋語学校の学者であるレオン・ド・ロニーは、モンブラン伯爵と行動をともにしていることが多く、パリの日本学は、おそらく、フリーメーソンのつながりで、オランダのライデン大学から情報を得ることも多かったと思われます。
そういえば私、大昔に澁澤龍彦氏の『秘密結社の手帖』で、フリーメーソンのことを一応読んでおりましたのに、ころりと忘れておりました。
いえ、当時の私は、とても神秘的な、怪しい団体であることを期待しまして、わくわくしながら本を開いたのですが、あまりに神秘と遠い、普通のおじさんばかりがいそうな団体でしたので、がっかりして、忘れてしまったものでした………。
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