今回も生麦です。真説生麦事件 上、真説生麦事件 下、生麦事件 補足、生麦事件 余録に続きます。
コメント欄では触れたのですが、今回、吉村昭氏の「生麦事件」を読み返し、あらためて、氏がかなり広範に史料を読み込まれて、事件を再現なさっておられたことがわかりました。私の再現と、大きくちがっていたのは「鉄砲隊」の位置、なのですが、それがちがった理由も、長岡さまのご指摘で、納得しました。吉村氏は、明治45年の久木村へのインタビューを、ある程度まで信用なさったんですね。これを信用なさると、仕方がないのかなあ、という気がします。
あと、久光が生麦村でお茶休憩した「藤屋」なんですが、これを吉村氏は、「立場茶屋の藤屋伝七方」とされているんです。
実は、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』には、慶応元年の「生麦村往還軒並間数畳数書上帖」から作製されました、東海道沿い2キロにわたり185軒が密集した生麦村集落の図が載っています。
よく紹介されていますベアドの生麦村の写真は、どうも、この密集集落ではなく、そこから500メートルほど神奈川寄りで、リチャードソンの落馬位置に近い桐屋のあたりなのではないか、と思います。185軒がすきまなく軒を連ねている様子は、うかがえませんので。
それで、生麦村の密集集落図なのですが、他の史料からわかるものは、その家の主と商売の種類が書いてあります。
リチャードソンが最初に斬られた場所が目の前だったという勘左衛門の家は、ちゃんと書いてあり、豆腐屋で、これは、もし藤屋がこの集落の神奈川宿よりの端にある立場茶屋ならば、弁之助の語る距離感覚がぴったりの位置なのです。
ところが、藤屋とか、屋号が書かれているものはなく、名前で見るしかないものでして、私、吉村氏の記述通りに「伝七」でさがしましたところ、一応、「寛延元年 酒食肴類荷売 伝七」という家がありはしたのですが、勘左衛門の家に近すぎるんですね。これはおかしい、と思って、検索をかけてみましたら、どうも神奈川宿に、有名な、唄にまでなった藤屋という茶屋があったみたいで、もしかして、吉村氏は、そちらとまちがえられて、「伝七」とされたのではないか、と思ったんです。
とはいえ、確証はなく、気にかかっていたのですが、長岡さまにコピーをお送りしようとして、また本をペラペラっとめくっていましたら、生麦事件の翌年、文久3年の関口日記に、藤屋万三郎が「照続火事物騒」を理由にたんすを預かって欲しいと依頼してくる。と、あるじゃないですか!
万三郎なら、やはり関口日記で、慶応元年、家茂将軍上洛時に、生麦村の休憩所となった、とされている家です。
集落図に場所こそ載ってないのですが、端っこと考えられます。すっきりしました!
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コメント欄では触れたのですが、今回、吉村昭氏の「生麦事件」を読み返し、あらためて、氏がかなり広範に史料を読み込まれて、事件を再現なさっておられたことがわかりました。私の再現と、大きくちがっていたのは「鉄砲隊」の位置、なのですが、それがちがった理由も、長岡さまのご指摘で、納得しました。吉村氏は、明治45年の久木村へのインタビューを、ある程度まで信用なさったんですね。これを信用なさると、仕方がないのかなあ、という気がします。
あと、久光が生麦村でお茶休憩した「藤屋」なんですが、これを吉村氏は、「立場茶屋の藤屋伝七方」とされているんです。
実は、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』には、慶応元年の「生麦村往還軒並間数畳数書上帖」から作製されました、東海道沿い2キロにわたり185軒が密集した生麦村集落の図が載っています。
よく紹介されていますベアドの生麦村の写真は、どうも、この密集集落ではなく、そこから500メートルほど神奈川寄りで、リチャードソンの落馬位置に近い桐屋のあたりなのではないか、と思います。185軒がすきまなく軒を連ねている様子は、うかがえませんので。
それで、生麦村の密集集落図なのですが、他の史料からわかるものは、その家の主と商売の種類が書いてあります。
リチャードソンが最初に斬られた場所が目の前だったという勘左衛門の家は、ちゃんと書いてあり、豆腐屋で、これは、もし藤屋がこの集落の神奈川宿よりの端にある立場茶屋ならば、弁之助の語る距離感覚がぴったりの位置なのです。
ところが、藤屋とか、屋号が書かれているものはなく、名前で見るしかないものでして、私、吉村氏の記述通りに「伝七」でさがしましたところ、一応、「寛延元年 酒食肴類荷売 伝七」という家がありはしたのですが、勘左衛門の家に近すぎるんですね。これはおかしい、と思って、検索をかけてみましたら、どうも神奈川宿に、有名な、唄にまでなった藤屋という茶屋があったみたいで、もしかして、吉村氏は、そちらとまちがえられて、「伝七」とされたのではないか、と思ったんです。
とはいえ、確証はなく、気にかかっていたのですが、長岡さまにコピーをお送りしようとして、また本をペラペラっとめくっていましたら、生麦事件の翌年、文久3年の関口日記に、藤屋万三郎が「照続火事物騒」を理由にたんすを預かって欲しいと依頼してくる。と、あるじゃないですか!
万三郎なら、やはり関口日記で、慶応元年、家茂将軍上洛時に、生麦村の休憩所となった、とされている家です。
集落図に場所こそ載ってないのですが、端っこと考えられます。すっきりしました!
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