郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件考 vol3

2009年02月08日 | 生麦事件
 生麦事件考 vol2の続きです。
 今回、春山育次郎のエッセイに基づいて、海江田の動きを追う予定なのですが、では、奈良原繁、つまり弟がどこにいたかについて、市来四郎の史談会速記録も見る必要があります。長岡さまがコピーを送ってくださるそうなのですが、まだいただいておりませんので、ご著書とブログの抜き書きを、参考にさせていただきます。


新釈 生麦事件物語
長岡 由秀
文藝春秋企画出版部

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 さて、宮里たちよりも、はるかに神奈川より、といいますより、どうもすでに生麦村をぬけ、神奈川宿の領域に入っていたらしい海江田です。
 宮里たちと同じように、すれちがった異人たちのうち3人が、やがて必死の形相で引き返してきて、最後に乗り手を失った空馬が行くのを見て、やはり引き返しはじめます。そして、黒田了介(清隆)が「白刃を携えて」駆けてくるのに行きあいます。
 これは、後年の回顧談の聞き書きですので、おそらくは宮里たちが出会ったときと同じく、黒田は本多源五といっしょだったのでしょうし、「白刃を携えて」などいなかったのではないか、と思われます。
 海江田が黒田に、「なにが起こった?」とたずねると、黒田は息をきらせながら「奈良原喜左衛門殿が外人を斬った」と答え捨てて、「いづれへか馳せ行きたり」
とあるんですが、「いづれへか」って……、これは、春山育次郎が大きな勘違いをして、海江田が行列より後ろにいた、と思ってしまったための錯誤でしょう。海江田が行列の後ろにいたのなら、いったい黒田はなんのために来た道をひっくり返していたのかわかりません。実際の所は、一本道の行く手は行列の前方、神奈川宿です。
 おそらく、神奈川宿のその日の宿泊予定先には、すでに到着していた藩士たちもいたでしょうし、黒田は事件を知らせると同時に、逃げた3人がどうなったか確かめようと、前方に向かったとしか考えられません。

 やがて海江田は、リチャードソンの落馬地点を通りかかりますが、宮里たちとちがって、その姿に気づきません。おそらく、なのですが、引き返した藩士は宮里たちと海江田だけではなかったでしょうし、武器を携えた藩士たちに、次々とにらまれるのに怯えたリチャードソンが、力を振り絞って、街道から直接見えないところまで身体を動かしたのではないでしょうか。

 海江田は、引き返した藩士のほぼしんがりであったらしく、あたりは静まりかえっています。
 久光が休憩する予定の藤屋までは、もう数百メートルですが、そこに、甘酒を売る茶屋がありました。
 私、どうも位置からして、この甘酒を売っていた茶屋が桐屋であり、生麦事件 余録で書きましたスペイン美人の茶屋だったのではないか、と思います。
 海江田は、この茶屋に立ち寄り、「なにか起こったか?」と聞きましたところ、あるじの女、……おそらくはリチャードソン悲話を語り継いだスペイン美人が、「さきほど薩摩様の御供の衆が異人をお斬りなされて大騒ぎになり、斬られた異人は、ほら、まだそこにおりますよ」というので、教えられるままに……、といいますから、案内されたのでしょう。行ってみますと、リチャードソンは、畑の堤によりかかり、傍らの草をひきむしって傷口にあて、出血をとめようとしていましたが、海江田が近づいてくるのを見て、ひどく驚いた様子で、狂ったようになにかを言っていいました。しかし海江田には、言っていることがさっぱりわかりませんでした。
 ここで文章はとぎれ、薩藩海軍史が書くように、「海江田が介錯した」などとは、どこにも出てきません。代わりに、括弧つきで、以下のように書いてあるのです。

(子爵のここに来たりし時、喜左衛門の弟にて当時幸五郎といへりし今の沖縄県知事奈良原男爵、家兄が外人を斬りしよしききて来たれり、外人はいづくにあるぞとて忙しく訪ねいたりしを始めとして、この間子爵の話はなほ多かりけれど、はばかることあれば、省きてここには記さず)

 つまり春山は、「海江田がリチャードソンを見つけたとき、喜左衛門の弟の繁が、兄が外人を斬ったと聞いていて、その斬られた外人はどこにいるんだと、忙しなく訪ね歩いていた。そのことにはじまり、海江田は詳しく語ってくれたが、はばかることがあるので、ここには書かないことにする」というのですね。

 真説生麦事件 下において、リチャードソンたちは、「藤屋の前に並んだ駕籠や従者たちの雑踏も、行きは、うまくよけていたのでしょうけれども、逃げている身に、そんな余裕はありません。馬上で血を流しながら、次々と駕籠はひっくりかえすは、従者を蹄にかけて怪我をさせるはの大騒動でしたが、怒り心頭に発したのは、駕籠の中で久光の到着を待っていた先供の人々です。この中に、海江田も奈良原弟もいたのではないか、という推測は、主に、後年の史談会速記録における、市来四郎の証言によるものです」と書きました。
 海江田については、もっと先へ進んでいたらしいことがわかりましたが、奈良原繁は、このひっくり返された駕籠の中にいた、と考えていいのではないでしょうか。明治25年の史談会において、市来四郎はこういっているのです。

「今の繁(沖縄県知事)は、先供でござります。兄なるものが斬りつけたから、助太刀した位なことに聞いております。ほかに三、四名も楽み半分に切試したということでござります。そういうことで、誰れが斬るとも知れず、ずたずたにやったそうです」

 そして、弁之助は、藤屋の前の駕籠の中にいたのは先供の人々だと、いっているのですから。
 ただ、弁之助がいうように、駕籠の中の人々は、ひっくり返されて怒り心頭に発し、ただちにリチャードソンたちの後を追いかけたのではなく、とりあえずは状況を把握しようと、黒田と本多が「奈良原喜左衛門が外人二人を斬った」という情報を持って駆けつけてくるのを、待っていたのではないでしょうか。

 ここで奈良原繁の頭にあったのは、「斬り留め損なうことは武士の恥」でしょう。通常の無礼討ちの感覚でいうならば、4人を逃がしてしまえば、もしかすると喜左衛門は、それを恥じて切腹、ということになるとも考えられます。
 そういう兄への思いに、駕籠をひっくりかえされた憤りが加わり、怒り心頭に発していたのでしょうけれども、馬で逃げたものを追いかけても、追いつけるはずもありません。
 ところが、そうこうするうちに、宮里たちのように、引き返す途中、落馬して路傍に倒れたリチャードソンを見て来た者が到着し、これなら少なくとも一人は斬り留められると、無礼討ちにおける助太刀の規定も斟酌することなく、同じ先供仲間か、あるいは槍を持った前駆の者も加わっていたのか、それはわかりませんが、数人でリチャードソンをさがすべく飛び出したのでしょう。

 海江田と喜左衛門たちがリチャードソンを見つけ、そしてなにが起こったか、春山は、(はばかることあれば、省きてここには記さず)と書きながら、実はその直後に、「英人の記する所」として、そのはばかるところを書いているのです。つまり、海江田が語ったことだといえばはばかりがあるけれども、イギリス人がこう書いている、というならば、はばかりはなくなるわけです。

  外人はただ一太刀あび馬より落ちたるばかりにて、こうむれりし創(きず)もさまで重からず、もとより生命を失うほどのことにはあらざりしを、後におよび、あらぬ人に訪はれて、終にあはれの最後をとげたり。

 この前段をも含めた大意は、以下です。
 喜左衛門は、行列を突き抜けようとする外人の無礼を制するために、とっさの間、後ろより(後ろから、となっているのは、春山がイギリス人の書いたことを信じて、リチャードソンが行列の後ろから来た、と思っていたためです)、抜き打ちに斬りかけてこれをさえぎっただけだった。リチャードソンは一太刀あびて落馬して、致命傷というほどの傷をうけたわけでもなかったのに、後になって、そういうことをすべきではない人に襲われ、哀れな最後をとげた。

 後になって落馬したリチャードソンをさがしだし、殺害した「あらぬ人」が奈良原繁と海江田、主に奈良原繁をさしていることは、明白です。

 どうも私、この明治29年に発表された春山育次郎のエッセイは、4年前の市来四郎の発言への反論として、書かれた気がしてなりません。
 市来四郎が、落馬後のリチャードソンの斬殺を語ったことは、元薩摩藩士たちに波紋を投げかけたのではないでしょうか。
 市来四郎は、島津斉彬に重用された洋務官僚でして、明治維新で薩摩の実権を握り、新政府で出世した精忠組の藩士たちとは、そりがあわなかった人物です。西郷隆盛を嫌っていただけでなく、大久保利通をも好んでいなかったようですし、海江田や奈良原も、嫌っていたでしょう。(その市来四郎が、なぜ桐野を高く評価しているのかは、さっぱりわかりません)

 春山も、リチャードソン落馬後の斬殺は、その中心が奈良原繁であることをほのめかして語っているわけですから、それに文句はなかったはずです。ただ、市来四郎の語り方だと、そもそも兄の奈良原喜左衛門の無礼討ち自体が、攘夷感情に基づいた逸脱行為で、そんなことを久光は認めていなかった、ともとれるのです。
 しかし、市来四郎は、このときの久光の行列に参加していたわけではなく、実情を知りません。
 おそらく……、なんですが、薩英戦争後、イギリスとの和平交渉において、市来は独自に、長崎でイギリス東洋艦隊に交渉しているようですから、このときイギリス側から聞かされたリチャードソンの斬殺状況を、鵜呑みにしたのでしょう。そして、落馬後の斬殺はほんとうだったわけなのですから、市来の怒りは、最初の一太刀をあびせた奈良原兄にまで、およんだのではないでしょうか。

 奈良原兄、喜左衛門のの無礼討ちを、久光が認めていなかった、ということは、事実に反します。生麦事件考 vol1で書きましたように、事件直後の藩の公式見解が、「喜左衛門は職務を果たしたのであって、それを咎めるわけにはいかない」だったのです。
 つまり、住宅密集地において、騎馬の外国人が、行列の真正面から乗り入れ、主君の駕籠をおびやかすという未曾有の事態だったのですから、主君の面目と安全を守ることが喜左衛門の職務であり、そういう意味の無礼討ちであってみれば、かならずしも全員斬り留める必要はなく、薩摩藩としては、これを正当な無礼討ちであったと認める、ということでしょう。

 春山は、「あらぬ人」にリチャードソンが斬殺されたことを語った後、その日結局、予定の神奈川駅には泊まらず、行列が保土ヶ谷までいったことを述べ、久光が喜左衛門を呼び、小松帯刀に立ち会わせて、喜左衛門の無礼討ちを認めた場面を克明に描いています。なにか根拠があって書いていることなのかどうかはわかりませんが、「かかる無礼あらしめざるをこそ御供目付の職掌なり」と胸をはる喜左衛門に、久光が「さらばとがむるにおよばず」と応じたとするのは、大久保が佐土原藩へ書いた通達書の内容を、そのまま劇化してみせたようなものではないでしょうか。

 そして春山は、維新前に没し、当時、すでにあまり世間に知られていなかっただろう喜左衛門の人柄を、柴山景綱の談話を持ち出して賞賛し、「久光公にもめで用ひられしが、惜しいかな維新の前、病みて西京(京都)に没し、今は林泉幽致なる東福寺の境内、通天橋のほとりに永く眠れり」と結んでいるのです。

 また春山は、明治以降の海江田の姿を描き、洋行に向けて、海江田が述べていた抱負を語りながら、突然、「その意気の盛んなること、そぞろに奈良原氏と謀りあはせて、英人に一太刀あびせたるそのかみの面影の彷彿としてあらわるるを見たり」と、それまでけっして、海江田がリチャードソンを斬ったとは明言していなかったにもかかわらず、海江田がリチャードソンに一太刀あびせたことを、すでに述べたことであるかのように記します。しかも、「奈良原氏と謀りあはせて」の奈良原氏は、果たして兄なのか弟なのか、どちらともとれる書き方なのです。
 といいますのも、春山はエッセイの最初に、海江田が喜左衛門と「互いに供目付なのだから、もし外人が行列に無礼をはたらけば目にものみせよう」と言い交わした場面を入れていまして、普通に読めば喜左衛門ととれるのですが、そののち、「英人の記する所」を利用して、繁と海江田がリチャードソンを斬殺したことをほのめかしているわけですから、いっしょに刀をふるった繁を暗示したものとも、とれるのです。

 次回、喜左衛門切腹の可能性をさぐって、一応、しめくくります。


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