生麦事件と薩藩海軍史 vol3の続きです。
ただいま、ちょっと呆然としております。
えーとまず、尾佐竹博士が、「生麦事件の真相」を発表したのは、大正10年(1921)、日本歴史地理学会の雑誌「歴史地理」においてのことです。(fhさま、ありがとうございました)
まだ調べはじめたばかりで、証拠をあげることはできないのですが、尾佐竹博士は、おそらくは生麦村の名主だった関口次郎右衛門家において、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、事件当時の生麦村民および村役人の書き上げ(口述書)の写しを、見られ、写し取られたか、あるいは手に入れられた、と推測されます。
もしも、なんですが、博士が手に入れられたとしますと、原本は空襲で焼けたはずです。
この件の詳細については、調べおわってから、また書きたいと思います。
ともかく、「生麦村騒擾記」は、明治40年末から42年の間に、横浜開港50周年の特集記事「開港側面史」の一部として、横浜貿易新報に連載されていた、ようです。(ただいま、バックナンバーを確認中です)。ところが、連載終了直後に連載をまとめて出版した「横浜開港側面史」という本で、「生麦村騒擾記」はきれいさっぱり消えています。
おそらく博士は新聞連載を見られ、その元になった資料をさがされて発掘された、ということなのでしょう。
聞き書きとはいえ、事件当時の生麦村名主・関口次郎右衛門が目を通して手を入れ、一連の書き上げをともなった「生麦村騒擾記」は、私が「意外に正確」と思ったのも実は当然の、かなり筋のいい史料だったのです。
これが無視され続け、かわりに薩藩海軍史が基本文献とされてきた経緯には、薩藩海軍史が尾佐竹博士の「生麦事件の真相」を、利用しながら黙殺したことにかかわってくるでしょう。
ともかく、そういうわけで、とりあえずは順をおって、明治45年、久木村治休(明治45年の鹿児島新聞では知休となっていますが、明治14年の陸軍省の書類に「陸軍憲兵中尉久木村治休」とありますので、そちらをとりたいと思います。当時の新聞のいいかげんさは、尾佐竹博士もたびたび言及されています)、突然の「斬った斬った宣言」です。
前回述べてきましたように、事件から50年たって、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったなどとは、いっていません。
久木村は、重富島津家の領地、姶良郡の郷士でした。
行列の鉄砲儀仗隊は、どうも主に、久光が息子の後見として島津宗家に復帰する以前から久光に仕えていた、重富島津家の郷士から人選されていたような感じを受けます。
つまり、城下士で構成されていた駕籠直前の小姓集団(見届けに走った黒田清隆たちはここにいました)や、駕籠脇の近習たち(松方正義はここですし、伊東祐亨もここにいたといっています)より、身分として軽い集団だったのです。
生麦事件考 vol1、vol2で、考察したことですが、無礼討ちは、無礼討ちと認定されなければ、殺人です。そして、東海道を行く大名行列の無礼討ちを、だれが認定するかといえば、幕府です。
奈良原喜左衛門は、供目付の職掌柄、最初から切腹覚悟でリチャードソンに斬りかかったのであり、全責任を一人で負うつもりであったと、いえるでしょう。
喜左衛門の抜刀で禁制が解かれ、無数の藩士が抜刀し、斬りかかったわけですが、たまたま、喜左衛門をのぞけば、鉄砲儀仗隊の久木村一人しか、傷を負わせることができなかったわけです。
しかし、それはたまたまであって、久木村を問題にするならば、抜刀した全藩士を問題にしなければならないでしょう。
また、リチャードソン落馬後の斬殺にかかわった海江田信義と奈良原繁は、攘夷花盛りの京都で、斬った斬った自慢をしていたわけですが、自慢をするにも久木村は城下士ではなく、藩内に知れわたる、といったものではなかったはずです。
そして、当然のことですが、事件直後の久木村が、自分が斬ったのがだれであるのか、知っていようはずもありません。いえ、斬った相手が死んだかどうかさえ、知りようもなかったわけです。
これについて、久木村がもっとも正直に答えているのは、なぜか、もっとも遅い、昭和11年11月、事件から75年もたって久木村94歳、死の直前のサンデー毎日のインタビューです。
「これは後から聞いたことですが、私が斬ったのは、チャールス・レノックス・リッチャルトンという英国の商人で、川崎大師に参詣の帰途、運悪く行列に出くわしたものでした」
「川崎大師に参詣の帰途」では、春山育次郎の話と同じで、リチャードソン一行は行列を追いかけていたことになってしまうのですが、なぜか日本で、一般にひろまっていた話のようです。
それにしても、「後から聞いた」って、いったいだれが、久木村がリチャードソンを斬ったと、証言できるでしょう? 唯一の第3者の現場目撃証言である「生麦村騒擾記」は、「行列前方で斬られたのはマーシャル一人」としているんです。
事件の50年後、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったとは、いっていません。
以下、明治45年、鹿児島新聞に載った久木村の「斬った斬った宣言」です。
「むやみに切るわけにもいかず、指をくわえてやり過ごして行くと、たちまち後列の方でがやがやと騒々しい物音がする。ハッと思ったとっさに、やったなと、刀の鞘に手をかけて振り向くと、一人の英人が片腹を押さえて懸命に駆けてくる。いよいよご馳走がやってくる。今度こそは……と思ったから、その近寄るのを待っている。馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている。ちょうど近寄るのを待ち、構えて腰なる一刀スラッと抜き打ちに切った。刀は波の平安国の銘刀二尺六寸五分の業物で、おれのような小男にはちと長すぎるほどじゃった。が確かに手応えはあった。見るとやはり片腹をやったので真紅な疵口から血の塊がコロコロと草の上に落ちた。なんでも奴の心臓らしかった。
今一太刀とおっかけたが先方は馬、わしは膝栗毛じゃからとても追いつかぬ。振り返ってみるとまた一人駆けて来る。ぞうさはない。例のぬき打ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追っかけたが、とうとう追いつかなかった。
死んだ英人チャールス・レノックス・リチャルトソンというは確か先に切ったので、後に切ったのはウィリアム・マーシャルでこれは重傷じゃ」
心臓がコロコロころがったら、生きてないだろうがっ!!!と、つっこみを入れたくなるんですが、これがどうも………、茶利とばかりもいえないんです。
まず、久木村証言当時、すでに新聞連載されていたはずの「生麦村騒擾記」には、久光が休憩予定の藤屋の付近において、次のようなことがあった、と書いてあります。
なかにも重傷を負いたる一人の夷人は、馬の踊るに従って脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちしを、一頭の犬駆け来たりて海辺の方へくわえ去れり。
実は、軽傷だったマーシャルも、神奈川において、「臓腑を落とした」と噂されたのですが、結局落ちたのは赤いブランケットだったという話で、当時の日本人は、こういう噂が好きだったみたいです。
したがって、これも臓腑が落ちたものとは思えないのですが、ともかく、こういう目撃談が発表されていました。
これに、事件の翌日、ジャパン・ヘラルドが掲載した、リチャードソンの遺体の損傷記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせれば、心臓コロコロも、けっしてありえない話ではないことになるのです。
古いむしろ2枚がかぶせてあり、それを取りのぞくと最も恐ろしくぞっとする光景が現れた。体全体が血の塊であった。はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた。心臓部には槍の傷穴があった。右手首は完全に切り話され、手は肉片一つでぶら下がっていた。左手の後部はほとんど切り裂かれ、頭部を動かしてみると首は左側が完全に切られていた。最初に述べた二つの傷は明らかに初め馬上にいる間に受けたものであり、後の四つの傷、少なくとも二つは、死後でなくとも落馬後加えられたものであることは確かであった。
事件直後だっただけに、このジャパン・ヘラルドの記事は矛楯をはらんでいます。
「はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた」という二つの傷が、「明らかに初め馬上にいる間に受けたもの」であるならば、リチャードソンは、その場で落馬してほぼ即死し、以降、口をきいたりできる状態にはなかったでしょう。
しかし、骨ごと胸まで切り裂かれていたならば、心臓コロコロもおかしくないのです。
しかしなお久木村が、「やはり片腹をやったので」と述べていることについては、「生麦村騒擾記」の「脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちし」にひきずられて本人がしゃべったか、あるいは、記者がおぎなったものではないでしょうか。
もちろん、最初に喜左衛門がリチャードソンにおわせた深手については、前回書いたように、「生麦村騒擾記」において「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と書かれています。
尾佐竹博士の記述からして、関口次郎右衛門家には、村役人たちのリチャードソン遺体検死の書き上げ(口述書)の写しが保存されていた様子で、だとすれば、「生麦村騒擾記」におけるリチャードソンの傷の描写は、かなり正確なものである、といえるでしょう。
久木村の「斬った斬った宣言」から10年後、尾佐竹博士は「生麦事件の真相」を執筆したわけですが、やはり、このジャパン・ヘラルドの記事を持ち出され、喜左衛門に重ねて、久木村は「正面から左の脇腹へ十分に斬り込んだものとみえる」としておられます。
しかし、ジャパン・ヘラルドのさらに詳しい後追い記事で、この傷を見れば、以下のように、あきらかに身体正面、心臓部分のものであり、左脇腹には関係ないのです。
左側の鎖骨の約2インチ(およそ5センチ)下に、長さ約5インチ(13センチ)の横の創傷がある。それは中央の線から前後左右に伸びていて、二番目と三番目の肋骨を切断し、胸部に口を開けさせている。
リチャードソン落馬後の据え斬りで、心臓をえぐり出したときの傷、と考えた方がぴったりきます。
実は、ヘラルドの詳細な検死記事では、腹部に関係するものとして4つがあげられていて、もしも本当に、久木村がリチャードソンを斬ったものならば、こちらの方をあてるべきでしょう。
一つは、前回述べたものです。
軟骨の3インチ(およそ7.5センチ)下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている。
これにつけ加えて、あきらかに落馬後のものと見られる突き傷が二つあります。槍でやられたものらしく、この二つが上と重なり、日本側の話が、「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と大きくなったものと思われます。
「約3インチの長さの横の創傷」の4インチ(およそ10センチ)下および右側に1インチ(およそ2.5センチ)の刺し傷。腹部に口を開けさせている。
腹部の1インチ上に長さ1インチの刺し傷。それは腹部に口を開けさせている。
もう一つが大傷なのですが、これは背後からのものです。
中央線の後方に始まり、肩甲骨の下部の角のほぼ反対側まで、左側のまわりの下方または外側に、腸骨の前にある上位棘状突起の約2インチ(およそ5センチ)上まで、ひじょうに大きな創傷。肋骨を切断し、そこから肺や胃の一部をのぞかせ、16インチ(およそ40センチ)の長さの大腸、小腸がはみだしている。
つまり、これは背中の肋骨を、肺や胃が見えるまでに切断し、腸が引きずり出されていた、という記述なんですが、まずこれは、左脇腹というよりは、左背中の肋骨を切断した傷です。必死で馬で逃げているリチャードソンに、こんな重傷を負わせることができるものなのでしょうか。これも落馬後、左背後を袈裟がけに斬ったもの、と考えた方が自然でしょう。
もう一つ、久木村が述べていないことを、尾佐竹博士は推測しておられます。
「『馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている』のを斬ったというから、名主の書上の異人疵所に、『左の腕甲二寸(6センチ)ほど』とあるのはこの時で、押さえた手の甲をも斬ったのであろう」
この「久木村が左手もろとも斬っただろう」という尾佐竹博士の推測は、薩藩海軍史がそのまま踏襲します。
「リチャードソンは、切られたる創口を左手にて押さえ、右手に手綱を取て一丁(およそ100メートル)ばかり逃走せしが、鉄砲組の久木村利休のため、また再び左腹の同所を、左手の甲にかけて切付けられ」
久木村利休という名前のまちがいもそのままに、尾佐竹博士の著作を写しているわけです。
薩藩海軍史が書かれた昭和3年、久木村は生存しているんですが、さっぱり、話を聞き取った様子もありません。
ただ、尾佐竹博士が、リチャードソンの左腹の大傷を、「二人が斬ったため複合してよくはわからない」としているのに対して、薩藩海軍史の著者は、どうも、ジャパン・ヘラルドの詳しい方の検死報告を読んでいたようです。
「奈良原(喜左衛門)は二尺五寸の近江大椽藤原忠広の一刀をもって、彼の左肩の下より斜めに、すなわち肋骨より腹部に切り下げ、血潮の分れて迸り出したるは、輿側よりも見ることを得たりという」
つまり、薩藩海軍史は、ヘラルドがいう背中肋骨切断の大傷は、最初に喜左衛門が斬りつけたものとし、左脇腹の横の傷が、久木村が負わせたもの、としたわけです。
たしかに、これで話がもっともらしくなった、といえばそうなのですが、喜左衛門が、リチャードソンの左背中の肋骨をほぼ縦に切断していたのならば、左脇腹の傷はこのとき、腸が出るほどのものではなく、リチャードソンが左脇腹を押さえて逃げていた、という話があやしくなります。
さらに、肋骨が切断され、胃や肺が見えるほどの重傷ならば、この後、口をきいたりできたものなのでしょうか。
そして、実はリチャードソンの左手の損傷は、ヘラルドによれば、相当なものでした。
手指にはじまる左腕は、ほとんど完全に切断されている。
以下は、マーシャルの宣誓口述書より、です。
私は「逃げろ」と叫びましたが、私たちの馬が駆け出すまえに、リチャードソンは、すでに、わき腹の左腕の下を切られていました。同じ男は、次に私を襲撃し、左腕の下の同じ所を切りました。
そして、以下は、リチャードソン落馬現場そばに住んでいた、大工の女房およしさんの口述書です。
右落馬いたし候異人義は、並木べりへ倒れ候を見受け候ところ、左のわき腹に深手これあり、苦しみまかりあり候よう、あい見え候。
リアルタイムの証言は、左わき腹の傷しか言及していませんし、クラークとマーシャルは、リチャードソン落馬直前に、リチャードソンと言葉をかわしているんです。
背中の肋骨がきられて、胃やら肺やらが見えていたり、左手がほとんど切断されてとれかかっていれば、話がちがってくるのではないでしょうか。
そして、後世の話になりますが、春山育次郎の「生麦駅」に書かれた、海江田信義からの聞き書きです。
いかにも一人の外人腰のあたりを斬られしとおぼしく、畑の堤によりかかり、傍に生い茂る草をひきむしりて創口にあて、出血をとどめんとするさまなりしが、子爵(海江田)の来たり近くをみて、いたく驚けるが如く、狂いいらちてしきりに何事かいいたれども、子爵には少しもわからざりき。
これに続けては、生麦事件考 vol3で詳しく見ましたが、奈良原繁の名前を出した上で、「英人の記する所」としながら、以下のようにあります。
外人はただ一太刀あび馬より落ちたるばかりにて、こうむれりし創(きず)もさまで重からず、もとより生命を失うほどのことにはあらざりしを、後におよび、あらぬ人に訪はれて、終にあはれの最後をとげたり。
海江田信義は、少なくとも春山に、「リチャードソンは一太刀しかあびておらず、傷は命を失うほどのものではなかった」と語り、それを春山がエッセイに書いたとき、訂正を求めた様子はありません。
この傍証としては、真説生麦事件 上でぬき書きしました、那須信吾の書簡があります。
「秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎(繁)などの働きと承り候」
土佐の那須信吾は、当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていて、海江田から直接話を聞いた可能性が高いのです。
落馬後のリチャードソンに出くわした海江田信義、奈良原繁たちの当時の認識では、リチャードソンは生きていて、彼を斬り殺したのは自分たちだったのです。
事件から50年も後に、いったいなぜ、久木村は突然、リチャードソンを斬った、と言い出したのでしょうか。
長くなりましたので、続きます。
人気blogランキングへ
ただいま、ちょっと呆然としております。
えーとまず、尾佐竹博士が、「生麦事件の真相」を発表したのは、大正10年(1921)、日本歴史地理学会の雑誌「歴史地理」においてのことです。(fhさま、ありがとうございました)
まだ調べはじめたばかりで、証拠をあげることはできないのですが、尾佐竹博士は、おそらくは生麦村の名主だった関口次郎右衛門家において、明治28年の「生麦村騒擾記」写本と、事件当時の生麦村民および村役人の書き上げ(口述書)の写しを、見られ、写し取られたか、あるいは手に入れられた、と推測されます。
もしも、なんですが、博士が手に入れられたとしますと、原本は空襲で焼けたはずです。
この件の詳細については、調べおわってから、また書きたいと思います。
ともかく、「生麦村騒擾記」は、明治40年末から42年の間に、横浜開港50周年の特集記事「開港側面史」の一部として、横浜貿易新報に連載されていた、ようです。(ただいま、バックナンバーを確認中です)。ところが、連載終了直後に連載をまとめて出版した「横浜開港側面史」という本で、「生麦村騒擾記」はきれいさっぱり消えています。
おそらく博士は新聞連載を見られ、その元になった資料をさがされて発掘された、ということなのでしょう。
聞き書きとはいえ、事件当時の生麦村名主・関口次郎右衛門が目を通して手を入れ、一連の書き上げをともなった「生麦村騒擾記」は、私が「意外に正確」と思ったのも実は当然の、かなり筋のいい史料だったのです。
これが無視され続け、かわりに薩藩海軍史が基本文献とされてきた経緯には、薩藩海軍史が尾佐竹博士の「生麦事件の真相」を、利用しながら黙殺したことにかかわってくるでしょう。
ともかく、そういうわけで、とりあえずは順をおって、明治45年、久木村治休(明治45年の鹿児島新聞では知休となっていますが、明治14年の陸軍省の書類に「陸軍憲兵中尉久木村治休」とありますので、そちらをとりたいと思います。当時の新聞のいいかげんさは、尾佐竹博士もたびたび言及されています)、突然の「斬った斬った宣言」です。
前回述べてきましたように、事件から50年たって、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったなどとは、いっていません。
久木村は、重富島津家の領地、姶良郡の郷士でした。
行列の鉄砲儀仗隊は、どうも主に、久光が息子の後見として島津宗家に復帰する以前から久光に仕えていた、重富島津家の郷士から人選されていたような感じを受けます。
つまり、城下士で構成されていた駕籠直前の小姓集団(見届けに走った黒田清隆たちはここにいました)や、駕籠脇の近習たち(松方正義はここですし、伊東祐亨もここにいたといっています)より、身分として軽い集団だったのです。
生麦事件考 vol1、vol2で、考察したことですが、無礼討ちは、無礼討ちと認定されなければ、殺人です。そして、東海道を行く大名行列の無礼討ちを、だれが認定するかといえば、幕府です。
奈良原喜左衛門は、供目付の職掌柄、最初から切腹覚悟でリチャードソンに斬りかかったのであり、全責任を一人で負うつもりであったと、いえるでしょう。
喜左衛門の抜刀で禁制が解かれ、無数の藩士が抜刀し、斬りかかったわけですが、たまたま、喜左衛門をのぞけば、鉄砲儀仗隊の久木村一人しか、傷を負わせることができなかったわけです。
しかし、それはたまたまであって、久木村を問題にするならば、抜刀した全藩士を問題にしなければならないでしょう。
また、リチャードソン落馬後の斬殺にかかわった海江田信義と奈良原繁は、攘夷花盛りの京都で、斬った斬った自慢をしていたわけですが、自慢をするにも久木村は城下士ではなく、藩内に知れわたる、といったものではなかったはずです。
そして、当然のことですが、事件直後の久木村が、自分が斬ったのがだれであるのか、知っていようはずもありません。いえ、斬った相手が死んだかどうかさえ、知りようもなかったわけです。
これについて、久木村がもっとも正直に答えているのは、なぜか、もっとも遅い、昭和11年11月、事件から75年もたって久木村94歳、死の直前のサンデー毎日のインタビューです。
「これは後から聞いたことですが、私が斬ったのは、チャールス・レノックス・リッチャルトンという英国の商人で、川崎大師に参詣の帰途、運悪く行列に出くわしたものでした」
「川崎大師に参詣の帰途」では、春山育次郎の話と同じで、リチャードソン一行は行列を追いかけていたことになってしまうのですが、なぜか日本で、一般にひろまっていた話のようです。
それにしても、「後から聞いた」って、いったいだれが、久木村がリチャードソンを斬ったと、証言できるでしょう? 唯一の第3者の現場目撃証言である「生麦村騒擾記」は、「行列前方で斬られたのはマーシャル一人」としているんです。
事件の50年後、久木村が自分から言い出すまで、だれも久木村がリチャードソンを斬ったとは、いっていません。
以下、明治45年、鹿児島新聞に載った久木村の「斬った斬った宣言」です。
「むやみに切るわけにもいかず、指をくわえてやり過ごして行くと、たちまち後列の方でがやがやと騒々しい物音がする。ハッと思ったとっさに、やったなと、刀の鞘に手をかけて振り向くと、一人の英人が片腹を押さえて懸命に駆けてくる。いよいよご馳走がやってくる。今度こそは……と思ったから、その近寄るのを待っている。馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている。ちょうど近寄るのを待ち、構えて腰なる一刀スラッと抜き打ちに切った。刀は波の平安国の銘刀二尺六寸五分の業物で、おれのような小男にはちと長すぎるほどじゃった。が確かに手応えはあった。見るとやはり片腹をやったので真紅な疵口から血の塊がコロコロと草の上に落ちた。なんでも奴の心臓らしかった。
今一太刀とおっかけたが先方は馬、わしは膝栗毛じゃからとても追いつかぬ。振り返ってみるとまた一人駆けて来る。ぞうさはない。例のぬき打ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追っかけたが、とうとう追いつかなかった。
死んだ英人チャールス・レノックス・リチャルトソンというは確か先に切ったので、後に切ったのはウィリアム・マーシャルでこれは重傷じゃ」
心臓がコロコロころがったら、生きてないだろうがっ!!!と、つっこみを入れたくなるんですが、これがどうも………、茶利とばかりもいえないんです。
まず、久木村証言当時、すでに新聞連載されていたはずの「生麦村騒擾記」には、久光が休憩予定の藤屋の付近において、次のようなことがあった、と書いてあります。
なかにも重傷を負いたる一人の夷人は、馬の踊るに従って脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちしを、一頭の犬駆け来たりて海辺の方へくわえ去れり。
実は、軽傷だったマーシャルも、神奈川において、「臓腑を落とした」と噂されたのですが、結局落ちたのは赤いブランケットだったという話で、当時の日本人は、こういう噂が好きだったみたいです。
したがって、これも臓腑が落ちたものとは思えないのですが、ともかく、こういう目撃談が発表されていました。
これに、事件の翌日、ジャパン・ヘラルドが掲載した、リチャードソンの遺体の損傷記事(同年11月28日にロンドン・タイムズに転載)をあわせれば、心臓コロコロも、けっしてありえない話ではないことになるのです。
古いむしろ2枚がかぶせてあり、それを取りのぞくと最も恐ろしくぞっとする光景が現れた。体全体が血の塊であった。はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた。心臓部には槍の傷穴があった。右手首は完全に切り話され、手は肉片一つでぶら下がっていた。左手の後部はほとんど切り裂かれ、頭部を動かしてみると首は左側が完全に切られていた。最初に述べた二つの傷は明らかに初め馬上にいる間に受けたものであり、後の四つの傷、少なくとも二つは、死後でなくとも落馬後加えられたものであることは確かであった。
事件直後だっただけに、このジャパン・ヘラルドの記事は矛楯をはらんでいます。
「はらわたの飛び出した一つの傷は腹から背中にわたっていた。左肩の傷は骨ごと胸まで切り裂かれていた」という二つの傷が、「明らかに初め馬上にいる間に受けたもの」であるならば、リチャードソンは、その場で落馬してほぼ即死し、以降、口をきいたりできる状態にはなかったでしょう。
しかし、骨ごと胸まで切り裂かれていたならば、心臓コロコロもおかしくないのです。
しかしなお久木村が、「やはり片腹をやったので」と述べていることについては、「生麦村騒擾記」の「脇腹の傷口より朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出でて地上に落ちし」にひきずられて本人がしゃべったか、あるいは、記者がおぎなったものではないでしょうか。
もちろん、最初に喜左衛門がリチャードソンにおわせた深手については、前回書いたように、「生麦村騒擾記」において「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と書かれています。
尾佐竹博士の記述からして、関口次郎右衛門家には、村役人たちのリチャードソン遺体検死の書き上げ(口述書)の写しが保存されていた様子で、だとすれば、「生麦村騒擾記」におけるリチャードソンの傷の描写は、かなり正確なものである、といえるでしょう。
久木村の「斬った斬った宣言」から10年後、尾佐竹博士は「生麦事件の真相」を執筆したわけですが、やはり、このジャパン・ヘラルドの記事を持ち出され、喜左衛門に重ねて、久木村は「正面から左の脇腹へ十分に斬り込んだものとみえる」としておられます。
しかし、ジャパン・ヘラルドのさらに詳しい後追い記事で、この傷を見れば、以下のように、あきらかに身体正面、心臓部分のものであり、左脇腹には関係ないのです。
左側の鎖骨の約2インチ(およそ5センチ)下に、長さ約5インチ(13センチ)の横の創傷がある。それは中央の線から前後左右に伸びていて、二番目と三番目の肋骨を切断し、胸部に口を開けさせている。
リチャードソン落馬後の据え斬りで、心臓をえぐり出したときの傷、と考えた方がぴったりきます。
実は、ヘラルドの詳細な検死記事では、腹部に関係するものとして4つがあげられていて、もしも本当に、久木村がリチャードソンを斬ったものならば、こちらの方をあてるべきでしょう。
一つは、前回述べたものです。
軟骨の3インチ(およそ7.5センチ)下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている。
これにつけ加えて、あきらかに落馬後のものと見られる突き傷が二つあります。槍でやられたものらしく、この二つが上と重なり、日本側の話が、「脇腹より腹部にかけて五、六寸(15~18センチ)」と大きくなったものと思われます。
「約3インチの長さの横の創傷」の4インチ(およそ10センチ)下および右側に1インチ(およそ2.5センチ)の刺し傷。腹部に口を開けさせている。
腹部の1インチ上に長さ1インチの刺し傷。それは腹部に口を開けさせている。
もう一つが大傷なのですが、これは背後からのものです。
中央線の後方に始まり、肩甲骨の下部の角のほぼ反対側まで、左側のまわりの下方または外側に、腸骨の前にある上位棘状突起の約2インチ(およそ5センチ)上まで、ひじょうに大きな創傷。肋骨を切断し、そこから肺や胃の一部をのぞかせ、16インチ(およそ40センチ)の長さの大腸、小腸がはみだしている。
つまり、これは背中の肋骨を、肺や胃が見えるまでに切断し、腸が引きずり出されていた、という記述なんですが、まずこれは、左脇腹というよりは、左背中の肋骨を切断した傷です。必死で馬で逃げているリチャードソンに、こんな重傷を負わせることができるものなのでしょうか。これも落馬後、左背後を袈裟がけに斬ったもの、と考えた方が自然でしょう。
もう一つ、久木村が述べていないことを、尾佐竹博士は推測しておられます。
「『馬上の英人は右の手で手綱をかきくり、左の手で左の片腹の疵口を押さえている』のを斬ったというから、名主の書上の異人疵所に、『左の腕甲二寸(6センチ)ほど』とあるのはこの時で、押さえた手の甲をも斬ったのであろう」
この「久木村が左手もろとも斬っただろう」という尾佐竹博士の推測は、薩藩海軍史がそのまま踏襲します。
「リチャードソンは、切られたる創口を左手にて押さえ、右手に手綱を取て一丁(およそ100メートル)ばかり逃走せしが、鉄砲組の久木村利休のため、また再び左腹の同所を、左手の甲にかけて切付けられ」
久木村利休という名前のまちがいもそのままに、尾佐竹博士の著作を写しているわけです。
薩藩海軍史が書かれた昭和3年、久木村は生存しているんですが、さっぱり、話を聞き取った様子もありません。
ただ、尾佐竹博士が、リチャードソンの左腹の大傷を、「二人が斬ったため複合してよくはわからない」としているのに対して、薩藩海軍史の著者は、どうも、ジャパン・ヘラルドの詳しい方の検死報告を読んでいたようです。
「奈良原(喜左衛門)は二尺五寸の近江大椽藤原忠広の一刀をもって、彼の左肩の下より斜めに、すなわち肋骨より腹部に切り下げ、血潮の分れて迸り出したるは、輿側よりも見ることを得たりという」
つまり、薩藩海軍史は、ヘラルドがいう背中肋骨切断の大傷は、最初に喜左衛門が斬りつけたものとし、左脇腹の横の傷が、久木村が負わせたもの、としたわけです。
たしかに、これで話がもっともらしくなった、といえばそうなのですが、喜左衛門が、リチャードソンの左背中の肋骨をほぼ縦に切断していたのならば、左脇腹の傷はこのとき、腸が出るほどのものではなく、リチャードソンが左脇腹を押さえて逃げていた、という話があやしくなります。
さらに、肋骨が切断され、胃や肺が見えるほどの重傷ならば、この後、口をきいたりできたものなのでしょうか。
そして、実はリチャードソンの左手の損傷は、ヘラルドによれば、相当なものでした。
手指にはじまる左腕は、ほとんど完全に切断されている。
以下は、マーシャルの宣誓口述書より、です。
私は「逃げろ」と叫びましたが、私たちの馬が駆け出すまえに、リチャードソンは、すでに、わき腹の左腕の下を切られていました。同じ男は、次に私を襲撃し、左腕の下の同じ所を切りました。
そして、以下は、リチャードソン落馬現場そばに住んでいた、大工の女房およしさんの口述書です。
右落馬いたし候異人義は、並木べりへ倒れ候を見受け候ところ、左のわき腹に深手これあり、苦しみまかりあり候よう、あい見え候。
リアルタイムの証言は、左わき腹の傷しか言及していませんし、クラークとマーシャルは、リチャードソン落馬直前に、リチャードソンと言葉をかわしているんです。
背中の肋骨がきられて、胃やら肺やらが見えていたり、左手がほとんど切断されてとれかかっていれば、話がちがってくるのではないでしょうか。
そして、後世の話になりますが、春山育次郎の「生麦駅」に書かれた、海江田信義からの聞き書きです。
いかにも一人の外人腰のあたりを斬られしとおぼしく、畑の堤によりかかり、傍に生い茂る草をひきむしりて創口にあて、出血をとどめんとするさまなりしが、子爵(海江田)の来たり近くをみて、いたく驚けるが如く、狂いいらちてしきりに何事かいいたれども、子爵には少しもわからざりき。
これに続けては、生麦事件考 vol3で詳しく見ましたが、奈良原繁の名前を出した上で、「英人の記する所」としながら、以下のようにあります。
外人はただ一太刀あび馬より落ちたるばかりにて、こうむれりし創(きず)もさまで重からず、もとより生命を失うほどのことにはあらざりしを、後におよび、あらぬ人に訪はれて、終にあはれの最後をとげたり。
海江田信義は、少なくとも春山に、「リチャードソンは一太刀しかあびておらず、傷は命を失うほどのものではなかった」と語り、それを春山がエッセイに書いたとき、訂正を求めた様子はありません。
この傍証としては、真説生麦事件 上でぬき書きしました、那須信吾の書簡があります。
「秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎(繁)などの働きと承り候」
土佐の那須信吾は、当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていて、海江田から直接話を聞いた可能性が高いのです。
落馬後のリチャードソンに出くわした海江田信義、奈良原繁たちの当時の認識では、リチャードソンは生きていて、彼を斬り殺したのは自分たちだったのです。
事件から50年も後に、いったいなぜ、久木村は突然、リチャードソンを斬った、と言い出したのでしょうか。
長くなりましたので、続きます。
人気blogランキングへ