生麦事件と薩藩海軍史 vol1の続きです。
関係ないんですけれど、もてない甥にチョコレートを贈りまして、ついでに小さな3個入りを長岡さまにもおすそわけし、自分でも買って食べたんですけど、この3個入り、真ん中はきれいな朱色に染められたハートのチョコレートでして、とろりと、淡いピンクのラズベリー・シャンパンクリームが入っているんですわ。
「まっ!!! 久木村の茶利に出てくる、コロコロころがったリチャードソンのハートみたい!!!」と思って、おいしくいただいた私は病気です。
いや、モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵の国、ベルギーのチョコですしい。(バレンタイン期間限定のピエール・ルドンです)
そういえば、尾佐竹博士の「幕末外交秘史考 」には、「仏人モンブラン新説書」という項目もありまして、慶応3年、モンブラン長崎講義の聞き書き、みたいなものが収録されているんです。尾佐竹博士、大好きです!!! できることならば、あなたにぜひ、ベルギー製、リチャードソンのハートチョコを差し上げたいですわ。
さて、本題です。
海江田信義の口述本『維新前後・実歴史伝』は、なぜ、「リチャードソン介錯の場面」をはしょったか。
もちろん、それが「介錯といえるようなものではなく、よってたかっての斬殺」だったからです。
リチャードソン落馬後の斬殺は、薩摩藩にとって、非常にやっかいな問題をはらみ続けてきました。生麦事件考 番外2でみましたように、久光の指揮、命令によるものと、イギリス側が受け取っていたから、です。
事件の翌日のニール代理公使の本国への報告、幕府への訴えからして、十分にそれを匂わせるものでしたが、英字新聞にいたっては、久光が直接手を下した、と書き立てるものもありました。
以下、尾佐竹博士の「生麦事件の真相」から、モッスマンの記事の和訳です。
約10分にして島津三郎の行列来たりたり。しかして担夫どもは三郎の乗り物を瀕死人の横たはりたる反対の所に下したり。村民たちの陳述によれば、彼はその侍者のある者に、彼らがなにを眺めおりしかをたずねたり。しかして彼らは負傷外人の一人なりし旨を答えたり。ここにおいて、かの残忍なる怪物は、彼らに氏をひと思いに斬るよう命じたり。時にかの残忍なる兇暴徒は、その犠牲を抜刀にて襲いたり。しかして、氏(リチャードソン)が勇敢にできえるかぎり抵抗を試みたりといえども、彼らは氏の咽喉を切りて、ほとんど氏の頭を切り去りたり。かつ氏の死したる後も、なお数か所を刺したり。
リチャードソン落馬後、おそよ10分で久光の行列が来た、というのですから、完全に誤解していますね。
藤屋でのお茶休憩を考えず、事件現場から落馬地点までの距離からすれば、たしかにそんなものだったでしょうし、海江田が駕籠に乗っていて、その場の最上位者に見えたことは確かでしょうから、通訳をまじえての生麦村民からの聞き取りで、イギリス人たちは、あきらかに、海江田を久光ととりちがえたのです。
そして、マーシャルは落馬後、リチャードソンは死亡したように見えた、と証言したわけなのですが、死んでいなかったことも、確かめられていたことになります。
で、ジャパン・エックスプレスの記事になりますと、久光が自ら殺した、と受け取れるようになります。
この瞬間に一挺の乗物止まりたり。しかして乗り手は、面倒事はなになりしぞと問ひたり。彼は単に一外人のみと答へられたり。この人は乗物より出て、しかして数傷を加えたり。そのとき氏(リチャードソン)が致命傷を受けたるなりと見らる。
海江田信義は実際、奈良原繁たちとともに手を下していたわけなのですから、聞き取りようによっては、駕籠の人物が自ら手を下した、となってくるのは当然なんです。
しかも、こちらの記者は、リチャードソンはそれまで致命傷は受けておらず、落馬後に斬殺された、と断定したようです。
海江田は、イギリス人たちに、自分が久光だとまちがわれ、久光の斬殺命令節が流布していたことに、気づいていたでしょうか。
おそらく………、まったく気づいていなかったのではないでしょうか。
『維新前後・実歴史伝』の斬殺部分のはしょり方が、あまりにも無神経だからです。
リチャードソンが道端で腰の血をぬぐっていた場面から、あろうことか、突然話は駕籠の中の久光にとび、それで尻切れとんぼに終わるのです。
これではまるで、リチャードソン落馬後の斬殺に、久光がかかわっていたと、暗示しているようにも受け取られかねません。
生麦事件考 番外2で書きました市来四郎の史談会での発言は、『維新前後・実歴史伝』が出版された直後、明治25年12月のことです。
市来四郎が、斬殺は決して久光の命令ではなかったことを力説するとともに、生麦事件考 vol3で書きましたように、「今の繁(沖縄県知事)は、先供でござります。兄なるものが斬りつけたから、助太刀した位なことに聞いております。ほかに三、四名も楽み半分に切試したということでござります。そういうことで、誰れが斬るとも知れず、ずたずたにやったそうです」と、薩摩藩内でタブーとされてきた落馬後の斬殺に触れたのは、海江田信義への怒りでしょう。
「久光公が死去された今となっても、奈良原兄弟をかばい、久光公に責任を負わせるのか!!!」ということだったのではないでしょうか。
で、海江田はこの速記録を読み、すぐにではないのでしょうけれども、イギリスの久光公斬殺命令説は、自分のせいだったのだと、気づいたのだと思います。
そして、明治29年、春山育次郎が太陽に発表しましたエッセイ「生麦駅」は、奈良原喜左衛門を貶めるような市来四郎の発言への反論であると同時に、海江田信義の告白として、書かれたのではないでしょうか。
尾佐竹博士は、「生麦事件の真相」において、この春山のエッセイを「海江田信義子爵の談」「薩摩側の有力な人の実歴談」という書き方をしていまして、薩藩海軍史が、この表現を踏襲したことはあきらかです。
春山のエッセイに、「久光の行列が江戸を出発するとき、供目付だった海江田と喜左衛門は、外人が行列に無礼をはたらいたら、そのとき当番だった方が目にものみせてやろうと、約束をかわした」というようなことが書いてあるのですが、薩藩海軍史は、それをほとんどそのまま写して、「海江田信義実歴伝及直話」としてあるのです。
春山の「生麦駅」は、名エッセイです。
私、春山の筆になるものは、少年読本の桐野の伝記と、野村望東尼伝しか読んだことがないのですが、これらの長編よりもはるかに、熱く、時代の息吹が感じられたのです。
「海江田の実歴談」というには、実証的ではなく、リチャードソン一行の通った方向をまちがえていたりしますし、情緒的な書き方をしているのですが、しかし、なにか妙に、生々しい迫力があるんです。
それは、実際に春山が、海江田に直々に訴えられた心情に動かされて、筆をとっていたからではないのか、というのは考えすぎでしょうか。
生麦事件考 vol3で詳しく見ましたように、春山は「英人の記する所」として、海江田と奈良原繁たちの斬殺を明示しているのですが、イギリス人のいう「あらぬ人」とは、久光公ではなく自分だった、という、海江田の告白でもあったわけです。
しかし、海江田はどうも、イギリス人の錯誤の要因の一つが、久光の藤屋のお茶休憩にあったことを春山に説明していなかった様子で、春山は、リチャードソンたち一行が行列の後ろからやってきて後ろへ逃げ、海江田が行列の後ろを進んでいたものと、誤解したのではないでしょうか。
久光がお茶休憩をした藤屋が、リチャードソン落馬地点の手前にあったことがわからなければ、なぜ海江田と奈良原弟が、行列に関係なく斬殺を行ないえたのか、理解できなくなってしまうのです。
春山は、このリチャードソン逆進行説をも「英人の記する所」としているわけなのですが、尾佐竹博士いわく、「そんなことを書いているイギリス人はいない」そうなのです。実際、私がさがせた範囲でも、ありません。
むしろ、日本人の間でひろまっていた誤解の一つに「異人たちは川崎大師に参った帰りだった」というのがありまして、帰りならば後ろから追い越そうとしたことになりますし、もしそうだったとすれば、行列に遅れて進んでいた海江田が、行列に関係なく落馬現場に行きあわせたことが、自然なことになるわけです。
そして、時代は日清戦争を経て、変わってきています。しだいに、武士の習わしよりも、近代軍隊の掟の方に、世間もなじんできていてたでしょう。
春山が正確にいつの生まれかわからないのですが、子供のころに鹿児島で、明治6年政変以降の桐野を知っていた、という話ですから、少なくとも物心ついたときには、明治だったはずです。
そういった中で、戦闘能力を失った者の斬殺は、元薩摩藩士全体の名誉にかかわることです。その主体だった海江田本人が、はっきりそれを明言したとすることは、はばかられたのでしょう。
次回はいよいよ、明治45年の久木村の「斬った斬った宣言」について、考えてみたいと思います。
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関係ないんですけれど、もてない甥にチョコレートを贈りまして、ついでに小さな3個入りを長岡さまにもおすそわけし、自分でも買って食べたんですけど、この3個入り、真ん中はきれいな朱色に染められたハートのチョコレートでして、とろりと、淡いピンクのラズベリー・シャンパンクリームが入っているんですわ。
「まっ!!! 久木村の茶利に出てくる、コロコロころがったリチャードソンのハートみたい!!!」と思って、おいしくいただいた私は病気です。
いや、モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵の国、ベルギーのチョコですしい。(バレンタイン期間限定のピエール・ルドンです)
そういえば、尾佐竹博士の「幕末外交秘史考 」には、「仏人モンブラン新説書」という項目もありまして、慶応3年、モンブラン長崎講義の聞き書き、みたいなものが収録されているんです。尾佐竹博士、大好きです!!! できることならば、あなたにぜひ、ベルギー製、リチャードソンのハートチョコを差し上げたいですわ。
さて、本題です。
海江田信義の口述本『維新前後・実歴史伝』は、なぜ、「リチャードソン介錯の場面」をはしょったか。
もちろん、それが「介錯といえるようなものではなく、よってたかっての斬殺」だったからです。
リチャードソン落馬後の斬殺は、薩摩藩にとって、非常にやっかいな問題をはらみ続けてきました。生麦事件考 番外2でみましたように、久光の指揮、命令によるものと、イギリス側が受け取っていたから、です。
事件の翌日のニール代理公使の本国への報告、幕府への訴えからして、十分にそれを匂わせるものでしたが、英字新聞にいたっては、久光が直接手を下した、と書き立てるものもありました。
以下、尾佐竹博士の「生麦事件の真相」から、モッスマンの記事の和訳です。
約10分にして島津三郎の行列来たりたり。しかして担夫どもは三郎の乗り物を瀕死人の横たはりたる反対の所に下したり。村民たちの陳述によれば、彼はその侍者のある者に、彼らがなにを眺めおりしかをたずねたり。しかして彼らは負傷外人の一人なりし旨を答えたり。ここにおいて、かの残忍なる怪物は、彼らに氏をひと思いに斬るよう命じたり。時にかの残忍なる兇暴徒は、その犠牲を抜刀にて襲いたり。しかして、氏(リチャードソン)が勇敢にできえるかぎり抵抗を試みたりといえども、彼らは氏の咽喉を切りて、ほとんど氏の頭を切り去りたり。かつ氏の死したる後も、なお数か所を刺したり。
リチャードソン落馬後、おそよ10分で久光の行列が来た、というのですから、完全に誤解していますね。
藤屋でのお茶休憩を考えず、事件現場から落馬地点までの距離からすれば、たしかにそんなものだったでしょうし、海江田が駕籠に乗っていて、その場の最上位者に見えたことは確かでしょうから、通訳をまじえての生麦村民からの聞き取りで、イギリス人たちは、あきらかに、海江田を久光ととりちがえたのです。
そして、マーシャルは落馬後、リチャードソンは死亡したように見えた、と証言したわけなのですが、死んでいなかったことも、確かめられていたことになります。
で、ジャパン・エックスプレスの記事になりますと、久光が自ら殺した、と受け取れるようになります。
この瞬間に一挺の乗物止まりたり。しかして乗り手は、面倒事はなになりしぞと問ひたり。彼は単に一外人のみと答へられたり。この人は乗物より出て、しかして数傷を加えたり。そのとき氏(リチャードソン)が致命傷を受けたるなりと見らる。
海江田信義は実際、奈良原繁たちとともに手を下していたわけなのですから、聞き取りようによっては、駕籠の人物が自ら手を下した、となってくるのは当然なんです。
しかも、こちらの記者は、リチャードソンはそれまで致命傷は受けておらず、落馬後に斬殺された、と断定したようです。
海江田は、イギリス人たちに、自分が久光だとまちがわれ、久光の斬殺命令節が流布していたことに、気づいていたでしょうか。
おそらく………、まったく気づいていなかったのではないでしょうか。
『維新前後・実歴史伝』の斬殺部分のはしょり方が、あまりにも無神経だからです。
リチャードソンが道端で腰の血をぬぐっていた場面から、あろうことか、突然話は駕籠の中の久光にとび、それで尻切れとんぼに終わるのです。
これではまるで、リチャードソン落馬後の斬殺に、久光がかかわっていたと、暗示しているようにも受け取られかねません。
生麦事件考 番外2で書きました市来四郎の史談会での発言は、『維新前後・実歴史伝』が出版された直後、明治25年12月のことです。
市来四郎が、斬殺は決して久光の命令ではなかったことを力説するとともに、生麦事件考 vol3で書きましたように、「今の繁(沖縄県知事)は、先供でござります。兄なるものが斬りつけたから、助太刀した位なことに聞いております。ほかに三、四名も楽み半分に切試したということでござります。そういうことで、誰れが斬るとも知れず、ずたずたにやったそうです」と、薩摩藩内でタブーとされてきた落馬後の斬殺に触れたのは、海江田信義への怒りでしょう。
「久光公が死去された今となっても、奈良原兄弟をかばい、久光公に責任を負わせるのか!!!」ということだったのではないでしょうか。
で、海江田はこの速記録を読み、すぐにではないのでしょうけれども、イギリスの久光公斬殺命令説は、自分のせいだったのだと、気づいたのだと思います。
そして、明治29年、春山育次郎が太陽に発表しましたエッセイ「生麦駅」は、奈良原喜左衛門を貶めるような市来四郎の発言への反論であると同時に、海江田信義の告白として、書かれたのではないでしょうか。
尾佐竹博士は、「生麦事件の真相」において、この春山のエッセイを「海江田信義子爵の談」「薩摩側の有力な人の実歴談」という書き方をしていまして、薩藩海軍史が、この表現を踏襲したことはあきらかです。
春山のエッセイに、「久光の行列が江戸を出発するとき、供目付だった海江田と喜左衛門は、外人が行列に無礼をはたらいたら、そのとき当番だった方が目にものみせてやろうと、約束をかわした」というようなことが書いてあるのですが、薩藩海軍史は、それをほとんどそのまま写して、「海江田信義実歴伝及直話」としてあるのです。
春山の「生麦駅」は、名エッセイです。
私、春山の筆になるものは、少年読本の桐野の伝記と、野村望東尼伝しか読んだことがないのですが、これらの長編よりもはるかに、熱く、時代の息吹が感じられたのです。
「海江田の実歴談」というには、実証的ではなく、リチャードソン一行の通った方向をまちがえていたりしますし、情緒的な書き方をしているのですが、しかし、なにか妙に、生々しい迫力があるんです。
それは、実際に春山が、海江田に直々に訴えられた心情に動かされて、筆をとっていたからではないのか、というのは考えすぎでしょうか。
生麦事件考 vol3で詳しく見ましたように、春山は「英人の記する所」として、海江田と奈良原繁たちの斬殺を明示しているのですが、イギリス人のいう「あらぬ人」とは、久光公ではなく自分だった、という、海江田の告白でもあったわけです。
しかし、海江田はどうも、イギリス人の錯誤の要因の一つが、久光の藤屋のお茶休憩にあったことを春山に説明していなかった様子で、春山は、リチャードソンたち一行が行列の後ろからやってきて後ろへ逃げ、海江田が行列の後ろを進んでいたものと、誤解したのではないでしょうか。
久光がお茶休憩をした藤屋が、リチャードソン落馬地点の手前にあったことがわからなければ、なぜ海江田と奈良原弟が、行列に関係なく斬殺を行ないえたのか、理解できなくなってしまうのです。
春山は、このリチャードソン逆進行説をも「英人の記する所」としているわけなのですが、尾佐竹博士いわく、「そんなことを書いているイギリス人はいない」そうなのです。実際、私がさがせた範囲でも、ありません。
むしろ、日本人の間でひろまっていた誤解の一つに「異人たちは川崎大師に参った帰りだった」というのがありまして、帰りならば後ろから追い越そうとしたことになりますし、もしそうだったとすれば、行列に遅れて進んでいた海江田が、行列に関係なく落馬現場に行きあわせたことが、自然なことになるわけです。
そして、時代は日清戦争を経て、変わってきています。しだいに、武士の習わしよりも、近代軍隊の掟の方に、世間もなじんできていてたでしょう。
春山が正確にいつの生まれかわからないのですが、子供のころに鹿児島で、明治6年政変以降の桐野を知っていた、という話ですから、少なくとも物心ついたときには、明治だったはずです。
そういった中で、戦闘能力を失った者の斬殺は、元薩摩藩士全体の名誉にかかわることです。その主体だった海江田本人が、はっきりそれを明言したとすることは、はばかられたのでしょう。
次回はいよいよ、明治45年の久木村の「斬った斬った宣言」について、考えてみたいと思います。
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