郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol8

2012年12月22日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol7の続きです。

 そのー、ですね。考えたいことがいろいろと出てきまして、ちょっと間を置きました。
 これは以前から気になっていたことなのですが、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者が坂崎紫蘭だったのではないかと私は推測いたしましたが、もしそうだったとしますと、一つ、不可解なことがあるんですね。
 明治16年の「汗血千里駒」、大正元年の「維新土佐勤王史」がともに、近藤長次郎の命日を1月14日としておりますのに、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」はちがうんです。

 「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」(「土佐史談240号」収録)で、皆川真理子氏が、野村宗七の日記をもとに探求しておられますのが、近藤長次郎の命日でして、前回ご紹介いたしましたように、前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)が野村に、「上杉(長次郎)が自刃した」と告げに参りましたのが1月23日です。
 しかし、命日はその翌日とされたようでして、長次郎が葬られました長崎海雲山 皓台寺の過去帳には、1月24日とあります。

 伝記の中で、命日が正確に1月24日となっておりますのは、実は井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」「勤王事績調」(「山内家史料 幕末維新第5編 第16代豊範公紀」収録)の二つのみです。
 「勤王事績調」がいつ書かれたものかはわからないのですが、内容は「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を短くしたような感じでして、あるいは双方に共通する文書があったのではないか、と思われます。しかし、なぜか命日は「勤王事績調」のみが正しく書かれています。

 おそらく、なんですが、「勤王事績調」のもとになった伝記は、河田小龍の手になったものではないかと思われ、だとすれば、小龍は長次郎の死から間もなく、京都の薩摩藩邸を訪ね、中村半次郎(桐野利秋)に話を聞いているのですから、正確な命日は知っていたわけなのです。

 しかし、内容につきましては小龍の話を元にしたと思われます明治15年出版の「海南義烈伝」が、なぜか10日まちがえまして、14日としているんですね。
 明治16年、坂崎紫蘭は、これもおそらくなんですが、「海南義烈伝」を踏襲して、「汗血千里駒」で14日とし、30年後の「維新土佐勤王史」も、同じにしているんですね。

 とすれば、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の著者は、坂崎紫蘭ではないのではないだろうか、と考え直しました。
 その理由をもう一つあげますと、さまざまな新しい史料を取り入れながら、「維新土佐勤王史」の長次郎に対します見解が、「汗血千里駒」とまったく変わらず、なんのためらいもなく、冷ややかなものであること、です。

 ではいったい、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、誰が書いたのでしょうか。
 近藤長次郎とライアンの娘 vol5で書きましたように、土佐出身者であることは、まちがいなさそうです。

 もっとも肝心な点は、高松太郎か千屋寅之助から話を聞いたのではないかということなのですが、もう一つ、グラバーから直接話を聞いたか、あるいは、中原邦平が聞き取りましたグラバー談話を読ませてもらった、可能性が高い、ということがあります。

明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末
内藤 初穂
アテネ書房


 近藤長次郎とライアンの娘 vol7に追記いたしましたが、、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、中原邦平のグラバー談話は、明治30年前後のものであるようなのです。

 ここでもう一度、近藤長次郎の物語が、どう世間に伝わったかをまとめてみますと。

 明治15年、「海南義烈伝 二編」が出版されます。
 土佐出身者のみの伝記集ですから、それほど広く読まれたわけではないでしょうけれども、伝記としましては、以降かなりの期間、これが基本となり、その死は、「薩長同盟のために尽くしていたが、両藩の行き違いの責任を一身に引き受けてりっぱに自刃」と描かれます。

 ところが翌明治16年、龍馬を主人公としました自由民権政治小説「汗血千里駒」が高知の「土陽新聞」に連載され、その年のうちに大阪で、そして間もなく東京でも出版されまして、人気を得ます。ここで初めて長次郎の死は、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので、龍馬が詰め腹を切らせた」と否定的に描かれます。
 これは小説でしたので、公式な場合の伝記としては問題にされませんでしたけれども、取材した様子がうかがえ、長次郎の生い立ちにつきましても詳しく、現代におきます司馬遼太郎氏著「竜馬がゆく (文春文庫)」のような感じで、一般にはむしろ、こちらが真実と受け取られるようになったのではないでしょうか。

 「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、明治17年、岩崎弥太郎の三菱に雇われていましたグラバーは上京し、息子を学習院に入学させ、横浜のビール工場を取得し、さらに、病にたおれました弥太郎に代わる弟・弥之助の相談役ともなるため、芝に別邸を設けます。
 弥太郎は翌明治18年2月7日に死去。
 前回に推測しましたように、明治17年、弥太郎は病の床で「汗血千里駒」を読み、そこに描かれました愛弟子・近藤長次郎の死に様に驚愕して、グラバーに話し、実情を聞いた可能性は高いと思います。

 
 明治24年ころ、馬場文英が「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を書き、これは「海南義烈伝」に近い内容なのですが、出版はされなかったようでして、世間にひろまった様子はありません。

海援隊隊士列伝
クリエーター情報なし
新人物往来社


 明治26年、芝のグラバーの別邸が焼け、グラバーが長次郎の形見として大切にしておりました刀が、失われます。
 同年、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が死去します。
 「海援隊隊士列伝」の佐藤寿良氏著「千屋寅之助」によりますと、千屋は海援隊士として戊辰戦争に参加した後、明治2年、白峰駿馬(長岡藩出身の海援隊士)とともにアメリカ留学。明治7年に帰国し、海軍省勤務。西南戦争時に鹿児島の火薬庫接収を志願して失敗。白峰がいた横須賀造船所に転出しますが、活躍の場を見いだせず、明治17年、甥の千屋孝忠の誘いを受け、海軍を休職して、福島県郡山の安積原野開拓に参加します。

 調べてみましたら、ちょうど士族救済の国家プロジェクトで、安積疏水の灌漑が開始されたばかり、だったんですね。
 どうも、大久保利通のお声掛かりで開始されたプロジェクトみたいでして、海軍関係者に土地の割り当てが優遇されたりとか、なにか、あったんでしょうか。
 千屋は海軍を休職して参加しましたが、慣れない北国の田舎のきびしい開墾生活に、長男が死に、妻の起美(竜馬の妻・お龍さんの妹)は東京へ帰り、結局、千屋も一時海軍に復職することとなります。
 明治24年、千屋は再び安積開拓地の甥のもとに帰りますが、甥も開拓地を去り、千屋は体を壊して東京へ帰り、26年5月、東京で、52歳の生を終えました。

 明治31年11月7日、土佐において、龍馬の跡を継いでおりました高松太郎(坂本直)が病で死去します。享年57。
 この人のことは、これまでにも書いておりますが、明治22年に宮内省を免官になって、土佐へ帰ります。
 実は明治20年、自由民権運動の闘士で高知県会議員だった実弟の坂本直寛(南海男)が、建白のために上京し、保安条例違反で逮捕され、入牢しておりました。22年、憲法発布の大赦で釈放されて直寛は土佐へ帰り、それにあわせるように高松太郎は、免官になっているのですが、明治23年に東京で借金した証文が残っていまして(坂本龍馬記念館所蔵だそうです)、すぐに帰郷したわけではなさそうです。

 しかし、やがて帰郷して、直寛宅に身をよせましたことは、戸籍でわかるそうです。
 直寛は北海道開拓を志すようになり、明治29年に単身で出かけて準備し、31年5月、一家を挙げて北海道へ移住します。
 高知に残った高松太郎は、その年の11月に死去。残された妻子は、直寛を頼って北海道へ行きます。

 一方、ちょうどそのころ、京都におきましても、近藤長次郎にゆかりのある人物が、世を去っていました。
 河田小龍です。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、小龍は画家としての勉強を京都でしておりまして、明治のいつころからか土佐を出て、京阪神方面に住まい、明治27年からは京都の息子と同居しておりました。
 明治31年12月19日、土佐で高松太郎が世を去りましたおよそ一月後、75歳で生を終えました。

 そして明治32年の末、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、土陽新聞に連載されます。
 龍馬の妻でしたお龍さんから話を聞き、談話を執筆しましたのは、川田雪山(瑞穂)。明治12年高知生まれですから、このとき若干20歳。
 どういう人なのか、慌てて調べましたところ、エドガー・ケイシーと学ぶ魂の学舎終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~というページが一番詳しく、どこまで正しいのかわからないのですが、参考にさせていただきつつ、以下。

 明治28年、17歳にして大阪に出て、土佐出身の漢学者で自由民権運動の闘士・山本梅崖に漢学を学びます。
 31年に東京に出て漢学者・根本通明に学び、32年の末に 千里駒後日譚を高知の新聞に連載。
 35年に早稲田に入学しますが中退。京都へ行き、府会書記として就職し、かたわら政治文学雑志主宰。大正5年、維新史科編纂会嘱託になるんだそうなんです。

 もう、おわかりでしょうか。
 私、肝心な部分ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」著者は川田雪山ではなかったか、と思い始めているんです。

 実は、ですね。
  高松太郎が死去しました明治31年、千里駒後日譚が連載されました32年は、土佐におきまして、近藤長次郎の生涯が、大きくクローズアップされた年でもあったんです。

 
龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社

 
 明治31年7月、近藤長次郎は正五位を追贈されています。
 どうも、青山のじじい(田中光顕)の配慮だったようです。
 このとき、遺児の百太郎が、生まれてはじめて高知に足を踏み入れました。
 百太郎は、母・お徳さんの里、森下家の籍に入っておりましたので、追贈者の遺族であることを証明しますような手続きが、必要だったんだそうなんですね。
 そして翌明治32年、再び高知を訪れ、行方不明になってしまったんです。

 「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」の著者・吉村淑甫は、百太郎のご子孫から、高知郊外北山山中で獣に食べられた、というような風説も聞いておられ、「あるいは殺されたのかもしれない」というような感触を、持っておられたようなのです。
 「長次郎自身が殺されたのではないか」とも、思っておられたようですが、なんにしろ、坂崎紫蘭の「維新土佐勤王史」を否定しますだけの材料を、お持ちではなかったのでしょう。

  維新に遅れますこと12年、高知に生を受けました川田雪山は、六つの時に連載、出版されました「汗血千里駒」を読み、なにしろ、登場人物が育った場所はすぐそこで、まだみんな親族が健在ですし、身近なヒーローとして、坂本龍馬の活躍に、ワクワク胸をときめかせたのではないでしょうか。
 明治28年、17歳にして大阪に出る以前に、高松太郎に話を聞きに行ったのではないか、とは、十分に考えられることです。
 雪山の経歴からしまして、河田小龍からも直接話が聞けたでしょうし、あるいは百太郎やお徳さん、長次郎の妹・お亀さんにも、会っていた可能性があります。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」には、最後に明治31年の長次郎贈位記事がありますので、それ以降に書かれたことはまちがいない、と以前にも書きましたが、著者が川田雪山だったと仮定しますと、書かれたのは、明治35年前後でしょうか。
 中原邦平のグラバー談話を参照し、書かれたものが井上馨関係文書として保管されたにつきましては、あるいは、青山のじじい(田中光顕)が世話したアルバイトだった、とは考えられないでしょうか。「千里駒後日譚」の連載で、じじいの目にとまったのではないかと。

 肝心な部分ほぼ4行分に黒々と惹かれた墨線につきましては、高松太郎から聞いていたことをそのまま書くべきではないかという20代前半の青年の良心と、敬愛する郷土の英雄・坂本龍馬の後継者の汚点を世間に知らせることへの抵抗と、せめぎあった結果 で、あったのではないかと、考えたいと思います。

 結局しかし、明治40年の「井上伯伝」は、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにして、「海南義烈伝」以来の「近藤昶次郎、薩長の板挟みとなって名誉の自刃説」をとり、「長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗り、社中の仲間を裏切ったので詰め腹を切らされた」という土佐の説は、異説として小さく併記しているだけです。

 大正元年に出ました「維新土佐勤王史」は、いわばこれに対する反論ともいえまして、かつて自由民権運動の闘士でした坂崎紫蘭の、長州閥に対します長年の嫌悪が、色濃く出た結果となっております。

 ユニオン号に関します動きを、まだ詳しく追っておりませんし、次回から、「井上伯伝」「維新土佐勤王史」をくらべつつ、真相を考えていきたいと思います。

 続きます。

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