土佐、近藤長次郎紀行 後編の続き、とでもいったことになるでしょうか。
連休を利用して、長崎へ行ってまいりました。
事前に、一応の準備はしようと思っていたのですが、なにしろ、本とコピーの整理途中。
なかなか思うにまかせませんで、しかも、お目にかかりたい、と思っていました方のお一人、郷土史家の宮崎秀隆氏には、お会いできませんでした。いろいろと手を尽くしましたが、挫折しまして、顕彰碑設立に関します経緯などの取材は、残念ながら断念。
宮崎さま、もしご覧になられることがございましたら、ご連絡くださいませ。
しかし、今回、千頭さまからのご紹介で、晧台寺の作山克秀氏にはお時間をさいていただくことができまして、お墓にまつわるお話などは、詳しく伺うことができました。
したがいまして、この紀行ブログも、顕彰碑ははぶきまして、お墓関連でまとめようと思います。
まず、晧台寺さんの過去帳では、漢字が長次郎ではなく昶次郎になっていまして、それを使いたいと思います。
海雲山・晧台寺は曹洞宗。近藤昶次郎のお墓は、晧台寺の小曽根家の墓域にあり、晧台寺の過去帳に名前も載っています。
大正4年(1915年)には、ここで50年忌の法要が営まれ、田中光顕が贈った漢詩が、残されてもいます。
晧台寺を訪れましたのは、11月3日日曜日。
この日、長崎は朝から雨で、近くの料亭・一力で卓袱弁当をいただいてから、うかがいました。
過去帳の写しを見せていただき、もともとのお墓のあった場所もお聞きしました。実は、昶次郎のお墓は、もとから小曽根家の墓域にあったわけではなく、同じ晧台寺の墓地ではあるのですが、もっと山の上の方で、現在は崩れて荒廃している場所にありましたものを、近年、管理の行き届きました小曽根家の墓地へ、有志の方々が移したわけなのです。
もとの場所も見ておきたい、さらには、シーボルトの娘・おイネさん一家と、そこに眠るシーボルトの弟子・二宮敬作のお墓にも参りたいということで、雨が上がりました翌日、亀山社中記念館から、龍馬の像が立ちます風頭公園に到り、晧台寺裏山の墓地を、上から下へ、歩くことにしました。
これがもう、ものすごく荒れた道でして、もしも、東京から来てくださった中村太郎さまの同行がなければ、挫折したにちがいないと、伏し拝みたい気分。ありがたいことです。
11月4日月曜日、快晴のこの日、寺町通りを北へ行き、深崇寺の横から、亀山社中記念館まで坂を上ります。
坂の途中で、案内板とともに、社中ゆかりの人物の紹介板が立っています。もちろん、近藤昶次郎のものも。
しかし、記念館内の展示物は、たいしたものではなく、ただ、ここが社中の跡地であることは確かですので、せめて当時をしのびまして窓からの景色を。
家が建て込んでいます上に、木が茂りすぎ、当時の眺めとは、まるでちがうようなんですけれども。
ブーツと舵輪のモニュメントや亀山社中資料展示場や若宮稲荷神社を見物しつつ、龍馬通りを登り続けます。土、日、祭日しか開きません亀山社中資料展示場は、熱心な有志の方々が運営していまして、珍しい写真が多数展示されていて、記念館より楽しい雰囲気でした。
上り坂にくたくたになりまして、やっと風頭公園へ。
司馬遼太郎氏の文学碑と龍馬像が立ちます風頭公園からの眺めはすばらしく、しばし休憩を。
風頭公園のすぐ脇に、幕末の写真師・上野彦馬のお墓への下り道があります。
上野家の墓地からは、急な下り坂。狭い石段があったりしますが、落ち葉が散り敷き、昨日の雨で、滑るのでは?という恐怖に、高所恐怖症の私は、身がすくみます。
しかし、まずは、作山氏からうかがいました薩摩人墓地をめざそうと、恐る恐る、なんとか足を進めつつ、「こんなとこにうちのお墓があったら、絶対、お参りしないっ!!!」と毒づく私を尻目に、中村さまは軽々と足を進めておられましたが、そのうち、「やだ、藪蚊っ!!!」とこちらも悲鳴。
途中、茂みに入りますと、ものすごい藪蚊で、私は肌の露出が少なく、あまり刺されなかったのですが、中村さまはあまりの襲撃に、慌てて持参の虫除け薬を塗っておられました。いえ、最後には私も、唯一露出しておりました手の甲を刺されましたが。
突然、先を行っておられました中村さまの声。「ありましたっ! 薩摩墓の看板!」
「ほんとですかっ? 来たかいがありました!」と私。
実は、昶次郎さんが最初に葬られましたとき、薩摩藩士として葬られた、というような書き方をしている本もありまして、薩摩墓と昶次郎さんの元のお墓の位置の関係を、この目で確かめたいと念じていたような次第だったんです。
薩摩墓の看板が立てられましたのは、書いてありますように平成25年、今年の3月です。ここの墓石を発掘復元された長崎鹿児島県人会の方々には、つくづく頭が下がる思いです。
中村さまがすべての墓石を調べてくださったのですが、戊辰戦争はともかく、西南戦争の戦死者、と思われる墓石は、ありませんでした。明治10年の没年が刻んである墓石は、ただ一つの佐賀県士族のものと、あとは鹿児島県の平民で、士族ではなかったそうなのです。私が見ました範囲でも、明治4年の没年のものなどもありまして、薩摩人の墓地であることは確かですか、どういう方々が葬られているのか、いまひとつ、よくわかりませんでした。
ただ、真ん中左の写真、おじぞうさまの首が落とされていまして、あるいは、幕末からの墓碑もあって、戊辰戦争の廃仏毀釈で首が落とされたものなのか、と思ったりもします。そう思ってあらためて墓石を見ますと、晧台寺さんの墓地であるにもかかわらず、戒名のないものがけっこうあったのですが、中村さまが見られた「平民」のものは、戒名があったそうです。
(追記)中村さまからお電話があり、改めて撮られた写真をご覧になられたところ、明治10年が没年の鹿児島県士族の墓が、一つあったそうです。ただ、今のところ、西南戦争戦死者名簿(西郷軍側)に同名は見つからないとのこと。あと、佐賀県士族のものは、よく写真をご覧になると、16年没年に見えるとのことです。私も、これは現場で、10年のように見えていたのですが、西南戦争におきます西郷軍側佐賀県士族の戦死者に、やはり同名は見つからないそうです。
もしかしますと、本連寺の側面に沢村惣之丞の名前を刻みました墓碑の「土佐住民諸氏の墓」といいます表記が、ヒントになりそうな気がします。本連寺には長崎におきます土佐住人の墓域があり、おそらく墓域が整理されました時点で、有志がまとめて墓碑を建てたのではないでしょうか。晧台寺には鹿児島住人の墓域があり、その墓域は整理されることがなく現在にいたっていますので、元の墓石が残っていた、と推測してもいいように思います。
さて、薩摩墓の南の並びに、高嶋秋帆のお墓があります。町年寄りでした高嶋家の墓地は、百五十坪あるという豪壮なものですが、ここにも荒廃の気配があります。
一番上の写真の階段を上りましたところが高嶋家の墓地で、真ん中の写真が高嶋秋帆の墓石。
下の写真は、高嶋家の墓域からの眺望です。
実は、高嶋家の墓域に隣接して、これもかなり広い墓域があり、石垣が崩れ、墓石が倒れたりしていたのですが、白髪の男性がお一人、補修に取り組んでおられました。聞けば、長崎の町役人でおられたご先祖のお墓で、ご本人もこちらに入られるおつもりがあり、毎日、補修に通われているのだそうなんです。りっぱなご先祖をもたれますと、大変なこともあるんですねえ。
晧台寺の墓地のこのあたりは、風致地区に指定されていまして、いっさい伐採ができないのだとか。実際、とてつもなく大きく育ちました楠が、根を張り、枝をひろげ、墓石を倒したり、眺望をさえぎったり。
そして、昶次郎さんの元のお墓は、このあたり、高嶋家墓地の北方にあったといわれているんです。
このあたりではないかと、高嶋家の墓域から写した写真が上なのですが、今、気づきましたっ!
ひいっ! これ、北ではなくて、東だったみたいです。山の上の方が北と、勘違いしていたんです、私。
としますと……、あの白髪の男性が補修なさっていた墓域のすぐそばで、より薩摩墓に近いところ、ですよねえ。うっかりしてましたわ。
次回に続きます。
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