桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編です。
続編なんですけれども、まったくもって桐野は関係ない話ですし、タイトルを変えました。
書く予定はなかったんですけれど、fhさまにお電話しましたところが、昔、沢村惣之丞に関することを大久保の書簡で見てブログに書いたことがある、ということでして、さっそく見せていただきましたところが、どーしても、書かないではいられなくなりました。
今回、私は原本を見ておりませんで、fhさまのご厚意によります。
鹿児島県史料のなかの大久保利通史料より、慶応元年(1865年)8月4日付新納・町田宛大久保書簡です。
つまり、ちょうど伊藤博文と井上馨が、薩摩名義での武器と蒸気船調達に長崎へ出かけ、井上は7月28日に、小松帯刀、近藤長次諸とともに長崎を出港していますから、鹿児島入りしていたときの話です。
実は、その鹿児島には、開成所(薩摩の洋学校)の教師として、沢村惣之丞がいます。
大久保の手紙の宛先は、当時、密航してヨーロッパにいました新納刑部、町田久成。
新納刑部は、五代友厚とともに欧州を視察しますとともに、薩摩のいわば外交使節団の長ともいえる存在でしたし、町田久成はイギリスにいました薩摩留学生の長です。えー、二人とも門閥ですから。
といいますか、これまでいく度も書いて参りました、「少しははばかれよ幕府を!」と叫びたくなりますくらいド派手な、薩摩のヨーロッパ密航使節団および留学生のメンバーです。
開成所益振起之内ニ而英学之方は当分牧退蔵教授方ニ而、其余近頃両三輩長崎より御雇入相成指南方いたし、蘭之方八木死後石川旅行等ニ而師員人数相闕候処、是以近頃江戸より三人御雇下ニ而指南方いたし候付、子弟中も一同差はまり奮励之向成立、無此上事ニ御座候、右蘭学者は勝安州門生一人(前河内愛之助)有之候、人物至而面白、数学ニ長候由
洋学校もますます盛んになっておりますが、英学につきましては、牧退蔵(前島密)が教授で、そのほか、最近2、3人長崎より教師を雇い入れています。
蘭学は八木称平(前田正名のお師匠さんです)の死後、石河が旅行に出て、教師の人数が足りなかったのですが、最近、江戸から3人雇いましたので、生徒たちもやる気になっております。
蘭学者のうち勝海舟の門人が一人いまして、前河内愛之助(沢村惣之丞)といいますが、非常におもしろい人物で、数学が得意だとのことです。
ド派手な使節団と留学生を出しまして、薩摩藩の洋学校・開成所では、先生が足らなくなっております。
えー、えーと。さっぱり忘れておりました。
ここで前島密が英語の教師になっているんですね。
前島密は、 函館で武田斐三郎に洋学と航海術を学んだ人ですから、それで、生徒だった薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が、江戸に帰りました斐三郎の洋学塾に入ったわけなんですね。納得。
その前島密が長崎から呼び寄せました2、3人の英語教師の中に、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で書きました林謙三、後の男爵・安保清康、龍馬の最後に近い時期の手紙の受取人で、龍馬と慎太郎の暗殺現場に立ち会いました人物が、いたようです。
桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・中編に出てまいります小松帯刀書簡で、龍馬が船を江戸へ借りに行っていることが知れますが、沢村惣之丞は、これに同行していました。
龍馬は翌慶応元年の春、京都にいたことが確認できますが、どうも沢村は、江戸で直接、薩摩藩に雇われまして、鹿児島へ行き、洋学校のオランダ語教師になったようです。数学が得意!だそうですから、この人は、航海術もいけたんでしょうね(笑)
で、その沢村が大久保に、こう言ったんだそうです。
当分ニ而は御国より遠行之事江戸辺ニ而も申触、眼ある国々ニ而は別而欣慕いたし居候由、尤有志之洋学者ハ是非薩ニ就テ志を述セん事を欲シ候
「薩摩藩がヨーロッパへ留学生を出したことは江戸でも噂になっていましてね、先見の明のある藩では、それはいいことだと憧れていて、留学したいと思う洋学者は、ぜひ薩摩藩に就職して望みを果たしたい、と思っているんですよ」
ひいーっ!!!
これ、昔、fhさまのブログで読ませていただいていたんですけど、前後の事情がわからず、ユニオン号事件に関係していますとは、夢、思ってなかった、です。
普通に考えまして、沢村は、このとき鹿児島で、近藤長次諸に案内されて来ました井上馨に会い、井上が大久保と会ったときにも、長次郎とともに同席していたりしたんですよねえ。
それで、井上のイギリス留学の話になり、薩摩藩の密航留学で高見弥一も行っているという話になり(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)、長次郎とともに、うらやましいな、と言い交わしていたり、したんでしょうね。
その後、長次郎にのみ留学の話が持ち上がって……、と考えると、なんとも切ないですね。
龍馬の手紙 (講談社学術文庫) | |
宮地 佐一郎 | |
講談社 |
この直後、坂本龍馬も慶応元年9月9日付け実家宛の手紙(青空文庫・図書カード:No.51409)で、「御国より出しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗(人)も渡り候て、共ニ稽古致し候よし」(土佐脱藩者の一人は、海を渡ってイギリスの学校へ入っているんだよ。日本からいま、三十人ばかりイギリスに行って、いっしょに勉強しているらしいよ)と、薩摩、長州の密航留学を語り、土佐の高見弥一がその中に入っていることを、誇っています。
推定の上に推定を重ねた話にしかなりませんけれども、私は、龍馬は、近藤長次郎と中岡慎太郎、青山伯(田中光顕、じじいです)の三人が、伊藤と井上の好意で欧州へ行かせてもらえるという話を知り、承知していたのではないか、と思っています。
そして、これも以前にfhさまが書かれたことなのですが、それから一年以上立ちました、慶応2年暮れ。
この年、幕府は海外渡航を解禁し、各藩から、留学生の数は飛躍的に増えています。
中岡慎太郎全集 | |
宮地 佐一郎 | |
勁草書房 |
「中岡慎太郎全集」収録の「行行筆記一」、慶応2年(1866年)12月8日条です。
聞、岩下、新納、各知行五百石を出し、小児を外国に出す云々。
岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した、と聞いたよ。
一橋慶喜に将軍宣下があった三日後です。
慎太郎は京都にいて、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛などと、盛んに会っています。
だれから聞いたのか、薩摩藩の重役、岩下方平と新納刑部は息子を留学させるために、知行五百石を費やした、というんですね。知行五百石って、いくらになるんでしょう???
まあ、門閥でしたから、小さな息子を私費留学させてやれた、ってことなんでしょう。
新納刑部の息子・武之助(竹之助)くんにつきましては、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたを、岩下方平の息子・長十郎くんにつきましては、岩下長十郎の死を、ご覧になってみてください。
恵まれた彼らにも、それぞれに悩みも悲しみもあったのですが、しかし慎太郎はこのとき、近藤長次諸の死に思いを馳せたのではなかったでしょうか。
そして、おそらくは、なんですが、長次郎の死とともに潰えました、自分たちの洋行にも。
およそ一年の後、慎太郎は林謙三に看取られましてその生を終え、間もなく、沢村惣之丞も自刃して果てます。
竹之助と長十郎の留学を聞いた後、慎太郎は小松帯刀の家へ向かいながら、小雪舞う空を見上げて、深く溜息をついたのではないかと、ふと、そんな気がしました。
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近藤長次郎や中岡慎太郎らの洋行への思いは以前からあったのでしょうが、彼らに、井上や伊藤に強い影響を与えた高杉のかなえられなかった洋行への思いが伝わっていたのではないのだろうかと、ふと、思いましたね。
この時期の近藤長次郎や中岡慎太郎と高杉晋作との関係を論じてもらえると嬉しいですが。
それから、沢村が強引に近藤長次郎を難詰したというのは、後の勤王史で沢村に全て罪をかぶせてしまった内容とは取れないでしょうかね。確かに、沢村と近藤長次郎は土佐藩の仲間と言っても、出が違うというところはあるので二人は肌合いが異なりますが。
本当に、沢村が強引に長次郎を追いつめたかは、多少の疑問が。
でも、面白かったです。題名が桐野だったのに、まったく横道に入りながらの論説は。
高杉の洋行するのしないの騒ぎは、近藤長次諸の死のおよそ2ヶ月後のことです。長次郎の死で高杉が乗り出すことになりまして、ユニオン号事件を解決し、同盟をかためますために、「どうぞ返書を」といいます長州藩主父子から薩摩藩主父子への再度の書簡を手渡そうと、高杉と伊藤が長崎へ行きましたところが、一足ちがいで、小松、西郷が鹿児島に帰ってしまっていて、「鹿児島まで届けに行きたい」と留守役にかけあうのですが、「書簡はかならず届けますが、いま長州のお人が鹿児島へ行くのはちょっと困る」といわれて、入国できず、パークスと会見するつもりでいたのも予定が狂い、突然、洋行する!に、なったようです。なにしろ、貞ちゃんの従兄弟ですから。
近藤長次郎が自刃しまして、そうなっては他の土佐人も洋行できないでしょうし、私、グラバーのところに、長州のお金が余分にあったのではないか、と、思っています。つまりは長次郎が行くはずだったお金で、高杉は行くつもりだったのではないか、と。
ただ、証拠がまるでないんです。
沢村が強引に長次郎を追いつめた、とは、私は書いておりません(笑)
書いているのは、維新土佐勤王史ですが、どうなんでしょうかしら、ねえ。
とりあえず、桐野の名前が出てきませんでしたら、私、河田小龍にも近藤長次郎にも、まったくもって興味がなかったものですから、タイトルが桐野中心になったんですけど、書いているうちに、書いている人物が愛おしくなってきまして、どんどんと興味がひろがるんです。
好きなことを好きなだけ、好きに書けますのが、仕事ではない文章のいいところでして、私、だれからも、どこからも、お金をもらわないで書いていますから、これでいいんですわ(笑)
慎太郎は、間崎哲馬の弟子です。
だから高杉と話があった、ということはあると思いますが、
海外へ出ることを、高杉の影響で望んだ、ということは、あまり考えられないと思います。
間崎は、安積艮斎塾の塾頭だった俊才でして、沢村惣之丞も間崎の弟子ですし、早々と間崎が切腹して死んだ、といいますのも、土佐勤王党の悲劇ですよね。
せっかくですから、ぜひ、どなたか私に、喧嘩を売りに来てくださらないものでしょうか(笑)
そして、(脱藩して自由の身である)中岡や近藤に高杉は自分の洋行の夢を語り、代わりに行けと託していたのではと。
ですから、長次郎にも漢詩を書いているし、辞世の句も、やりたいことは別に(すなわち洋行など)あったのだがと、「おもしろき無き世をおもしろく」と。
ふと、そんな気がした。中岡と近藤は高杉のそんな心情を知っていたのではないかと。
だから、高杉がユニオン号の金を自分のために使うというような意味合いを述べてるのは、やや疑問。
それから、土佐の風土というか、坂本は現実主義的で「とうふの角にぶつけて・・・・」と切腹などしないタイプだけど、
間崎哲馬も平井も、武市も脱藩もせず逃げもせず切腹している。この二面性。
彼等は藩に拘っていた感じで狭いというか。
沢村も潔いし、それは良いとして、彼らと似ていたのかも。
土佐というのは海に面していたのに卑屈な閉鎖的な面も、感じられる。
(そこゆくと、この時期の長州、薩摩の藩士はなかなかしぶとい。西郷もなかなか自害などしていない。桐野もそうですよね。戦い死んだ。土佐の幕末の二面性ですか。)
ここが近藤長次郎ととの違いだったのかと。饅頭屋のせがれで、間崎哲也とは、実は肌合いが違っていたのではないか。近藤は逆に。
近藤は長州の井上や伊藤らのような金銭感覚に明るいという気質と、意外と通じていた。肌があったのかも。
その違いが、近藤長次郎の死かなと。
長次郎が洋行するはずだったお金は、結局、長州密航留学生への追加送金とオテント丸にばけたので、グラバーへの支払いが足らなくなったんだと、私は思ってます。
龍馬は、言われているほど藩から離れていないと思いますよ。といいますか、藩籍なくして、なにもできない時代でした。だから中央集権をめざした、といえば、そうなんですが、私は、もう少し分権的な方向も、あってよかったのではないか、と思っています。
間崎哲馬は、非常な秀才で、長次郎もそうです。伊藤、井上は、高杉とちがいまして、まったくもって秀才タイプではないんです。井上、伊藤は金銭に明るかったわけではなく、どこにどうたかればいいのかを知っていただけで、経営センスはまるでなかったですから、五代や岩崎とは、だいぶんちがいます。
長次郎は、五代や岩崎のたくましさはありませんでしたし、間崎や高杉の方に似て、いわば、秀才だからガキ大将的な龍馬に憧れてしまったんでしょうね。それが身を滅ぼしたんだと思います。
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/html/kenkyu/kenkyu_031.html
に書いてありますが、佐世八十郎(前原一誠)宛書簡で、本人が長崎にて記しています。同時期、伊藤の、確か井上宛だったと思うのですが、長崎からの書簡にも、その旨書いてあります。
それに、高杉の漢詩は、近藤が生存していて洋行に行くと思って書いたものだと思うと、二人は以前から洋行の話をしていたのだとも推察できる。従兄弟に伝えてくれですから。
だけど、近藤長次郎も中岡も洋行出来ず、高杉は病気が進みつつあって無理かもと思いながらも体力が残っている間にと「近藤らがいけなかったのなら、では俺が行く」と動いたのではと。(それが手紙に書かれた内容かと?)
でも、体力的にも厳しく藩の大事もありと高杉は諦めた。推察だけですがね。
これの方が、三人のロマンがありで。
その意味では、高杉の洋行費は、郎女さんの推理も間違ってはいないとも取れますけど。
(高杉が背後で近藤長次郎の洋行を企画したとすれば近藤の洋行費の出所も高杉は考えていたということで、辻褄も会うのかなと。)
龍馬も藩というのをないがしろにしていたとは思っていませんが、藩という窮屈さからは、当時は飛び出していたという感じですかね。
金銭感覚に明るいというのは、銭にもいやしいとか思わず、こだわりがなくうるさいという意味でして。言い方が悪かったようで。
当時の秀才というのは、まずは記憶力でしょうから記憶力が良いということは、反面では、自分の記憶、知識に捉われ易く保守的になり、
創造力という点では難点になることも多い。
近藤長次郎が、どのような秀才であったかは分からないのですが、明らかに長次郎は藩という束縛などは武士で無かったのですから間崎などとは違っていたかも。
そして、彼は向上心や出世欲が強く本心は政治変革とかで、当時、動いていたのではなかったのではないか?あくまで、どのような政体でもテクノクラート、官僚的存在として生きられる、生きようとしていたのかもしれません。
(だから、冷静で、龍馬に惚れたというのも、なんとなく違うのではないかと思っているのだが。)
そこが、勤王党に入っていた沢村らとは違い、事件では沢村らの琴線にふれて、自害に追い込まれたのではないかとも?
西洋の知識が押し寄せ、現実に黒船が現れ、時代が沸騰していたんですよ? 現在みたいに、現実から遊離したお勉強が、お勉強としてあったわけではないです。
間崎は、残された手紙を見ましたら、かなりな奇人変人の類です。高杉も素っ頓狂ですが、双方、すごみのある秀才です。
ノブさまは、あんまりにも想像だけでおっしゃるので、私にはついていけませんです(笑)