近藤長次郎とライアンの娘 vol6の続きです。
私、グラバー談話につきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」を見て、すでに考察いたしました。この大筋が、ちがっていたわけではないのですけれども。
真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実 | |
山本 栄一郎 | |
文芸社 |
ところが、ですね。
山口県立図書館から届きましたコピーを読んでおりますと、グラバーは、実に生々しい話をしております。
以下、引用です。
その翌日坂本龍馬といっしょに来た人が、佐々木という人だろうと思いますが、それはたしかではありません。しかし二人で来て、上杉(長次郎)は非常に立派な自害をしたと話しました。ほんとうかと訊くと、ほんとうだと答えましたから、なぜ自害したか、どういう理由で死んだかとたずねました。するとわれわれ同志が盟いを立てたことがある。それを破ったから死んだという。よろしい、それなら私は刀をもらう約束がしてあるからそれを渡してくれというと、それはやるわけにはいかぬという。これは怪しからぬ、上杉はおまえたちが盟を破ったために自殺させたということであるから、殺したおまえたちに、その責任が生じてこなければならぬ。どうしてもその刀は受けとらねばならぬと談判したところが、坂本は顔を青くしてよく考えてみようという。実は、その刀は死骸と共に埋めてしまったのであるが、しかいう理屈をグラバがいうならば、よく考えてみようというので、乗物に乗って出て行った。やがて、短刀の方は持ってこなかったが、大きい刀を持って来てくれた。その刀は、この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました。
まず、ですね。このインタビューが行われました時期の訂正から、いたします。
中原邦平は冒頭で、「今日の質問は、ミストル・グラバの履歴を調査するためではありません。旧長州藩(すなわち毛利公)の歴史編輯の材料ならびに伊藤井上二公の事績調査の参考とするのであります」 と言っていますし、グラバーの談話中「この間まで持っていましたが、芝の火事で焼いてしまいました」とあります芝の火事は明治42年4月のものと思われ、どうも、グラバー死去(明治44年12月)の直前、明治43年か44年ころのようなのです。
そうだとしますならば、「井上伯伝」出版(明治40年)より後ですし、おそらくは、ほぼ4行分に黒々と墨線が引いてあります井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれた後、と思われます。
(追記) 芝の火事でグラバー邸が焼けた時期を、私、勘違いしていたことが判明いたしました。詳細ははぶきますが、内藤初穂氏の「明治建国の洋商 トーマス・B.グラバー始末」によりますと、芝のグラバー邸は1893年(明治26年)3月20日に火事で全焼しまして、以降、グラバーは芝に邸宅は持たなかったそうなのです。一方、グラバーに受勲を、といいます動きは、岩崎弥之助によりまして、明治31年ころから始まっているのだそうでして、どうも、明治30年ころの聞き書きであった可能性が出てまいりました。このことは、次回の考察で反映する予定です。
井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」と「井上伯伝」のどちらが先に書かれたかは悩ましいのですが、「井上伯伝」が長次郎の死の原因をどう記述しているかと言いますと、近藤長次郎とライアンの娘 vol2ですでに書きましたが、なにしろ山 栄一郎氏がおっしゃいますように、「井上伯伝」は、馬場文英著「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしています。
したがいまして、リアルタイムに社中の三人が薩摩屋敷に届け出ました、野村宗七日記の「同盟中不承知之儀有之」 から、大きくはずれるものではありませんし、「土藩坂本龍馬伝」そのままと言ってよく、桜島丸(ユニオン号)に長州海軍局の中島四郎が船長として乗り込み、長崎へ現れたので、約束にたがうと薩摩藩士が怒った、ということになっていて、以下のように記しています。
「上杉はこれがため薩長連合の進行に破綻を生ぜんことを憂へ、責を一身に引請けて自刃したり」
ただ、小さく以下のような説もあることを載せているんです。
「海援隊士が上杉に迫りて自殺せしめたるは、汽船購入に就き、彼が長州より巨額の金を収受したりとの嫉妬的非難もありたりといふ」
これ、近藤長次郎とライアンの娘 vol5でご紹介しました井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の話を要約しただけと思えまして、とすれば、坂崎紫瀾が書いたと思われます井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、明治40年以前に書かれたものでしょうし、先に推測しましたように、紫瀾は中原邦平より先に、ユニオン号事件につきまして、グラバーに話を聞いていたのではないでしょうか。
むしろ、中原邦平は、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の異説に誘発されまして、「井上伯伝」出版後の明治43年か44年ころ、再びグラバーに話を聞こうと思い立ったのでしょう。
したがいまして、最初に引用しました生々しいグラバー談話を、です。紫瀾がそのまま先に聞いていたかどうかはわからないのですけれども、大正元年の「維新土佐勤王史」に、少々は反映されているように思われまして、似たような感じでは、聞いていたのではないでしょうか。
要するにグラバーは、「社中のメンバーは、長次郎が死んだ翌日に『上杉(長次郎)は非常に立派な自害をした』と言いに来たが、自分には信じられなかった」といいますことを、後年まで、覚えていたんですね。
「土佐史談240号」収録の皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る」から、野村宗七(盛秀)日記の関係部分を、孫引きさせていただきます。お断りしておきますが、適当に漢字を開いたりいたしますので、正確なものではありません。
1月13日(晴)
御邸へ出蘭岡色爾ボードウィンへさしこし、それより伊地知大人(壮之丞、貞馨)へさしこし候ところ、土州家上杉宗次郎(長次郎)あい見え、今夕、伊地知大人ならびに喜入(摂津)氏、上杉と小島屋
1月14日(朝5時ころまで雨、昼晴)
英人ラウダへ8後さしこし、今晩、上杉宗次郎、伊東春輔(伊藤博文)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とガラバ別荘へ約束いたし置さしこし候
1月23日
今晩8前、土州家・前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛入来。上杉宗次郎へ同盟中不承知の儀これあり、自殺いたされ候だん、届け申し出候間、翌朝、御邸・伊(伊地知壮之丞)、汾(汾陽次郎右衛門)そのほかへ、届け申し出候
1月24日(晴)
上杉旅舎自殺いたし候小曽根方へさしこし、前河内と会とり、なおまた、始終を聞く。ガラバ方にて、伊東春輔と面会、上杉が次第を話す。
伊藤博文は、このときグラバーの別荘に滞在していました模様で、あくまでも野村の日記によれば、ですが、長次郎の死を伊藤とグラバーに告げましたのは、薩摩藩士である野村本人です。
しかし野村は、その前に沢村惣之丞に詳しい話を聞いているのですし、野村とともにか、その前後に別にか、どちらにせよ、社中のだれかが、伊藤とグラバーに話をしに行かない方がおかしいでしょう。
この伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」(近代デジタルライブラリー)、いったいいつ聞いた話なのかわからないのですが、伊藤が死んだのが明治42年ですから、グラバー談話よりも前であることは確かです。
で、グラバーとともに長次郎が死んだことを聞きました伊藤博文は。
「小松帯刀が、この男は後来役に立つ男だといって、いくらか金を出して洋行させることにした。それを他の海援隊の奴が聞いて、けしからぬといって切腹させてしまった。その前日なども一緒に酒を飲んでいたが、翌日になって、昨夜腹を切らしてしまったというような話だった。気の毒なことをした、これが一番役に立つ男だった」
翌日に、おそらくは社中のメンバーから長次郎の死を知らされたグラバーと伊藤は、後年ですが、口をそろえて「長次郎は小松帯刀に洋行させてもらうことになっていた。それが原因で、社中に迫られて詰腹を切らされた」 と言っているわけです。
前回もご紹介しました犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」(日本歴史学界の「日本歴史 453号」p34-51)によりますと、長次郎の死後、慶応2年3月26日に長崎を出ました第2次薩摩藩米国留学の第一陣は、渡航の世話から留学中の費用一切、アメリカ商人ロビネットに任されていました。グラバーには一切、関係ありません。
したがいまして、井上聞多が長次郎に頼んでおりました「薩摩の留学生に長州人もまぜて欲しい」という点に関しましては、1月13日、長次郎が、野村と伊地知壮之丞や喜入摂津などと会っていたときに、話し合われた可能性が高いと思われます。
ではいったい、その翌日、1月14日にグラバーの別邸で、長次郎と野村に伊藤、千屋寅之助が話し合ったのはなんだったかと言いますと、もちろん、ユニオン号のことであったと思われます。
しかし、千屋のいた席でその話が出たかどうかはわかりませんが、グラバー、伊藤、長次郎の三人は、前回、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡から推測しました「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」ということについて、頻繁に、つっこんだ話をしていたと思います。
薩英会談の実現に、グラバーは相当に尽力していますし、下関開港は、グラバーの悲願でした。
そして、薩摩に頼っての長州人の留学話にしろ、薩英会談に長州の代表を出席させる話にしろ、双方、井上聞多と伊藤博文が、近藤長次郎個人に頼んだ話でして、伊藤にしてみましたら、龍馬は別格として、社中の他のメンバーには、いっさい関係のない話なんですね。長次郎にしましても、薩摩側の判断がどう転ぶかまったくわからない段階で、長州からの頼み事を他にもらすことは、むしろ、してはならないことではないでしょうか。
後年の伊藤の話が、どこまで正確なものなのかはわからないのですが、伊藤のいいます通り、長次郎が死にましたその日、伊藤と長次郎と社中のメンバー、それもおそらく沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が酒を飲んでいたのだとしまして、酒の勢いで、伊藤がなにげなく留学の話を長次郎に聞いたりするようなことが、あったのではないでしょうか。
土佐勤王党のこの三人にしましたら、日頃、伊藤は長次郎ばかり特別扱いで、自分たちには、なにも話してくれない、という不満が募っていたのだと思います。
後年のことながら伊藤は、長次郎について「これが一番役に立つ男だった」と言っているわけですし。
後年の回想の上に重ねて、もはや憶測にしかならないのですが、長次郎が井上聞多から留学生についての周旋を頼まれていることは知らず、伊藤の言葉のはしばしから、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助は、逆に、長次郎の留学が長州の世話を受けたものだと誤解したのではないのでしょうか。
そして、伊藤と別れ、小曽根邸へ帰りました長次郎と沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の間に実際になにがあったのかこそが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分に書いてあることなのでしょう。
ユニオン号問題の解決とともに、「薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう!」としていましたグラバーと伊藤にとりまして、長次郎の突然の死は、呆然と、信じることのできないものでしかなかったと思われます。
グラバーの回顧談に出てきます坂本龍馬と佐々木を、坂崎紫瀾は「維新土佐勤王史」を書きました時点で、高松太郎と沢村惣之丞だったと、理解したのでしょう。高松太郎はともかく、なぜ沢村惣之丞が前面に出て来たのかは、今のところ、私にはさっぱりわからないのですが、後に、「維新土佐勤王史」の記述とともに、ユニオン号をめぐります社中の動きを検証してみますので、なにか、考えつくことがあるかもしれません。
私、書きながらでなければ、なにも考えることができないんです。
近藤長次郎とライアンの娘 vol5に書きましたが、後年の談話ですし、グラバーの記憶は、いろいろなことをごちゃごちゃにしてしまっているのですけれども、冒頭で引用しました部分、どうやら「長次郎が自殺などするはずがない!」と感じて、社中のメンバー、おそらくは高松太郎と沢村惣之丞を問い詰めました部分は、やけに生々しいんですね。
そして、長らくグラバーは、長次郎の形見の太刀を、大切に持ち続けていたわけです。
これ、やはり私は、死ぬ直前の岩崎弥太郎が、明治16年に出版されました「汗血千里駒」を見まして、そこに書かれました愛弟子・長次郎の死の原因に驚愕し、グラバーに話したんだと思うんですね。グラバーなら知っているだろう、という思いもあったのだと思います。
ご存知のように、岩崎弥太郎は後藤象二郎に抜擢され、土佐商会の長崎留守居役を務めますと同時に、龍馬の海援隊の経理も担当するのですが、長次郎の死について、龍馬と話したことがあったにしましても、近藤長次郎とライアンの娘 vol5で引用しておりますが、 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)のお龍さんの回想からしまして、龍馬は真相を知りませんでした。
河田小龍の塾からずっと長次郎と同じ道を歩み、長次郎の死後も遺児のめんどうをみたといわれます新宮馬之助は、このとき龍馬とともに京都にいまして、やはり事件の真相を、知ってはいません。
もしかしますと社中の三人の知らせを受けました野村は、グラバー、伊藤とともに、その言い分を疑ったのかもしれないのですが、薩摩人らしく「社中の連中のためにはそうしておいてやるしかなかろう。りっぱな自決といえば、長次郎の名誉にもなるだろう」と、追及しなかったでしょう。
そんなわけで、岩崎弥太郎にとりまして、「汗血千里駒」の記述は驚愕の種で、長次郎への哀悼の思いを深めて、長次郎の形見の刀を愛蔵していますグラバーに、あらためて話を聞いたのではないかと、思えるんですね。
つまりグラバーは、明治16年ころに一度、岩崎弥太郎に話したこともあって、明治の終わりになりましても、この部分のみは生々しく、自分が「殺したおまえたち」とつめよったこと、つめよられた「坂本は顔を青くし」たことなど、語りえたのではないのでしょうか。
実は私、千頭さまご夫妻にお目にかかる以前から、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は手に入れておりました。しかし、黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるかなぞ、いまさら考えてもわかることではないと、放り出していたんですね。
千頭さまご夫妻は、「長次郎は殺された」と確信しておられました。
私、かならずしも最初から、ご夫妻の確信に、同意していたわけではありません。
ただ、殺されたと言いましても、「酒の入った場で、感情の行き違いから言い争いになり、三人の誰かが勢いで、つい長次郎を刺してしまったのではないか」というお話でしたので、まあ、ありえないことではないけれども、と思いつつ、ユニオン号の話にしろ洋行の話にしろ、あまりにも情報がごちゃごちゃでして、整理して考えてみないことには、なんとも、と、ずっと留保しておりました。
ご夫妻が、「長次郎が自殺したはずがない」と思われます最大の理由は、出産が近い妻お徳さんに、なんの遺言もなかったことです。長次郎の死の二ヶ月後に遺児・百太郎は生まれていまして、長次郎は妻が出産の時にそばにいられないことはわかっていましたから、「こう名付けるように」という手紙は、出していたそうなのですね。
おそらく、なんですが、龍馬とともに上京しました新宮馬之助が、届けたのでしょう。
それほどに気をつかっていました長次郎が、なんの遺言もなく、覚悟の自殺をするでしょうか? ということです。
龍馬の影を生きた男近藤長次郎 | |
吉村 淑甫 | |
宮帯出版社 |
もう一つ。
ご夫妻は、「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」の著者、吉村淑甫氏とお知り合いです。
吉村氏は、90を超えられてご健在だそうですが、「書けなかったことがある」というようなことを、ご夫妻におっしゃったそうなのです。
これは私の推測なのですが、吉村氏が伝記を書かれました当時には、「玉里島津家史料」も刊行されておりませんし、また吉村氏は、野村の日記を見てみようとは、思いもかけておられなかったでしょう。
「維新土佐勤王史」に反論しますには、あんまりにも材料不足でおられたのではないでしょうか。
井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」の黒々と墨線が引いてありますほぼ4行分になにが書いてあるのか。
これ、短い伝記なのですから、なにも墨線を引いた部分を残さなくても、きちんと清書すればいいことなのです。
だのになぜ、わざわざ墨線を見せつけるように残したのか。
長次郎の死が不審なものであることを、後世に伝えたかったのだと、私には思えます。
妄想だといわれますとそれまでなのですが、墨線の下には「長次郎は、高松太郎と沢村惣之丞に殺された」ということが、書いてあったのではないでしょうか。
そして、それを坂崎紫瀾に話した人物は、高松太郎以外にいないでしょう。
反対から言いますと、高松太郎が、長年の胸のつかえを打ち明け、世間へ公表するかどうかの判断をゆだねる相手としましては、実弟・坂本直寛(南海男)の自由民権運動仲間で、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾以外にいなかったのではないでしょうか。
続きます。
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